Caminhos(明日を夢みて)
1996(国内盤発売は1997)
Movieplay Portuguesa PE51.028(EMI TOCP-50171)

 当盤もトラック1 "O Infante" でいきなり感嘆である。ピアノ伴奏による歌曲だが表現はものすごく大きく、そして深い。中川燿による解説を読んで知ったが作曲者はポンテス自身とのこと。そちらの才能にも感心してしまった。(「学生時代に応募したオーディションに合格してミュージカルに出演」といったプロフィールしか出ていないが、もしかして音大の作曲科にでも在籍していたのだろうか?)が、本当のサプライズは次曲である。「ドッソーレラドッソーレラドッソーレラドッソーレラ・・・・」という単純音型の繰り返しにポンテスの鼻歌が時々混じるという人を食ったようなイントロが1分間続いた後に歌が入ってくる。これも前作1曲目と同様に聞き覚えのあるメロディだが、今回はすぐ判った。アマリア・ロドリゲスの十八番だった「暗いはしけ」である。ただし、当盤では "Mãe preta"(肌の黒いお母さん」の意)というタイトルが使われている。これも解説によると、「元はブラジルの黒い肌をした奴隷を歌った曲をフェレイラという詩人がファドに変え、それをロドリゲスが歌って大ヒットさせたが、ポンテスは原曲の持つ意味を伝えるために詞を戻した」のだという。それはともかく、ここには暗さはどこにもない。1分11秒から、そして1分22秒から高いドで始まる "Embalando....." 以下のメロディを天まで響けとばかりに朗々と歌い上げる。その後の "Mãe preta, mãe preta" (2分02秒および4分ジャスト以降)も同様で、雲一つない青空を見上げているような気分を味わせてもらった。この種の爽快さはカルロス・クライバー&ウィーン・フィルによる「運命」の終楽章冒頭を聴いて以来2度目だったかもしれない。歌手によれば、独自のものにしたいという意欲から現代的なアレンジを施したとのことである。私は彼女の心意気を買いたいし、こういう「やりたい放題」は大歓迎だが、果たして発表当時には諸手を挙げて受け入れられただろうか?
 "Lágrimas" 評ページにも登場していただいた元関西圏在住(今いずこ?)ネット知人Mさんは、「ファドをワールドミュージックに結び付け、ドゥルス版音楽地図第1版、というべきものになっていると思う。伴奏のサウンドをぶっこえた力強くのびる声は、次作でより骨太のサウンドとタメをはるようになる。」という感想をご自身のサイトに載せておられるが、この "Mãe preta" を聴いて「やってくれたなあ」と思われたとのこと。それをKさん主催BBSで読んだ私は、調子に乗って「何となくですが、ポルトガルの伝統的ファド愛好者の多くは『海の歌』までは許せたんだろうけれども、あのアレンジを聴いてキレたんじゃなかろうかという気がします」というレスを付けた。今思うと想像のままに書き散らしてしまった感もあるが、マドレデウスですら伝統的ポルトガル音楽の愛好家から非難されていたという話だから、例えばロドリゲスの崇拝者から「ファドの歴史を何と心得る! 彼女の偉大な業績に泥を塗るつもりか!」と怒りを買ったとしても何ら不思議はない。要は作風があまりに前衛的だったため保守的タンゴファンから総スカンを食らった「タンゴの破壊者」とイメージがダブって仕方がなかったのである。が、それゆえに私は「ファド界のピアソラ」(Mさん)の打ち立てた金字塔として最大級の賛辞を送りたいのである。
 次の "Fado Português" も編曲版である。ここでも大らかな歌唱は魅力的、そしてスムーズに流れる伴奏のため聴き心地は悪くない。ただしパンチ力に欠けるため、私には小さくまとまってしまっているように聞こえて面白くない。以降の曲も前作より安定感が増しているが、その分だけハラハラドキドキは減った。これは作り手の円熟および聴き手である私の慣れの双方が原因だろうが、どちらかといえば後者の関与が大きいように思う。それはそうとして、ポンテスに何を求めるかによって本作と前作のどちらを高く評価するかがハッキリ分かれるような気がする。完成度は互角だが、受けたインパクトの差によって私は僅かながら前作に軍配を上げたい。
 ということで採点だが、実は本作で一番気に入ったのは終盤に児童合唱が加わる10曲目 "Cantiga da terra" である。アルバムを締め括るにこれ以上はないという盛り上がりを聞かせてからフェードアウトして終わる。ところが何ということか、その後にまだ5曲も置かれているのだ! 次の "Filho azul" は全然悪い曲ではないのだが、ギターのイントロが聞こえてくると「まだあんの〜?」と違和感を覚えずにはいられない。満腹時に甘いデザートを出されたような気分だ。(私の場合「別腹」とはいかない。)また13曲目 "Ferreiro" にしても、どう考えたって "Cantiga da terra" より前でないとおかしい。おかしいのは私の感覚の方かもしれないが、ラスト5曲はいずれもスケールが小さく「尻すぼみ」と感じてしまうのも痛い。結局は自分勝手なクレームに過ぎないのだが、曲の配置に問題があるとしか思えなかった。そこで1曲1点ずつ引いて95点とする。
 なお、解説やMさんのコメント中にあった「ファド(およびフォークソング)とワールドミュージックの融合」が一歩前に進められているという見解を私も支持するが、中川のインタビューに対して「私は声を楽器のひとつと捉えていますから」と答えていたのは意外だった。情念がほとばしり、時に恨み節とも聞こえるようなポンテスの歌唱は「器楽的」という形容から最も遠いと思っていたからである。つまり、テレーザ・サルゲイロの対極に位置づけていたのだが、 "Obrigado" を聴いた今では両者の共演も成立するのではないかと考えている。「両雄(女性だから両雌か)並び立たず」という訳でもないけれど、以前は2人の芸風に共通性を見い出すことなど全くできなかったのであるが・・・・そういえば、当盤ではCarlos Nuñesがフルート及びガイタ奏者として4曲に参加している。この辺が接点になり得るかもしれん。

おまけ
 本文中で持ち出した「満腹時の甘いデザート」について。パラグアイ在住中のことであるが、私と同じく農業指導のため隣村に住んでいたドイツ系移民から夕食に招かれたことがある。パ国で最もポピュラーな御馳走であるアサード(asado、串焼き肉)をたらふく食べさせてもらった。(ただし一家がプロテスタント系のメノナイト派に属していたため酒はなし。)その後に出てきたのがアロス・コン・レチェ(arroz con leche)である。これは米を練乳(dulce de leche)、それがなければ普通の牛乳で煮込んだお粥で、仕上げには砂糖をタップリ加える。既にメキシコでも1度味わったことがあったが、その甘さは尋常ではなかった。なので本心では辞退したかったが、手を付けないのも悪いと思い無理して食べた。多少は控え目だったとはいえ甘いのは一緒、それよりも満腹のため胸焼けしそうだった。(なお、この料理はラテンアメリカに普遍的に存在するが、イベリア半島の連中が持ち込んだという話だ。)が、たとえ空腹だったとしても御飯に砂糖というのは生理的に受け入れ難い。私だけでなく日本人の多くにとってもそうだろう。
 とはいえ、これも実はお互い様である。ボリビア生まれの職場内の先生に聞いたところによると、中南米人は餡子が許せないらしい。原産地であるためインゲンマメ属(Phaseolus)植物の種子は古くから彼らの食生活において副食として非常に重要な位置を占めてきた。それゆえ「豆に砂糖とは何事か!」となる訳である。(実はアズキはササゲ属 (Vigna) なのだが、ともに豆類としてはデンプンの割合が高く、舌触りが似ているため同一視していると思われる。)だから餡を使った和菓子をすすめても「ウェッ」という顔をされることがままある。(これに対し、豆類への思い入れが比較的小さい北米人や欧州人には抵抗があまりないようだ。)
 ついでながらアイスコーヒーというのも「シンジラレナーイ!」んだそうだ。これは私が日本語を毎週教えているブラジル人達も同様である。もう一つ思い出したが、NHK教育テレビ「イタリア語会話」のレギュラー陣は、日本でカプチーノが朝以外に飲まれていることに対して猛烈に抗議していた。

おまけ2
 今度は砂糖攻撃について。私が住んでいた先住民の村ではそういうことはなかったが、「パラグアイ人」(混血)は異常に甘いものが好きで、コーヒーにはカップの半分ぐらいまで砂糖を入れるとのこと。(ただし、精製されていないため我々が見慣れている白砂糖を使う場合ほどは甘くならないはずである。)まず黒色の上澄みを飲み、続いてシロップ状の砂糖をスプーンですくっては口に入れるのだとか。喜びの表情を浮かべつつ。(だからブクブクに太るんだよ! ちなみに東部で活動していた同僚の証言である。)想像するだけでも気持ち悪くなってくるような話だ。しかしながら、これは彼の国に限ったことではない。インドネシアも相当なもので、飲み物を頼む時は "Tampa gula"(no sugar, please)と言い添えないと先述の「パ国人」と同じ経験をする羽目になる。(渡航前に言葉を習っておいて本当に良かった。)

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