O Primeiro Canto(プリメイロ・カント)
1999(国内盤発売は2000)
Polydor 543 877-2(POCP-7449)

 本作の国内盤は2000年1月8日にリリースされた。その10日後に私はKさん主催BBSに感想を書き込んでいる。

  ドゥルス・ポンテスの新譜「プリメイロ・カント」、一度聴いて途方に暮れて
 しまった。凝りすぎで付いていけない。これまでのアルバムのように聴いてすぐ
 「これはいい!」と思える曲がない。四大元素(火・水・風・土)を歌うことが
 コンセプトということらしいが、ここまでマニアックなものが売れるのだろうか
 と他人事ながら心配になってきます。ライナーノーツの表紙写真も気持ち悪いで
 す。
  ただし、繰り返し聴くうちに良さが解るようになるかもしれないので評価は
 「保留」とします。(最後の曲はこれまで知るドゥルスの世界だったので、やっ
 と一息つくことができました。)

以下はさらに4日後の投稿からの抜粋。相変わらず不満タラタラである。

  もともと彼女はファドの枠に収まるような人ではないから、新作「プリメイロ
 ・カント」で思いっきり逸脱したのは当然だと思うのですが、最初に聴いたとき
 は「ファドを解体するにしても、もう少し違ったやり方でも良かったんじゃない
 ?」と思わずにはいられませんでした。それくらい戸惑ってしまいました。
  それでも5回目くらいからようやく耳に馴染んできました。(「最後の曲はと
 ても素晴らしいのにどうして奇声で終わるんだ?」といった不満もまだ残っては
 いますが・・・・)ただ、万人向けとはとても言い難い。やはり入り口に相応し
 いのは「ラグリマス」かな?

正直なところ私は最初全く理解できなかった。"Lágrimas" 評ページの「おまけ」に書いた「自分の敷いたレール」からも脱線してしまったかのようだ。道のない所を植生を押し分けながら進むことを登山用語で「藪漕ぎ」と言うらしいが、それを思い浮かべてしまう。(痛そう。)この際ついでに上で触れた表紙写真についても具体的に述べておく。最初は何が何やら判らなかった。タンカーの事故によって油まみれになった鳥かと思った。が、目を凝らしてみたらHomo sapience(L.)である。どうやら写っているのは歌手本人らしい。全身に砂か泥かを塗りたくって砂浜にたたずんでいる。何もまとっていない。両目とも瞑ったまま身を屈めている。フラミンゴのように片足で身体を支えているのかと思ったが、足を縦方向にクロスさせているようだ。左腕は肩から水平方向にまっすぐ左に伸ばし、右は二の腕までを垂直に、そして肘から先を直角に曲げて左腕と平行に伸ばしている。どうも上手く説明できていないようだが、腕の形は1980年代初期のお笑いブームでそこそこ活躍していた「ゆーとぴあ」(コントの二人組)の決めポーズ「もーおしまい」と似ていると言ったら分かっていただけるだろうか?(却って混乱させてしまったとしたら謝る。)いったいどういう経緯によって全裸をカメラの前で晒すことを思い付いたのか?(念のため書いておくと全然卑猥ではない。)それについては解説にて紹介されている。執筆者の中川ヨウもこの写真を見て衝撃を受けたのだ。彼女のインタビューに対し、歌手はこのように答えている。

 人の肉体も先の要素のひとつだと思うので、裸になり泥を塗って撮影す
 るというアイデアが浮かんだわ。砂や泥もまたインストゥルメンタルで
 すものね。私はもう実物以上にきれいに撮られることを望んではいない。

それはそうかもしれないが、「何もわざわざあんな奇態な格好をせんでも」「どうせやるなら(以下読者の想像に任せる)」とは言いたくなる。ちなみに「先の要素」についても解説で言及されている。それが上記私の投稿でも触れている「四大要素」である。ポンテスが語ったことには、地球上のすべての生物はどんなに科学が進もうとも、火、水、空気および土なしには生きていけない。そういった原点に、ミュージシャンとしても人間としても立ち返りたかった。そこで、まず詞の中にその要素を盛り込み、サウンドやアレンジもそれに添って作ってあるということだ。以後も歌手自身による説明が続いている。が、改めて読み返しても私にはどうもピンと来なかった。よって、ここは打っ棄ることにして批評に移りたいが、その前に注文しておきたいことがある。中川は「彼女は大変スピリチュアルな人である」と述べている。それが事実だとしても、そういうのは言葉ではなく、あくまで音楽として表現してもらいたい。(当サイトにて「ハッタリ野郎」呼ばわりしている某指揮者のことが頭にあったから私はこれを書いた。)
 1曲目 "Alma guerreira (Fogo)" を聴くだけでもこれまでの作品とは雰囲気がガラッと変わっていることを知るには十分だ。解説には「サウンド、歌声、表現。そのどれをとってもここにある音楽のうちに、一回りも二回りも大きくなったドゥルスがいた。」とある。それは嘘ではないだろう。だが、表現の幅をここまで拡げる必要があるのか私には疑問だ。聴き手に「あざとい」と感じさせてしまう寸前で留まっているのかもしれないが、とにかく危うい所に立っているのは確かである。特に驚いたのが4分過ぎから始まる叫びの激しさ。まるで大嵐が吹き荒れているかのようだ。(以下余談だが、よく考えてみたら彼女の持ち歌 "A brisa do coração" から連想したらしい。ちなみに、"brisa" は英語の "breeze" に対応する単語だから微風程度に用いるのが相応しい。実際邦題は「心のそよ風」となっている。ところが私は「ブリーザ」という響きからどうしても「ブリザード」(極地に見られる暴風雪)を連想してしまう。これが西語なら「ブリーサ」なので爽やかなイメージとピッタリ合うのだが。ついでながら中川もライナー中で「ア・ブリザード・コラサン」と大ボケをかましていた。)最後に祈祷らしきボソボソを入れた意図もよくわからない。
 続く "Fado-mãe" はその名の通りファドなのだが、声質をいきなり変えるなど技巧に走りすぎているような感もある。私としては並のファド歌手で聴くよりも気持ち悪かった。(13曲目 "Porto de mágoas" でも同様の気分を味わった。)3曲目 "Tirioni" は地方伝承曲を採編したということだが、ブルックナーも顔負けの休止符攻撃で盛り下がったまま終わってしまう。何故にこんなヘンテコな構造にしたのか全く不可解だ。(構成という点では10曲目 "Suite da terra" にも問題があるように思われてならない。)次はJosé Afonsoに捧げられたというタイトル曲の "O primeiro canto" だが、3分ちょっとという規模の小さい曲に意表を衝かれた。音楽自体もケッタイである。立ち上がりこそ静かだが、テンポが上がって二重唱になると慌ただしさが前面に出てくる。間奏から飛び込んでくるチャカチャカ打楽器とオッサンの口ずさむリズムを聴いていたら、こういうのはMaria Joãoが好んでやりそうなスタイルだと思った。(そういえば、2つ後の曲でジョアンが本当にゲスト参加している。サルゲイロとの接点がここでも見つかった。「ご対面」の日はそう遠くない?)ただし、彼女より重量感のあるポンテスの声だと少々ベタつき気味と聞こえなくもない。
 こんな風に書いていると揚げ足取り大会みたいに受け取られかねないし、自分としても楽しくないので止めておくが、一つことわっておきたい。今こうして試聴しているのは決して不快ではないということを。かつては耳障りだった部分にもすっかり慣れたからである。例えば6曲目 "Modinha das saias" の歌の出だしの不気味さ、9曲目 "Ai solidom" のサビで唐突に始まる「ズンチャッズンチャッズンチャチャズンチャッ」という剽軽なリズム(クラリネットが入るとチンドン屋みたいで、ここでも某指揮者を連想してしまう)、そして14曲目 "Ondeia (Agua)" の土壇場、それまでの熱唱を全て水泡に帰そうとしているかのような(「実はみんな冗談だったのよ〜」と言わんばかりの)「アーーーーーー」という奇声すらも。事実、購入して1ヶ月も経てば印象は随分と変わり、Kさんへの私信(2000/02/14)にはこのように綴っていた。

  ところで新作の「プリメイロ・カント」は、既に掲示板で述べたように100%は
 支持できませんでした。(今後、あれをベタホメしている評論家は信用しません。
 ただし、僕の評価は「偉大なる失敗作」というものです。前作「明日を夢みて」で
 は冒頭の「海から生まれしもの」(短い曲だけれども今1曲選ぶとしたらこれ)の
 みだった自作が大部分を占めており、まさに大胆な野心作というべきでしょう。細
 部に問題があるためについ文句を言いたくなってしまいますが、その作詞・作曲の
 レベルがただならぬものであることは認めています。彼女はまだ若いので今後相当
 数のアルバムを出すことになるでしょうが、後で振り返ったときに「プリメイロ・
 カント」がドゥルス・ポンテスの大きなターニング・ポイントであった、その後の
 音楽人生を決定するような重要な作品だった、などと言われるようになるだろうと
 いう予感があるのです。(文豪には「全作品を解く鍵」と呼ばれるような作品が必
 ずあります。それに近いものではないか、とも考えるのです。)

上の最終部分はドストエフスキーの「地下室の手記」を念頭に置いて書いた。それはともかく、いつか「あれが伏線だったのか!」と思わせるような会心作を発表してくれることを私は願っている。マドレデウスのように「信じて疑わない」とまで書けないのは、未だ不確定要素が多いように思われるからである。何といっても次作 "Focus" の出来が???(ディスク評参照)だったから。ま、あれが一種の息抜きだったと見なすことは可能であるし、ならば真価が発揮されていなかったとしても無理はない。(念願は叶ったのだから、ああいう企画はもういいだろう。)よって、その次に出るはずのオリジナルアルバムから彼女の今後の方向性と可能性を探ることになる。本作でポンテスはありとあらゆる可能性を試みた。あたかも風に乗せて種子を四方八方に飛ばすタンポポのごとく。どこに落ちたのが芽を出し、根を下ろしたのか。そして将来実を結びそうなのはどれか。それを厳しい目で見極めた上で彼女は新作を世に問うことになるだろう。私はそう勝手に予測している。
 採点は非常に難しい。前半では5曲目 "O que for, há-de ser" (邦題は「たとえどうなっても」で、どことなくマドレデウス "O Paraíso" の冒頭収録曲のタイトルっぽいが曲調は全然違う)、後半では何といっても終曲 "Ondeia (Agua)"(ただし奇声以前)は表現幅と曲のスケールが釣り合っているという印象で完成度が高い。感銘もひとしおであったから95点はやれる。他12曲も「尋常ではない」レベルはクリアしているものの部分的な「アレッ」によって相殺されて90点。これで平均値を出したら90.714285....となったので四捨五入して91点としておく。大雑把な計算だがまあ妥当な線だろう。

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