Mi México
1991
Sony Discos CDZ-80605
この歌手の最大の持ち味は声である。決して美声ではない。「ハスキー」などという形容は甘っちょろい。それを通り越して「ダミ声」「ガラガラ声」と言いたくなる。ひとまず「悪声と紙一重」としておけばイメージしてもらえるかもしれない。ところが、そんな声で情熱的に歌われるとジーンときてしまうのである。そういえば横浜のKさんのサイトに併設されていたチャットに当時BBSの常連だったTさんが珍しく入って来られた時のことであるが、ガブリエルの歌唱について「背筋がゾクゾクする」「思わず鳥肌が立つ」に類するコメントをされたと記憶している。全く同感だった。常識的にはまずあり得ないが、彼女が「4つの最後の歌」(R・シュトラウスの遺作)を歌ったら私はゾクゾクの二乗で凍え死んでしまうかもしれない。このように荒唐無稽な思い付きから出発して妄想をドンドン膨らませていくのが私は大好きである。
が、ここでは真面目な話に戻る。NHK-FMの長寿番組「日曜喫茶室」で聴いたエピソードであるが、歌舞伎だったか狂言だったか(憶えてない)の舞台役者は子供の頃にスパルタ教育を施して、つまり無理な発声を強要して一度喉(声帯)を潰してしまう。そして改めてゼロから声を作り上げていくのだという。そのお陰で単に声量があるというだけでなく、深みや凄味をも備えた台詞を発せられるようになるらしい。これには感じ入ったが、もしかするとガブリエルも少女時代に苛酷なトレーニングを受けてきたのかもしれない。アニメ「巨人の星」のいくつかのシーンが目に浮かんでしまった。(結局は半分おふざけで書いてるな。)それはともかく、彼女の声はいわば「後天的」であり、当然ながらテレーザ・サルゲイロやアナ・トローハのような天性の声とは全く異なるが、希有なものであるという点では同じだ。前置きはこれ位にしてディスク評に移る。
既に述べたように全くの偶然で入手するに至ったアルバムだが中身は掛け値なしに素晴らしかった。曲目リストのトラック5に括弧書きで "versión ranchera" と記載されている。「ランチェーラ」というのはメキシコ民謡の一種であるが、他の10曲も(形式は違うとしても)ことごとく民謡調である。ただし、ガブリエルが当盤で歌っているのはむしろ演歌、いや「ド演歌」に近いのではないかと私は思っている。
トラック1の "Mi talismán" からギアをトップに入れ、「情感100%」とでもいうべき濃厚な歌唱を繰り広げる。どの曲も出だしからエンジン全開なのだが、さらにサビで一段とヒートアップするのがこの人の特徴である。紹介ページでも述べたが、これでは涙ボロボロの女性を想像しない訳にはいかない。その効果を十分発揮するように曲の展開も考え抜かれている。どうやら全てが彼女の作詞作曲によると思われるが、シンガーソングライターとしての実力も並はずれたものがある。
全曲長調で書かれているから単調に陥りかねないが、それを避けるために軽快なテンポの曲を交えている。にもかかわらず心にズシリと響く何かが常にある。ここが凄い。当盤収録曲をサルゲイロやトローハももちろん歌えないはずはない。だが、先述したような叩き上げによる声でなければ、この種の重さというか手応えは絶対に出ないような気がする。感動がピークを迎えるのが5曲目の "Y aquí estoy" である。易しい単語のみが使われているため、リアルタイムで歌詞がほとんど理解できた。聴いていたら私もボロボロになってしまった。が、心に訴えかけるには音楽だけでも十分なはずだ。それに勝るとも劣らない超名曲がトラック7 "Ahora" である。(とはいえ、間に挟まれた "Amigo mío" も名曲の資格は十二分に有している。)かつて通勤車内で聴くためのカセットテープ(80分を3本だったっけ?)を編集したことがあった。6枚入りCDチェンジャーの最後の1枚を聴き終わってから家に着くまでの繋ぎ用である。同じディスクを聴くのは嫌だし、音楽が途絶えるのはさらに苦痛だったからである。(今乗っている車ではMDがその代わりを務めている。テープは人に譲った。)その際に1アーティストから1曲ずつピックアップするという方針を立てたはいいが、私は "Y aquí estoy" と "Ahora" のどちらかを落とすことがどうしてもできなかった。それほどまでに強い愛着を抱いている2曲なのである。(結局は両方とも収録することになった。ちなみにメカーノの "Mujer contra mujer" と "Tú" も同じ扱いとせざるを得なかった。とばっちりを受けて1曲も採用されない気の毒な歌手も出たが仕方ない。)歌もさることながら、サビに入ってからようやく登場する木琴(マリンバ)が非常に効果的である。何度聴いてもあの哀愁タップリの音色は泣ける。この楽器の使い方の上手さではショスタコーヴィチの交響曲と肩を並べるといえよう。(←またまた何とも分かりにくい喩えを。ついでながらクラシックで用いられるのはシロフォンである。)ところで、ケース裏やブックレットには楽器のイラストが描かれている。当盤のレコーディングに使用されたものが勢揃いしていると思われるが、例外なくアコースティック楽器である。その響きも美しいこと限りなし。編曲者の名は見当たらないが、もしオーケストレーションまでも歌手自身が手がけたのだとしたら、もはやその才能にひれ伏すより他はない。
とにかく信じられないほどの傑作がズラッと並んでいる。その上サビになると決まって鬼気迫るような熱唱を聞かされるから、こちらとしても息を吐く暇が全くない。これは "O Espírito da Paz"(マドレデウス)後半部における高密度攻撃(首都圏在住元ネット知人のSさんが遂には身の危険を感じられたほど)にも匹敵する。極度の緊張を強いられたまま聴き進めるのであるから、必然的に精神的疲労は蓄積していく。ところが終曲 "No siempre se gana" でガラッと雰囲気が変わる。「K1トーナメントにヘビー級に混じってミドル級の選手がただ1人出場しているような違和感」とでも書けば伝わるだろうか? 3拍子系の軽い曲で大して盛り上がらないまま終わってしまう。以前の私はそれが少なからず不満だったから、当然のように減点対象としたことだろう。だが今は違う。
それまでの10曲と比べたらかなり温度が低い。それは事実である。だが、これが小説のエピローグに相当するということに私はようやく思いが至るようになったのだ。大江健三郎も一時期好んで採用していた手法であるが、「第○章」のような通し番号を打たない終結部(前章から少なくとも数日後に舞台が設定され語り口は現在形)を別に設け、最終章で起こったカタストロフ(大抵は主要登場人物の誰かが死ぬ)の後日譚を淡々と綴る。(大江は続けて未来への明るい展望を示すことを忘れない。)劇的な展開のまま終わるよりも当然ながら読後の印象は和やかなものになる。そうなると二番手にマウンドを譲った先発投手がベンチ前で行うクールダウンにも喩えられるだろうか。いきなり肩を休ませるより降板後もしばらく軽いキャッチボールを続けた方が回復が早くなるらしい。それと同じく、熱々状態でアルバムを締め括るよりは少し冷ましておいた方が日常生活への復帰がスムーズにいく。そういう作り手の配慮を理解しなくてはいけない。若気の至りだったとはいえ「盲腸」扱いすらしていたかつての私は全く浅はかだった。
ということで当盤に無駄なものは全くない。そして "Descanso Dominical" のように迷うところも一切なし。文句なしの100点満点だ。
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