Time to Say Goodbye(タイム・トゥ・セイ・グッバイ)
1997
EMI(Angel) TOCP-50399(07243 5 56511 2 9)
当盤のいくつかのトラックを聴くと嫌なことを思い出してしまう。といっても、そんなに大したことではないが。
メキシコの小都市Cuernavaca(その地名を耳にして反射的に「牛が食えるな」と思ってしまったのは私だけだろうか?)でホームステイしながら語学スクールに通いスペイン語を学んでいた時(1989年7〜8月)のことである。ステイ先には私が来る前から米合衆国人が複数下宿していた。また学校にも同国人が数多くいた。彼らは夏休みを利用して母国語以外の言語を身に付けようとしていたのである。「英語帝国主義」(H氏命名)に安住することを良しとしない。その心意気は敬服に値する。ただし彼らの西語発音は決して褒められたものではなかった。まず“a”、“e”、“i”、“o”、“u”の5母音がちゃんと発音できていない。英語の曖昧母音や二重母音のように聞こえることがやたらと多かった(例えば "porque" を「ポルケィ」など)。またタ行が破裂気味になるためチャ音が半分混じっているように響くのも耳障りであった。しかしながら、彼らのコミュニケーション能力は日本人グループのはるか上を行っていたのである。外国語の習得を容易にするという点で語彙や文法の類似性の方が発音上のそれを大きく上回るためである。何といっても私達は日本で70日間ほど付け焼き刃的に学習してきただけだから、いくら発音がそれっぽくても聞き取りやスピーチ能力が幼児レベルだったのは無理もない。(谷崎潤一郎「痴人の愛」のナオミ以下である。)そういう事情は十分すぎるほど解っていたけれど、私は口惜しくて仕方がなかった。当盤で聞かれる舌足らずな歌唱によって、その記憶が甦ってくるのである。
(本題に入る前に一矢報いるべくという訳でもないが余談:その語学学校でパーティを開いたことがある。食べ物は持ち寄りで、各国の代表的な料理を作ることになった。予算の制約から「ボリュームがあってそこそこ美味い」ものとして我々が選んだのが天ぷらと肉ジャガである。共に評判は上々だった。墨西哥人が出したのはタコス。ただしトウモロコシのトルティーリャの周囲を盛り上げて器状に成形し、中央にクリーム状の白色ソースを盛るという少々手の込んだものであった。結構美味しかった。さて、亜米利加人が持って来た大鍋の中身を見て私達は凍り付いた。最初はリゾットの類かと思ったのであるが、実は伸びたスパゲティだった。いや、そんな甘っちょろいものではない。汁を吸えるだけ吸ってブヨブヨに膨れ上がったデンプンの塊だったのだ。フォークを使って皿に取ろうとしたらボロボロに崩壊。もちろん(麺類の命ともいえる)コシもへったくれもあったものではない。感想を訊かれても「ジャパニーズ・スマイル」を返すのが精一杯だった。「一体何を考えて連中はこんな残り物を出してきたのか!」と彼らの非常識さを、もちろん悟られぬよう日本語で非難したのは言うまでもない。ところが、これがとんでもない誤解であったことを私は帰国後に知った。「NHKラジオ英会話」を聴いていたある日のこと、講師の大杉正明が米合衆国人レギュラーゲストに「ごちそう」について訊いたところ、2人のどちらかが1日置いたスパゲティの話を始めたのである。彼/彼女の家ではパスタを作る時は常に多めに茹で、残った分を一晩寝かせておくのだという。そうすることで中まで味が染み、作りたてよりも格段に美味しくなる。すなわち、本家イタリアはもちろん今や日本でもすっかり馴染みとなった「アルデンテ」の食感を愉しむための料理ではなく、おでんのような煮物の一種と位置づけていたのである。たしか2日目のパスタを巡って家族間で争奪戦が起こり、それどころか摘み食いのせいで食事前になくなってしまうこともあるという話だった。つまり、あの日の米合衆国人達も考えられる限りの御馳走を出してくれた訳である。遅まきながら好意的に受け取るべきだったと知った。若気の至りとはいえ異文化に対する理解が全然足りなかったと反省している。とはいいながら、あれを美味と思えるという彼らの感覚にはちょっと付いていけんなぁというのが偽らざる心境である。彼の国の民主主義もそうだが、味覚の方も世界のスタンダードとなる日が絶対に来ませんようにと願うばかりである。)
そんな訳で、ドゥルス・ポンテスの紹介ページに「世界三大美声女性歌手」を挙げた私だが、ブライトマンを外した理由は他でもない。声そのものは間違いなく世界でもトップクラスながら、英語以外で歌うと訛りが凄まじいからである。(彼女も会話能力には優れているかもしれないが・・・・)
当盤の14トラック中、歌手にとって「外国語」(西語、伊語およびラテン語)の歌詞の付いた曲が圧倒的多数(12)を占めているから高得点は絶望的である。が仕方がない。以下、思うままコメント(イチャモン)を記してみる。
冒頭収録のタイトル曲についてはデュエット相手(アンドレア・ボチェッリ)のディスク評に回すつもりだったが気が変わった。ページ汚しはここだけにしておく。"Su le finestre mostra tutti..." 以下のモタモタぶりに苛つかない人間が果たしているのだろうか? 全世界で1500万枚のセールスを記録したという話だが、ちゃんと歌える歌手を使っていたら10倍売れたのではないかという気さえする。サビの "veduto e vissuto e conte" なども私にいわせれば全くのデタラメである。まともなのは結局 "time to say goodbye" だけ。こんなことなら全部英語で歌わせれば良かった。次の "No one like you"(英語曲)は飛ばす。
3曲目 "Just show me how to love you" も英語タイトルだからと油断してはいけない。歌詞は伊語である。女性歌手にはもう期待していないからスルーするとして、ここでは共演者も問題である。0分52秒から突如入ってくるホセ・クーラである。何という鈍重な歌唱! 既にJ・ノーマンのページに書いてしまったが、私は何故にクーラがこれほど持てはやされているのかがどうしても理解できない。(ついでながら、サルヴァトーレ・リチートラの人気も私には不可解である。)「ポスト三大テノール世代」として他に名が挙がるロベルト・アラーニャやマルセロ・アルバレスなどは、物足りなさを感じるとしても各々の良さをそれなりには認めている。ところが、クーラは全然美声でないどころか、力任せに声を張り上げているだけなので聴いていると腹が立ってくる。こんな輩はすぐ消えるだろうと思っていたのに、まだ生き残っているから不快感は募るばかりだ。(そういえば、人気が出始めた頃にダメ出ししていたのは渡辺和彦だったか?)奴が厚かましくも2曲に乱入しているというだけでも20点(10×2)引きたいくらいである。(憤懣ついでにもう少し。「ホセ」と名の付くオペラ歌手に当たりなし。バスのヴァン・ダムも私的には今2つぐらいだから長いことそう思ってきた。ところが、少し前にNHK教育テレビ「芸術劇場」で紹介されたJoseph Callejaというマルタ共和国出身の新進テノールはなかなかに良い。ちなみにインタビューには流暢な英語で答えていたが、彼の国でマルタ語とともに公用語に加えられているとは全く知らなかった。同じくどうでもいい話だが、日本に来たらやっぱりカレー屋に連れて行かれるんだろうか?)
次のジプシー・キングスのカヴァーも全く買えない。発音もさることながら、オリジナルより低く移調しているため切迫感が何割も減ってしまっている。途中の大袈裟な叫びも興醒めだ。ついでながら曲名の日本語表記(テ・キエレス・ボルベール)もペケ。誰だ? これじゃ文法的にヘン。もしかすると "me quero"、"te quieres"、"se quere"(以下略)のように再帰動詞 "quererse" の活用形(二人称単数)として「自分を欲する」という意味で使うというのもアリなのかもしれない。ただし、この場合は動詞の原形(volver)が続いているから「○○することを望む」という用法しか考えられない。却下。(←我ながらクドい。)種類は違うものの西語曲タイトルの誤記をケース裏にもう一つ発見した(中の表記は正常)。10曲目 "Naturaleza muerta" を「ナトゥラレーラ・ムエルタ」とヨーグルトの銘柄みたいにしてやがる。(やっぱり杜撰な会社はどこまでいっても杜撰である。食品を扱う業者ならとっくに倒産していたはず。)この曲は上方への移調が切なさを却って減じているような感があった。この分だと "Tú" や "Hijo de la luna" といったメカーノの他のカヴァーも大したことはなかろうと思ってしまう。
一つ戻って"La Wally"(さようなら、ふるさとの家よ)にも辟易させられた。オペラのアリアだから大胆な表情づけ自体はOKなのだが、例の稚拙な発音のせいで全てが台無しだ。アンコールとして収められた "O mio babbino caro"(私のお父さん)も同様。思うに、英語圏出身にもイタリア歌劇の役柄を見事に演じている歌手は五万といる。いくらブライトマンが覚えが悪いとしても、これはあんまりだと思う。よっぽど耳が悪いのか頑固なのか。(どっちだ?)
それでも11曲目 "En Aranjuez con tu amor" はまあまあ聴けた。他に私が持っている、あるいは聴いたことのある何種かの西語歌唱の中では最も出来が良い。発音は相変わらずだが、おそらく曲想と芸風がうまくマッチしたためだろう。ラテン語による2トラック(12&14)も当盤中では上の部類に入る。後者は「アレルヤ」(alleluja)を繰り返すだけだが。
ガチンコで採点すると悲惨なことになるという予感がしたが実際にやってみた。80点が1曲。70点が2曲。60点が9曲、そして50点が2曲。これを平均して小数点第1位を四捨五入すれば61点。そこから曲名の表記ミスが2点ずつ引かれ結局57点となった。(あーあ。)
おまけ
海外盤としてはCoalitionというレーベルから "Timeless" というタイトルでも出ているらしい。とはいえ違うのはジャケットの文字と曲順("Time to Say Goodbye" がトラック12に入り、あとは繰り上げ)だけで実質的に同じといえる。
おまけ2
本文中の余談を執筆していて思い出したことがあるのでここに書く。
今のところ私の生涯で唯一となる米合衆国滞在でのエピソードである。2000年8月に短期間(18日間だったかな?)ながらミシガン州の国境沿いの街で過ごした。私の職場と提携関係を結んだ州立大学による夏期講習(生態学関係のフィールドワークが目玉)に参加することになった学生達のお守り役としてである。現地スタッフの献身的な働きぶりに感心&感謝することしきりだったが、中に西語ができる先生がいたので少しだけ話した。その人から直接聞いたのではなかったが、米合衆国人でもある程度以上の知識層になると自分達が英語しか話せないことを恥ずかしく思っている人が少なくないという話だった。(そう教えてくれたのは、たぶん同行の英語の先生だったと思う。)それが本当なら喜ばしいことである。
ちなみに外国人との会話に何語を使用するべきかについては自分なりに原則を持っている。第一に今自分がいる場所で話されている言語。(なのでポスドク時代にインドネシアで栽培試験を実施すると決まってから出発までの間、大学院生向けの初級クラスに入れてもらった。少しでもやっておくのとやっておかないのでは大違いだからである。私は言葉のできない国にはなるべく行きたくない。1週間ほどだったがタイでは非常に居心地が悪かった。)逆に我が国を訪れる外国人には流暢でなくでもいいから日本語を話してもらいたいというのが本音だ。世界のどこに行っても母国語で押し通そうとするような連中はH氏ならずとも軽蔑の対象となる。第二に中立の言語。私と米合衆国人が第三国で仕事をする場合を考えてみる。その場合に日本語や英語以外でやり取りするということである。(私としてはもちろん西語が一番ありがたいが、それが不可能なら英語よりもスキルが劣っていても仏語や独語、伊語などを選びたい。)ディベートの場合、どちらの言い分に理があるかではなく言語を駆使する能力によって勝敗が決してしまうことがある。だから、片一方の母国語で議論するのは絶対にフェアではない。一方あるいは双方が不便を感じることになっても、その方がまだマシである。同様のケースとして、来日直後で日本語が全く解らないという外国人との会話に英語を用いるのは何の抵抗もない。(もちろん相手が英語圏以外の出身である場合に限られる。アウェーは当然として中立国でもまあ我慢しているが、こちらがホームであるにもかかわらず英米人に対して英語を使うのは私にとって屈辱以外の何物でもない。)第三に西語。ナミビアでボリビア人と3週間ほど一緒に仕事をした時にはそれでやり取りした。先の原則に従えば他の言語(こっちが少し不利だが葡語あたり)を使うべきだったかもしれないが、向こうにとっては助かるし、すっかり鈍っていたのを鍛え直すことができて当方も大変ありがたかった。(実感としてパラグアイに住んでいた頃の9割ぐらいには戻った。)要は単なる家畜語(by本多勝一)嫌いのような気もしてきた。で、それが第四というか最終手段である。その前にエスペラント語を持って来たかったのだが、普及が一向に進んでいないという話なので習得する意欲すら湧いてこない。気は進まないものの家畜語頼みは当分続きそうだ。
おまけ3
上の滞在時には食事で大いに閉口させられた。ビュッフェスタイルによる朝食と夕食はまさに「質より量」そのもの。まず主食で躓いた。「セサミストリート」によく登場していたオートミールを初めて口にしたが、二度と手を出す気がしなくなった。シリアルの牛乳ぶっかけも全然好きではないため、私は消去法的にパンを選ぶしかなかった。常日頃からパン食をトコトン忌避しているというのに。野外実習の昼食時に決まって出される味も素っ気もない巨大サンドイッチから受けたダメージはそれ以上だった。それでも私は「あともう少し」と何とか耐えていたが、ついに学生達が音を上げた。それで川を渡ってカナダに入国し、中華料理を貪り食って彼らはようやく息を吹き返したのである。悪口ばっかり書いてるようだが、紙製のランチボックスを集めて皆で "No more lunch!" と叫びながら焚き火をした時にも米合衆国人達は苦笑いを浮かべていたから、彼らも料理の不味さは十分自覚していたのであろう。ちなみに翌年からは自炊するように改められたらしい。当然だ。
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