A Porta do Mundo(世界への扉)
2003(直輸入国内盤の発売は2004)
V&A 200302(Office Sambinha TS-5101)

 先ほどamazon.co.jpでディスク検索して驚いた。"L'Amar" は¥19,800、"A Porta do Mundo" は¥9,800で出品されている。ここまで高騰するとは。しかも前者はユーズドではないか。まったくケシカラン奴っちゃなあ! とはいえ、暴利を貪ろうとする輩が出てくるのは仕方ないのかもしれない。海外尼はここまで酷くはないものの、欧州勢(英独仏)から中古を取り寄せようとしても5000円は下らない。また "L'Amar" のみを扱っている米加はいずれも "Currently unavailable" 、つまり今やパイシュのCDはレアものということである。
 ところが私はその入手困難であるという点を巧みに利用(悪用?)していた。「犬」も「塔」も当盤のページが存在し、既に述べたように一応は注文できる。ただし入荷することは決してなかった。オフィス・サンビーニャの直輸入盤は税込2625円で販売されている。単品でも送料無料ライン(2500円)をクリアできる価格だ。つまり、買いたいCDが1枚だけ、しかも低価格であっても(たとえ1円だったとしても)、これとセットで注文すれば送料を払わずに済むのだ。我ながらセコいが、何度この手を使っただろうか?
 ここで再びところがである。今年2月に何とかの一つ覚えで抱き合わせ注文を入れたところ、どういう訳か本当に入荷してしまった。(そして同時注文したクラシックCD2点の方がメーカー在庫切れによりキャンセルされた。)もちろん欲しい品だったので望むところだったが(註)、発送のメールが届いた直後に当盤ページを覗いてみたら「取扱終了」になっていた。もしかすると国内店舗を探し回って最後の1枚を見つけてきたのかもしれない。(註:そうでなければ不要品を抱え込むだけなので、いくら「入手困難」とあっても変な品をカートには入れられない。なお「犬」では今も注文可能であり、十中八九入荷しないとは思うものの、敢えてダブり購入のリスクを冒そうという気にはならない。)おっと、中身と無関係のマクラはこの位にしておかないと怒られてしまう。
 さて、既に "L'Amar" 評ページに記したように、当盤からは前作をはるかに上回る好印象を受けたのだが、具体的に述べる前に解説について少し言及しておきたい。(ちょっとずつ本題に近づいているから辛抱してくれ。)「ポルトガルの新しいポップ世代を代表する女性歌手」という題で田中勝則という男が書いている。その名は聞いたことないものの、内容から察するに輸入代理店のバイヤーだろう。が、その文章は冒頭から全く気に食わなかった。彼はこれまで何枚もファドのアルバムの選曲とリリースを手がけ、今後も同様の予定らしいが、「その前に、ここいらで一息つくのも良いように思いはじめた」と書いている。要は「自分は本来ファドが専門であり、違うジャンルに手を染めたのはたまたま」などと言い訳を並べているに過ぎない。それが第1節(解説は3つの節で構成され、それらは3段組の配置とだいたい一致)の半分以上を占めているから私は呆れてしまった。ちなみに彼の勤務する会社が発売した「ラフ・ガイド・トゥ・ファド」というコンピレーション盤(異なる歌手の寄せ集めと思われる)でのパイシュの歌唱について「明らかにファド専門ではない(具体的には独特のファドのこぶしが回らない)歌手だったが、それが逆に個性的、というか、少なくともファドの編集アルバムの中では独特の個性を発揮していた」などと回りくどい褒め方をしていた。思うに、こういう人はファドの尺度でしか音楽を語れないのだろう。(宇野功芳と似ているような気もしてきた。)だったら、そのまま蛸壺の中でジッとしていなさい!(この言い回しもコーホー先生に向けて使ったかなあ?)
 さらに追い撃ちを掛ける。第3節は「フィリッパがこのアルバムを作るにあたってどんなコンセプトを持っていたのかは、インタビュー記事などを読んだことがないのでわからないが」で始まる。コイツも某Hのような「コンセプト依存症」に冒されているのではないかとのイヤーな予感がした。事実、以後は「ファドではないポルトガル独自の音楽、という方向性だけは、間違いなく意識的なものだと思う」という全く具体性に欠け、そして訳のわからん文章を繋げていた。その「方向性」を感じた理由の一つに「ポルトガルの地方に伝わる伝承曲(註)を取り上げている」を挙げるまではいい。(註:それに該当するのはトラック3、6および10のようで、ブックレットには作詞作曲者名の代わりに "Tradicional" とだけ記載されている。)だが、しばらく後にボロを出す。

 聞くところによるとフィリッパは、かつてポルトガル領だったカーボ・
 ヴェルデのモルーナという音楽もレパートリーに取り入れているのだそ
 うだが、ぼくはどの曲がそれに当たるのか、わからない。きっと伝承曲
 でクレディットがないものはそういった音楽から録られたのかもしれな
 い。たしかに古風でアクースティックなアンサンブルなども、カーボ・
 ヴェルデっぽさが感じられる。

笑ってしまった。何故にこんな文章をしたためたのかが「わからない」。どうやら「モルーナという音楽」について何もご存知ない様子に「せやったら最初からこんなん書かんかったらええのに」と嫌味の一つも言いたい気分だがまあ許す。が、さっき前まで「クレディットがないもの」をポルトガルの伝承曲として扱っていたではないか! どっちやねん?(ダメ押しだが、先述の3曲以外は全てクレジットが記載されている。)第2文の「きっと・・・・・かもしれない」という接続詞と終止形の不整合も執筆者のデタラメぶりを物語っている。だから、いくら「たしかに」と続けていたとしても「口から出任せ」以上の説得力を持つことはあり得ない。なお、セザリア・エヴォラ等のCDを聴いてきた私が考えるに、モルナ(モルーナ)は当盤に1曲たりとも収められていないはずだ。(きっと田中の知り合いの誰かが「ライヴのレパートリーに加えている」というつもりで言ったのかもしれない。)
 そんな訳でケチの付けどころ満載の解説ではあったが、全くの無価値ということはなかった。第2節は歌手の経歴紹介に充てられている。その中で非常に興味深いのはパイシュがファド歌手ではなかった、それどころか歌手ですらなかったという記述である。デビューはバレリーナ(4年間留学したNYで現代的ダンスを学び、帰国後リスボンの舞台で踊り手として活躍)だったのだ! その後ミュージカルに進出し、そして音楽専業へと身を転じた。この注目すべき点については後で触れることとする。ところが、彼女が歌手として本格的に活動するようになって初めてリリースした "L'Amar" へのコメントがまたしてもいただけない。(ついでながら発表をなぜか1996年としているのも不可解だ。)

 ただ、そのデビューアルバムは、今回ぼくも一部を聞かせていただいたが、
 いわゆるフツーのポップ・アルバムという感じの作り。ポルトガルの伝統
 音楽的な要素は少なく、ぼくら外国人が聞いて面白いと感じるものではな
 かった。

またしても開いた口が塞がらない。一体全体どういう聴覚を持っていたら、あれが「フツーのポップ・アルバム」と聞こえるのか? 並々ならぬ気品を備え、パイシュの希有な才能を花開かせることに貢献した13曲の作り手に対してあまりにも失礼ではないか? その後の歌手の著しい成長についてファドへの積極的な関与で片付けようとしているのも不快極まる。(そういえば帯や代理店サイトにある「ポルトガルの地方色を生かしたフォーキーなポップ・ミュージック」という稚拙な表現もどうせ奴の仕業だろう。)上の引用部分の少し前で使われている「美声シンガー」も引っかかる。さらに先に挙げた伝承曲の歌唱に対して田中は「フィリッパはもとから美声の持ち主だが、こういった素朴な旋律と澄み切った歌声が実によく似合う」と評しているが、これにも異を唱えたいところがある。"L'Amar" 評で述べたように真に「澄み切った」という形容が相応しい歌手は他にいる。それは物質・物体に喩えてみれば光を100%透過する、あるいは反射するような声の持ち主であり、前者はテレーザ・サルゲイロ、後者はアナ・トローハが私のイメージに最も近い。一方、パイシュの声は語弊があるかもしれないが、どこかくすんでいる。かなり純粋・透明には近いけれども10のマイナス何乗かの不純物・浮遊物が含まれているといえば伝わるだろうか。そのため、ほんの僅かながら光が散乱または吸収されて影ができる。彼女は光よりもその影の部分にこそ他の誰とも違う魅力を発揮する歌手なのだと私は思う。だから決して「美声」で片付けてしまってはいけない。(ちなみに、ある一般人のサイトに「透明感のある声とアコースティックな楽器群が優雅で美しいハーモニーを奏でる」というコメントが出ていたが、それだけなら80点が精一杯であろう。)
 別にお付き合いした訳でもないけれど、私にしても抽象的記述に走りすぎてしまった感がある。なのでここら辺で止めたいが、要は田中の歌手や当盤に対する理解がお話しにならないほどにも表面的だと言いたかっただけである。いっときの腰掛け気分ではまともなライナーなど書ける訳がないという悪しき見本だ。これでようやく胸がスッキリした。(それにしても「少し」のはずがこんなに長くなるとは。やっぱHを糾弾した時のようにページ末尾に隔離するんだったか?)どうにかこうにかディスク評に移れそうだ。
 トラック1 "Que o mundo é meu" をしばらく聴いて「こんな音楽、今まで一度たりとも耳にしたことがない!」と呆然としてしまった。(と同時に、前作でしかパイシュの歌を知らない私は「一体何が起こったんだ」と仰天してしまったが、こちらは歌手の大進化によるものである。後で詳しく述べる。)予備知識がなかったら(かつ全く馴染みのない言語で歌われていたら)どこの音楽かを当てることも不可能だったはず。かといって無国籍、多国籍というのとも少し違う。確実に世界のどこかの地域に属するものであることは判る。とにかく不思議な音楽なのである。イントロから既にエキゾティックだが、出だしのアップテンポによる旋律は何とも独創的である。それを歌うパイシュの翳りを帯びた声にはますます磨きがかかっている。(←我ながら変な表現だ。)そして1分12秒から "Que o mundo é meu" を朗々と歌う(4度繰り返し)。これにはジーンときた。大胆な曲調の変化が功を奏している。この時点では直感ながら「これは途方もないアルバムを手に入れたぞ!」と驚喜した。
 次の "Promeiro o amor" は1秒にも満たないギターのイントロの後、パイシュが猛烈な勢いで "Presa do tempo ficou....." と歌い出す。ところが数秒後の "....antemão te abraçou" でメロディが迷走を始めたように聞こえる。そのまま転調するのかと思わせて実際はしないのだが、ここでも見事に意表を突かれた格好である。続く "Não se me dá que vindimem" でもやってくれている。短調曲ながら長音階が時折出てくるのだ。その度にドキッとさせられる。ところで、このような早口唱法は前にも聴いたことがあるとしばし考え、そして思い当たったのがドゥルス・ポンテスの問題作 "O Primeiro Canto" のタイトル曲であった。(ただし曲名が似ているのは全くの偶然である。)ただし、あちらはポンテスが前に前に出ようとしていると聞こえたのに対し、当盤のパイシュはあくまで歌に語らせているという違いがある。少し前に紹介したエリゼッチ・カルドーゾのページでの分類に従うならば、それぞれがカントーラとインテルプレータに該当するということになろう。ただ私としては、疾走に過ぎるあまり時に足が地に付いていないと聞こえたポンテスより、競歩のごとく着実に前に進んでいたパイシュの方が稼いだ距離は明らかに長いという印象だ。
 4曲目 "E se" は一転してゆったりテンポの曲だが、リズムが変則的でメロディは常に小節を跨ぐように付けられている。結果として休止符が中途に入ることになる。加えて緩急が目まぐるしく変わる。こういうのは流れが滞りがちなので普通なら好むはずのない音楽である。(またしても引き合いに出して心苦しいのだが、"O Primeiro Canto" の第3曲 "Tiriori" はその典型である。実際には曲の構造は相当に異なっているのだが、ふと思い浮かべてしまった。)だが、ここでは緩の部分でも間延びすることが決してない。それどころか、本ページで何度も述べたような声による陰影の深さに感嘆するばかりだった。あるいは陰の部分が作り出す複雑な、それも極めて美しい幾何学模様にも喩えられるだろうか。この曲を聴き終えて先の直感が確信へと変わった。
 歌手が個性を最大限に生かすことのできる上質の音楽を集めているという点は前作同様ながら、曲の多様性と難易度は断然上である。それをパイシュは完璧に歌いこなしているから脱帽するしかない。前作から9年の歳月(註)を経ているから当然かもしれないが、「大化け」といってよいほどに実力をアップさせたのは間違いない。(註:この間には1998年にAntónio Chainhoによる "A GUITARRA e outras mulhers" (邦題「ポルトガル ギターと6人のミューズ」) にゲスト7人のうちの1名として参加した以外、特にこれといった録音は残していないようである。)曲と歌手の相乗効果によりアルバムのスケール感は格段に大きくなった。(これで対照は最後にするつもりだが、他にも "O Primeiro Canto" を彷彿させるような斬新スタイルによる曲が数多く収められている。ただし、同様の野心作ではあっても意欲が空回りすることなく、あくまで自然体を崩さなかったのが当盤の最大の勝因だと思う。もっともパイシュの長い潜伏期間を考慮するならば、両盤を単純に比較するのは元から無理があるのだが・・・・)
 以下も名曲&名唱の連続ながら端折らせてもらう。1つだけ挙げるならトラック10 "José embala o menino" だろうか。緩と急、静と動の対比が絶妙である。作者不明の伝承曲だが、Ricaldo Diasによるアレンジが素晴らしすぎる。(3曲採用された中では圧倒的に出来が良い。)高完成度のアルバムでも大抵は緊張感に欠けるような曲(註)が少しぐらいは混じっているものだが、そういうのも全然なかった。(註:時にミュージシャンの意図を平気で踏みにじるようなアホ売り手によって加えられるボーナストラックも含まれる。)それも賞賛に値すると思っている内に最後まで来てしまったではないか。トラック14 "Em todas as ruas te encontro" はピアノ伴奏のみの落ち着いた曲。一癖も二癖もある音楽ばかりの当盤中では却って「異色」であるものの、終曲には相応しいといえる。(なので減点対象にはならない。ついでだがトータル42分台の収録時間もセーフである。)もしかして歌手自身の演奏かと思ったが、編曲者のJoão Paulo Esteves da Silvaがクレジット中でピアノ奏者としても記載されているから、どうやら彼が担当しているようだ。それはともかく、この曲を聴いている内にふと数ヶ月前に評をアップしたレーナ(西語圏)の弾き語りを思い出した。かのページで私は「あざとい」を理由に減らず口を叩いていた彼女を四捨五入、いや切り捨てたのであるが、当盤の歌手のように実にさりげなく、それでいて桁外れの名唱を成し遂げてようやく「音楽が私を選んだのよ」などと豪語する資格が与えられるというもの。修行して出直してこい! このパイシュこそが本人の意思とは関係なく歌手になることを宿命づけられた存在といえる。とにかく大変な逸材だ。
 そして繰り返すが、これは超弩級の傑作である。(当盤を「すべてが洗練された超一級品」と評した某オンラインショップの紹介文は概ね的を射ていると思いつつ読んでいたが、最後の「心、癒され温まります」に脱力。結局は凄さをまるで解っていないということではないか。)当初は凡庸と思われた曲や歌唱を指摘して「ポルトガル語圏の歌手として初の満点を叩き出すのは伏兵ともいえるこの人かもしれない(次作に期待)」で締め括るつもりだっだが、これだけの成果を示されてはそうもいかなくなった。リリース時におけるパフォーマンスによって採点するならば100点を付ける以外に選択肢はない。Parabéns!(ついでに八嶋智人口調で「やったね!」)現時点で「新譜リリースが待ち遠しくて仕方がない」ランキングの最上位に置いているのも実はこの人だったりする。しかしながら、私の耳も肥えてくるだろうから当盤と同等の評価を得るためのハードルが高くなるのは確実である。果たして・・・・

追記
 本文に記した「潜伏期間」について調べていたところ、今世紀に入ってパイシュがギタリストJosé Peixotoのアルバム2枚に参加していると遅まきながら知った。うち2003年発表の "Aceno" は全12トラック中2曲のみであるが、翌年リリースされた "Estrela" は完全なる両者の共演盤となっている。案の定というべきか通販サイト2社は扱いなし、そして某社はバカ高だったが、iTune Storeで検索してみたら意外なことに両盤とも上がってきた。(彼女のソロアルバムは置いてないというのに。)早速試聴したところ結構良さげである。それで発作的に購入することとなり、結果としてページの構成組み替えを余儀なくされるに至った。

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