南風
2002/03
ビクターエンタテインメント VICL-60856

 たぶん冒頭収録の「涙そうそう」に字数の大半を費やすであろう。まずイントロが素晴らしい! ギターと弦楽器による掛け合いが何とも美しいが、前者に代わって高らかに歌い上げる三線もいい味を出している。最後にギターが2小節弾いてから真打ち(夏川)が登場するという構成がまた見事。このタイミングの絶妙さはマドレデウスの "Destino"("O Espírito da Paz" 収録の "Concertino" 第3曲)に匹敵すると思う。歌に入ってからも伴奏のサポートの上手さは変わらない。加えて鈴のような打楽器の合いの手、あるいはサビの直前に入る「シャララララーーン」という効果音(0分53秒〜)なども適度に加えられているエコーのお陰もあって非常に印象的だ。ここではメカーノの最高傑作 "Mujer contra mujer"("Descanso Dominical" 収録)のオーケストレーション(José María Cano担当)とも肩を並べるとして編曲者の京田誠一を褒めておこう。
 歌手については今更私があれこれ言葉を並べ立てるまでもないと思うが少しだけ。声質はシャープだが一本芯が通っているからボリューム感もある。技術的にも完璧である。特に秀でているのが崩し方だと思う。歌の終わりの「君への想い 涙そうそう」の「そうーーーー」で3分49秒辺りからフッと抜いてフェイドアウト気味に締め括っていたのを聴いて溜息が出た。全くあざとくない。こういった箇所でビブラートを使いすぎて不自然と感じさせてしまうようなプロ歌手は決して少なくない。これは彼女の天性の才能ももちろんだが、やはり子供の頃から父親に毎日2時間もの歌唱レッスンを受けてきたことの賜物であろう。ここからは何故に「涙そうそう」がこれほどまでに支持されたのかについて思うまま述べてみたい。
 よく考えたらこの曲は必ずしも沖縄音楽ではない。「ソーラド、ソーラド、ドーレドミー」という出だしからも明らかなように、これは五音音階(ドレミソラ)である。(例外的に「ドーレミラーファミレラレレー」あるいは「ドーレミラーファミレラドドー」というフレーズ中に「ファ」と「シ」が一度ずつ出てくるが、基本的にはこの音階によって作曲されている。)ja.wikipedia.orgによると、五音音階は日本を含む東アジアのみならず東南アジアやアフリカ、そしてスコットランド民謡でも用いられてきたということだが、マーラーには異国情緒を感じさせたようで、李白や孟浩然の唐詩のドイツ語訳に感銘を受けた彼は交響曲「大地の歌」に敢えて五音音階のメロディを付けた。それはさておき、我々日本人にとっては既に童謡「ぞうさん」や「鳩ぽっぽ」などによって(例を挙げていけばそれこそキリがないほど)馴染みの深いものである。だから私が「涙そうそう」を初めて耳にして懐かしさを感じたのも極めて正常な反応であるといえる。発表されてまだ十年も経っていない(1998年に作詞者の森山良子が自身のアルバム『TIME IS LONELY』に収録)にもかかわらず、既に何百年も前から存在しているような錯覚を抱いてしまうのだ。(ここで脱線。あるバラエティ番組に出演した作曲家の青島広志は、過去にわが国で大ヒットした曲に五音音階がどれほど多く使われてきたかについて説明していた。彼が「上を向いて歩こう」や「昴」などの旋律をピアノで弾く度に他のゲストは目を丸くして「へぇー」と感嘆の声を漏らしていた。が、小学校の音楽室で何気なくオルガンを触っていて、「桃太郎」「浦島太郎」「花咲爺さん」といった昔話の主題歌がどれもC#、D#、F#、G#,およびA#、つまり黒鍵だけで弾けてしまう(その場合は嬰ヘ長調という何とも据わりの悪い調になるが)ことを発見していた私にとっては、「何をいまさら」という気分だった。特に呆れたのが司会役の一人であった堺正章である。「さらば恋人」の「さよならとーかいたーてがみー」を聴いてお前が驚いてどうする! 他の連中はともかく、かつてはプロのミュージシャンだった人間である。ましてや自分が深く関わった曲なのに、その特徴を知らないはずがないではないか。あそこでタモリのように「知ってたよ」とサラッと言ってしまったら盛り上がらないという配慮で大袈裟な反応を示したのかもしれないが、私はあのヤラセに白けてしまった。あんなの「受けたい授業」とは全然思えない。戻る前に二次脱線しておくと、あの出だしが「さよなら、東海、たてがみ」と聞こえるという空耳ネタを私は某4コマ漫画で知ったが、実は古典的な冗句らしい。→ここで緊急追記:堺が司会を務めていた健康情報番組が捏造発覚のため打ち切られてしまった。彼が直接イカサマに加担していた訳ではないから責任を問われるようなこともないのだろうが、ヤラセの片棒を担いでいたのは事実だから少しぐらいは反省してもらいたい。あるホームページに掲載されていた「人間として社会人として、自分の考えを視聴者に表明すべきです」というコメントは尤もである。)
 さて、この曲が大ヒットした理由の1つが「五音音階による作曲」であることは明らかなのだが、それだけでは不十分だと私は考える。なぜなら、それ以前に世に出ていた作詞者の森山、あるいは作曲者のBEGINによる「涙そうそう」はそこまで売れなかったから。ここでは力量差は措くとして、各ミュージシャンが採用した調性の違いについて考察してみたい。
 夏川はヘ長調で歌った。実は私がメカーノの二大名曲として信じて疑わない "Mujer contra mujer" と "Tú" も同じである。ゆえに「単にお前が好きなだけなんだろ」と言われても全面否定はできないが、それだけではないような気がする。というのは、パラグアイのアルパ(ハープ)による演奏では、この調が採用されるケースが圧倒的に多いと思い当たったからである。(ラジオの放送を聞いてもそうだったし、パラグアイ音楽特集で採り上げた "PARAGUAY EN SOLO DE ARPA" では全12曲中8曲がヘ長調またはそれと並行関係にあるニ短調で弾かれている。他に有名曲 "India" も出だしはヘ短調ながらサビでヘ長調に転調していた。)クラシックでもホルン協奏曲は変ホ長調、ヴァイオリン協奏曲はニ長調が多いが、これは独奏楽器の性質上、最も演奏しやすい調性を選んで作曲されているらしい。一方アルパはといえば、ピアノの白鍵に相当する弦しかないから、当然ながら最も楽なのはオクターヴ内に半音が出てこないハ長調とイ短調である。加えて既に述べたようにアルパで半音を出すのは現代ハープよりもはるかに困難である。にもかかわらず、これほどまでにヘ長調が好まれるのはなぜか?(ヘ長調ならびに並行調のニ短調は変音記号が♭1つだけだから、難易度は♯1つのト長調&ホ短調と同程度でさほど高くはないけれども。)ここでも私はモンゴロイドに懐かしさを感じさせるためだと考えたいのである。ちなみに、パ国のアルパ曲で最も有名な "Pájaro campana"(鐘つき鳥)をト長調で弾いているのを聴いたことがあるが、ヘ長調と比べたら印象は4割減といったところであった。ついでながら、ポルカやチャマメ、グアラニアといった民族音楽の伴奏にも必ずといっていいほどアルパが使われるから、ヘ長調の採択率は当然ながら高くなる。戻って、同じ「涙そうそう」でも森山が歌うのをiTunes Music Storeで試聴したところ少し低い。おそらく全音下げた変ホ長調と思われるが、これではまるで冴えない。(♭が2つ余分だ。)落ち着いた感じを受けるのは悪くないが、やはり地味ゆえヒットは望むべくもない。またBEGINのバージョンは未聴であるが、2003年の紅白歌合戦における夏川および森山との共演にて2コーラス目を比嘉栄昇が受け持った際には、逆に二度上げてト長調で歌っていた。(サビから加わった女性2人、特に森山は歌いにくそうだった。)これが彼らの本来の調と仮定して話を進めるが、やはり上ずった感じは否めず、心の奥底にまでは響いてこなかった。ということで、少々強引ながら音階と調性による相乗効果が勝因であるという結論を導いて次に移るとしよう。
 トラック2は「童神」(わらびがみ)、既にコンピレーションアルバム「琉球詩歌」にて千秋(元ディアマンテス)の歌で知っていた曲である。その鮮烈な印象についてはディアマンテスのベスト盤 "Lo Mejor de Diamantes" のページの「おまけ1」を参照していただきたいが、ここでの夏川はギター2本による伴奏によりハ長調で歌っている。千秋のバージョン、あるいは夏川が後にシングルとしてリリースしたヤマトグチ(標準語)によるカヴァーで採用したニ長調よりも低いため、一聴するとパッとしない。とはいえ聴き進む内にジワジワと来るのは文句なしにこっちだ。また、他の2種は鑑賞には向いていても子守歌という本来の機能を果たすには喧しすぎて明らかに不適である。特に千秋の鮮烈な歌声が流れていたらとても眠るどころではないだろう。
 次の「黄金の花」はネーネーズ(初代)のカヴァーということだが、説教じみた歌詞はともかく、夏川のホノボノした歌い方は気に入った。ただし、これなら普通の演歌歌手に任せておけばいいんじゃないの(わざわざ夏川にお出ましいただかなくとも)とも途中で思ってしまった。いい曲には違いないが凡庸(難易度が低い)と聞こえてしまうことが災いし、全7トラック中では最も印象に欠ける結果となった。
 続く「イラヨイ月夜浜」は「美ら歌よ〜沖縄ベスト・ソング・コレクション〜」にてBEGINのオリジナルも知っている。彼らの元気いっぱいの歌唱とは打って変わって夏川はギターのみの伴奏でサラッと歌い上げているが、これも比較的新しい曲に対して大昔から歌い継がれてきた民謡のような重みを付与しているのが見事である。ところで、トラック2以降は全て吉川忠英による編曲だが、京田同様に夏川の歌唱の素晴らしさを余すところなく引き出している。アコースティック・ギターも担当した彼による「南風の中のりみ」という短文がブックレットに掲載されている。歌手との出会いに対する感謝の念がストレートに綴られているのが微笑ましいが、私も彼の立派な仕事に感謝したい気持ちで一杯だ。なお、(既に「童神」でも使われているが、)この曲の間奏(3分過ぎ)でギターのうち1本がトレモロを奏でているのを聴いていたら、どことなくファドの伴奏(ポルトガルギターとクラシック・ギターという編成が主流)と似ているように思った。もし彼女がファドを歌ったらどんな風になるだろうか? と少し好奇心が湧き起こったというそれだけの話であるが、もうちょっと脱線させてもらう。
 松田美緒という歌手がいる。(ポルトガル語圏の音楽を持ち歌に活躍し、既に一部からは高い評価を受けている。いつか当サイトでも採り上げることになろう。)彼女は音楽雑誌のインタビューにて「ファドというのは感じるものであって、ジャンルではない」というアマリア・ロドリゲスの言葉を引いた後に「たとえば沖縄音楽をやっている素晴らしい歌手の人でも“これはファドだ! 運命だ!”って感じるものがあるわけですよ」と語っていたが、もしかするとそれは夏川を指していたのではなかろうか? この曲を聴きながら私は勝手にそう思い始めているのだが、確認は松田と面識のあるネット知人Kさんのどちらか(横浜の例の方以外にも同じイニシャルの人がおられる)にお願いすることにしようか。
 次の「てぃんさぐの花」(沖縄民謡)は飛ばすことにするが、既にコンピレーション・アルバムで聴いていた数種よりも圧倒的に出来が良いとだけ述べておく。ラス前の「花」について。もちろん「はーるのーうらーらーのー」(滝廉太郎)ではなく、喜納昌吉の作詞作曲による「─ すべての人の心に花を ─」というサブタイトルの付いた新しい方である。再びja.wikipedia.org で引いてみたところ、信じられないことに長い間マイナーな存在だったらしい。おおたか静流のバージョン(私は全く気に入らなかった)や石嶺聡子によるカヴァー(未聴だが気になっている)によって「沖縄を代表する名曲」という地位を確立したらしい。何にしても、これまで多くの歌手によって聴いてきた曲ながら、「生々流転」あるいは「諸行無常」を主題とした歌詞の素晴らしさがここまで強烈に伝わってきたのは当盤収録の夏川によるカヴァーが初めてだった。無伴奏による1コーラスだけでも結構ジーンとくるが、ギターの伴奏に少しずつ厚みが加わってくるとともに感興が増してくる。最後の反復でとうとう胸が一杯になってしまった。前段落で触れた「運命」「宿命」といったものを感じさせてくれるという点では「東西の両横綱」、すなわち(またしてもマドレデウスを持ち出して恐縮だが)"Destino" にも引けを取らないと私は考えている。(そういえば「花」の出だしは「川」、"Destino" の方は "agua" =「水」である。偶然ながら興味深い。)歌の後に1分30秒ほどギター演奏を置いてくれたのは大変ありがたかった。これも "Concertino" の終曲 "Silêncio" と同じくクールダウン効果を見事に発揮している。(ちなみに昨年の紅白ではこれを披露したらしいが、格闘技観戦に熱中している内に見逃してしまった。残念!)
 最後は「涙そうそう」のウチナーグチ(沖縄語)・バージョンである。やはりギターのみの伴奏ゆえ地味だが、夏川の歌唱をジックリ聴くにはこっちの方が向いている。ただし序奏出だしの「レーミファ、レーミファ、ソーファーミーレー」(もちろんヘ長調)がなぜかイ長調(下属調)による「ラーシド、ラーシド、レードーシラ」で、土壇場でヘ長調に転調するように聞こえてしまうので困る。また、新城俊昭による歌詞のメロディへの乗りがもう一つ良くないのが惜しい。森山の原詩になるべく忠実な訳を心懸けたためである。例えば「ふーるいーあーるばーむーめーくりー」を「なちーかしーあーるばーむーみーくてぃー」としたが、冒頭部分の字余りは明らかだ。一方、よなは徹は同箇所を「むーかしーぐーとぅーおびーんじゃちー」(昔ぐとぅ思出ち)と歌ったが、このように必要に応じてほとんど創作ともいえるような歌詞を付けた彼の思い切りの良さを見習って欲しかった。(よなはの訳詞にしても音符との対応に全く問題がない訳ではないが。)
 「並の名曲」は減点対象にならないし、トータル35分ちょっとという短時間収録にしても価格相応といえなくもないから、「これだけのアルバムに理由は要らん。文句なしに100点!」で締め括るはずだったが、ここまでハッキリと難点を挙げてしまってはそうもいかなくなった。不本意ながら99点。サービスとして加えられたであろう1曲(盲腸)が炎症を起こしたとでもいえようか。結果的に蛇足となってしまった。

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