Mona Lisa(モナリサ)
2003
M&I MYCD-30181

 本題(ディスク評)に入る前に、ここでも別ページで触れたオフ会について書く。ディアマンテスのコンサートに足を運ぶのであれば当然ラテン音楽好きの方だろうから、その話で盛り上がれるのではないか、と期待していた私は完全に引き落とし、いや肩すかしを食った。要らなくなったCDも何枚かお土産として持参したのだが特にこれといった反応はなし。この時点で「何なんだ?」と思った。中に強烈な男がいた。何であれディアマンテス以外の話題になると途端に不機嫌になるのである。例えば私とYさん("Habanera" のページ参照)が同郷人であると判り、遠く離れた地での思いがけぬ邂逅を喜びつつ話に花が咲こうかとした矢先にも「ローカルな話題だ」として止めさせようとした。私は呆気に取られたが、実はこの種の催しに参加したのが初めてだったので、そういうもの(他の話題は厳禁)かと思って郷に従うことにした。(ただし、彼の数々の傍若無人なる振る舞いに業を煮やされていた幹事のKさんは、それを諫めるため後に私信を送られたそうだ。皮肉のスパイスもタップリ利かせて。)まあ彼は特別だとしても、他の人に対しても「もうちょっと他の音楽の話でもしましょうよ」と内心では言いたい気分だった。アルベルトが傾倒し、影響を受け、カヴァーしているジプシー・キングスとか、ライヴのレパートリーとして採用するに留まらず後のソロアルバムに(それも3枚連続して)収録されることになるトリオ・ロス・パンチョスとか。(本当は文学や美術といった他の芸術に関する話題でも、いや、スポーツでも政治経済社会芸能科学でも何でも良かったのだが。)
 私は気に入った曲について解説中に「オリジナルは○○」あるいは「19××年に△△がヒットさせ」といった記述を見つけたら居ても立ってもいられない性分である。速やかにディスクで確認したいし、深入りして何枚も手を出すことになったミュージシャンも複数いる。少なくとも通販サイトで試聴ぐらいはしないと気が済まない。結果として聴く対象がどんどん拡散してしまうのは避けられないが、その分だけ精神生活が豊かになっていくと勝手に納得している。(まあ「この道一筋」タイプの目には腰の据わっていない「浮気者」とか「軟弱者」ぐらいにしか映っていないのかもしれないが。)なので、同じアーティストのライヴを続けざまに聴くという心理はどうにも理解しがたい。(1年後ならもちろん、せめて1ヶ月後というなら話は別である。)
 ドイツの長老指揮者、ギュンター・ヴァント(89歳)が2000年に来日した(結局それが最後となった)が、その情報を私がネットから入手したのは既にチケットが完売した後だった。それは当方がボンクラだったので仕方ないし遠方に出かけなくて済んだことに胸をなで下ろさないでもなかったが、東京芸術劇場で3日間(11/12〜14)開催されたコンサートが全て同じ演目(シューベルトの「未完成」とブルックナーの第9交響曲)だったにもかかわらず、その全てに足を運んだ人が結構多くいたと知って驚かない訳にはいかなかった。私なら仮に自分が聴いた日が駄演で他が超名演だったとしても運が悪かったとして諦める。全部がスカ、逆に3日とも当たりという可能性だってある。(実際には初日が凄演、テレビカメラが入った2日目がハズレだったらしい。)まさか「数射ちゃ当たる」ではないだろうが、そんなことやってたらキリがない。それに費やす金と時間をもっと有効に活用すればいいのに・・・・と大きなお世話ながら思ってしまう人間なのだ。
 ここでアルベルトに話を戻すと、私が山東町で聴いたライヴでも歌手が「昨日と同じ顔ぶれが何人も見えますねー」と客席に向かって語りかけていたから、おそらく直前の演奏会場から○○の○のようにゾロゾロとくっ付いて来たのだろう。音楽を愉しむというよりは歌手と同じ空気を少しでも長く吸っていたいという素朴な感情から行動しているのであろう。もしかすると(私には無駄としか思えない)移動の時間ですら有意義に感じているのかもしれない。こうなると「手段が目的化している」という条件をクリアしているという点で(私とはもちろん別種だが)これも立派なオタクであるといえよう。
 長々と「追っかけ」を批判するような文章を並べてきて誠に恐縮だが、実は当盤がそういう人達の耳にはどのように聞こえているのだろうか、と私は以前から気になって仕方がないのである。
 トラック1は飛ばす。次はマスカレード。私はカーペンターズで知っていた。(歌手自身による曲目解説によると、彼も同じらしい。)カレン・カーペンターの歌い方には何の衒いもない。ところが、あの安定感抜群のアルトを聴いていると次第に凄味が漂ってくるのである。これが「平凡の非凡」というヤツであろうか? その私の耳にアルベルトのカヴァーがどう響いたかといえば・・・・完全無欠なる「平凡の平凡」、つまり凡庸そのものだったのだ。確かに気持ちよさそうに歌っている。だが結局それだけである。前作評の繰り返しになるが、ここでもC・カーペンター(あるいは他の歌手)何するものぞといった気概など微塵も感じられない。かといって何か斬新な試みを聞かせてくれる訳でもなし。「だったらこういうのは仲間内でカラオケ・ボックスででもやっとくれ」と暴言すら吐きたくなってしまう。それでも根っからのファンは満足できるのだろうか? ここで同じくカーペンターズのナンバーを歌ったものとして綾戸智絵の「スーパースター」(アルバム「フレンズ」に収録)を思い出した。実のところ私は綾戸の声はあんまり好きではない。特に伸ばす時の不自然な揺らし方は山羊の啼声を思わせて耳障りである。自己流の英語発音も同じ。いわば和風のジャズやポップス、あるいはカントリーである。(ただしテレビ出演の際に関西弁を駆使する素顔の彼女は大好きだ。)けれども、あのカヴァーは「誰にも真似できない」という意味で紛れもなく綾戸の歌になっている。情熱を込めすぎて、もはや「崩しまくり」という感もあるが、何ともいえぬ「ええ味」が出ているのである。金を払って聴きたいと思うのは言うまでもなくこちらの方だ。
 トラック3から7までも金太郎飴みたいなムード音楽が続く。あまり感心しないが敢えて糾弾するほどではない。けれども8曲目の「キサス・キサス・キサス」を聴いて私は怒りに震えが止まらなかった。前作収録の "Quién será" と同じくロス・パンチョスの持ち歌であるが、あちらは「誰かいい人いないかな?」という状況だから精神的にまだゆとりがあるのに対し、こちらの主人公は相当煮詰まっており、「いつ? どうやって? どこで?」と繰り返し恋人に問いかける。ひょっとして求婚しているのだろうか? ところが相手はその度に「いつかそのうち」ではぐらかすだけ。これではストレスが溜まる一方だ。それがピークに達するのが長調へと転じる中間部。男はとうとう我慢できなくなって「君は時間を浪費しているんだ!」と喚く。実は悲痛極まりない音楽なのである。その点パンチョスはさすがで、(既にイントロのギターからして何とも物悲しく響くが、)歌に少しずつ哀愁を加えていくことによって主人公の心境を余すところなく表現していた。ところがここでのアルベルトはどうだ? 立ち上がりからまるで深刻さが感じられないのが気に食わなかったが、中間部で朗々と歌い上げるのを聴いて血が沸き上がる思いだった。歌詞の意味を解さない聴き手なら、何か事態を好転させる逆転ホームラン級の出来事があり、主人公が「超ラッキー! 今日はとってもいいことがあったぞ!」などと狂喜乱舞している姿を思い浮かべたとしても不思議はない。これはブルックナーの第5交響曲の終楽章コーダにシンバルやエキストラのブラスバンドを勝手に(作曲者の知らないところで)書き加えてドンチャン騒ぎにしてしまったヨーゼフ・シャルクにも匹敵する愚行ではないかと思う。私にとっては大ブーイングものだが、ディアマンテス/アルベルトのファンはこういうのを聴いて何も疑問を感じないのだろうか?(解説によれば、ソロ・コンサートで歌っていたこの曲を「CDでも聴きたい」というリクエストが数多く寄せられたとか。録音される前はこんなアレンジではなかったと思いたい。)もしかすると同じ歌手ばかり追っかけているような、ある意味「近視眼的」な(具体的に書くと「原典に当たってみようといった好奇心を失っている」といったところか)聴き手には曲の本来あるべき姿が見えなくなってしまうのかもしれない。それってヤバくねー?(こんなことを書いている私にしたって毎日毎日ブルックナーばっかしでは当然ながら視野が狭くなる危険はあるが、間歇的にありとあらゆるジャンルの音楽を聴いているからたぶん大丈夫だろう。)
 もはやトラック9以降にはウンザリしてきた。今度は小野リサを持ち出してみる。私は彼女が決して嫌いという訳ではないが、ある日テレビCMにて耳にした "O sole mio" に呆れてしまった。あの情熱的な名曲を気怠い感じのボサノヴァにアレンジした時点で「却下」と言いたい気持ちだが、さらに例の脱力感タップリの歌い方だから原曲の良さは完全に葬り去られている。作曲者のディ・カプアが聴いたら(その前に「生きていたら」という条件が付くが)きっと泣くだろう。思わず「オマエ何考えとんのや?」と画面に向かって怒鳴ってしまった。どうやら彼女はイタリア民謡に同種のアレンジを施すという趣向のアルバムを出しているらしいが、「既存の曲をとりあえずボサノヴァにしてみた」というのならあまりにも志が低すぎるではないか? 戻って、アルベルトのカヴァーにしても「とりあえず」というレベル以上の何かを感じることは残念ながらできなかった。だから「こんなの聴いてどこが面白いのだろう?」と首を傾げざるを得ないし、歌手自身と(決して文句を言わない)固定客を満足させるためだけのレコーディングではないかという疑念すら湧いてくる。
 ラスト(トラック13)に "Canción de la isla (Shima Uta)"(島唄)さえ入っていなかったらここで終わっても良かった。というより、本当はそれを目当てに当盤を買ったのである。以下、この曲との出会いについて脱線話を繰り広げる。
 2002年のことだったと思うが、NHKテレビ「スペイン語会話」の "Espacio cultural"(文化コーナー)にて初めて知った。それもオリジナルではなくAlfredo Casero(アルゼンチン人)のカヴァーによってである。歌は下手だったが旋律は気に入った。彼の国で大ヒットしたばかりか、同年開催されたワールドカップ日韓大会では代表チームの応援歌として採用されたという話も面白いとは思った。が、いつしか忘れてしまった。ところがそれから数ヶ月後のこと、行きつけのリカーショップに入ったら何やら沖縄っぽい音楽が流れていた。店内では泡盛コーナーが特設され、そこに置いてあったCDラジカセが同じ曲をリピートで再生している。「これええやんかー」と思ったのが何を隠そうTHE BOOMの「島唄」(全国発売された「オリジナル・ヴァージョン」)だったのである。翌日には5曲入りのマキシシングルを注文していたはずだ。なお、そのトラック2に収録されている「ウチナーグチ・ヴァージョン」(沖縄限定で最初にリリースされてヒット)の方が私は好きだ。新たに録音された「2001年版」(トラック3)はネチっこい歌い回しがカラッとした感じの曲ともう一つ噛み合っていないような気がする。(その次に入っていたカセーロのは改めて聴いてもヘタクソだった。歌はまあ許せても日本語のフレージングがペケ。)
 さて、この名曲をアルベルトがカヴァーしたと知っては聴き逃せない。と思っていたら、翌年度の「スペイン語会話」のエンディングテーマとして採用され、毎週サビを聞かされることとなった。(歌手自身もDJ&インタビュアー役として1年間スキットに出演した。)NHKのサイト掲載の歌詞を見たところ「鳥とともに」に相当する部分に "Todito es por tí" が充てられていることに思わず「巧い!」(「トディート」が「とりと」と韻を踏んでいる)と感心し、それをKさんのBBSに書き込んだのを憶えている。とはいいながら、なるべく安く手に入れたいという貧乏性ゆえ時間だけが虚しく過ぎていった。その1曲だけをダウンロード購入しても良いかなと思い始めた頃であるが、2006年3月の東京出張で立ち寄った中古屋(どっかのディスクユニオン)にて税込735円で売られていた当盤を発見したという次第である。(「ハートに火をつけて」(Light My Fire)も置いていたが、そこまで安くなかったため見送り。)既に「ウンザリ」状態かも知れないが、もう少し続けさせてもらう。
 作詞作曲者の宮沢和史が「島唄」について語っているのを私はテレビで何度か観たことがある。導入部は基本的に「ドミファソシド」の沖縄音階である。(ただし「嵐が来たー」での「ファレドシレドー」のように「レ」は例外措置として何度も使用される。)ところが「ウージの森で」以降しばらく「ドレミファソラシド」の西洋音階が続く。あの中間部ではガマ(自然洞窟)の中で自決した2人による永遠の別れが歌われている。つまりレクイエムなのだが、宮沢は本土の犠牲(ご存知のように沖縄は最初から地理的に本土決戦を引き延ばすための「捨て石」とされる悲惨な運命にあった)になった人々の無念を思えば沖縄音階で作曲することがどうしてもできなかったのだという。(朝日新聞に掲載されたコラムにも同様のコメントがあった。それを引用しているウェブサイトはかなりの数に上る。ちなみに「千代にさよなら」と「八千代の別れ」が「君が代」の暗喩であるとの解釈も目にした。)要は超弩級の重苦しい話である。もちろん、この裏話を知らなくても深刻な内容であることは詞をジックリ見れば判るはずだが。
 書いているうちにすっかり熱くなっているが、これを読んでいる人はアルベルトのカヴァーをどう聴いただろうか? 既にお察しのように私が「こんなチャカチャカ音楽にしてしまうとは一体どういう神経しとるんや? これでは沖縄を蹂躙した連中と一緒やないか!」と卓袱台をひっくり返したのは言うまでもない。(「あなたと出会い」が "contigo to deai" というチャンプルー訳、しかも "con と "to" が見事重複しているが、それが些細に思えてくる。)よくもまあこんなカヴァーを宮沢が許可したものだ。(と思っていたのだが、それどころか解説には彼自身が西語版の作成に加担したとあるから愕然とした。ジンシラレナーイ! ←もちろんヒルマン監督口調で)中米のメレンゲでは時に悲しいことを明るく歌ったりすることもあると在住経験のある知人から聞いたことがあるが、私はそういうのは認めたくない。本居宣長だって「姿ハ似セガタク、意ハ似セ易シ」と書いていたではなかったか。(これは一見すると逆説的だが、小林秀雄はその真意を「言葉」というエッセイで説明している。彼は短歌を例に出していたけれども、外国語の習得を思い浮かべてみてもそれは明らかだろう。)再度ブルックナーに準えてみると、第9交響曲の譜面に便所の蝿のような(文字通り五月蝿い)ティンパニの音符を「これでもか」と書き込んだフェルディナンド・レーヴェの改訂(第5のシャルク版よりも酷い「改竄版」として悪名高い)に劣るとも勝らない(?)冒涜行為ではないかと私は思う。これを聴いていると(曲の中身とは全然違う意味で)私は悲しくなってくる。そして気分が晴れないままにアルバムは閉じられる。
 ここで唐突ながら昨年(2006年)8月に放送された「BS永遠の音楽 映画音楽大全集」という番組の印象を述べる。かつては「青春のポップス」という不定期番組で準レギュラーとして出演し、得意のラテン音楽を披露して他を寄せ付けないほどの実力を見せつけていたアルベルトであったが・・・・・驚いた。まるで存在感がない。正直なところ他の出演者の歌手としての力量は大したことがない。グッチ裕三は勢いだけだし、つのだ☆ひろ(←星は何なんだ?)や渡辺真知子などは何せとうの昔に全盛期を過ぎている。にもかかわらず彼らの歌唱には心に訴えかけてくる何かが必ずある。ところがアルベルトはといえば・・・・・歌手を知らない視聴者に「どっかの歌の上手い兄ちゃんが一人紛れ込んでるのかな?」と思われたとしても無理はないという気がした。彼はこの日2曲歌った。が共に英語曲。最初の登場(タイトルは怪しいが確か "Yellow ribbon" だったような)ではバックに男声コーラスがいた。次は "The sound of silence" で、この時はメロディをグッチ裕三が歌い、彼は対旋律に甘んじていた。「一人で歌わせるにアルベルトは力不足」とスタッフが判断したからというのは穿ちすぎだろうか? しかしながら、私にそう推察させたほどにも印象が薄かったのは事実だし、"Amapola" というお誂えの曲を他の歌手に譲っていたのも全く不可解だった。「彼は一体何がやりたいんだろうか?」と腑に落ちないまま番組は終了した。後日Kさんと会った時にこの話をした。「彼は英語の歌が好きなんですよ」というお答えだったが、その時の「何だかなぁ」とでも言いたそうな表情が忘れられない。(追記:正確には「アメリカンポップスが好き」だったのとこと。全くいい加減な記憶で情けないやら申し訳ないやら。)
 そろそろ終わりにするが、アルベルトにはこう訊きたい。「これじゃ折角の才能が持ち腐れじゃありませんか?」と。そしてファンにはもう一度こう尋ねたい。「あなた方はこんなものを聴かされ続けていて本当に満足なんですか?」と。
 歌唱はプロの水準だから70点としても、上で槍玉に挙げた4、8、および13曲目での落胆により10点ずつ引かざるを得ないから40点とする。なお最後に断っておくが、私は歌手に思い入れがあるからここまで書いたのである。嫌いなアーティストなら、あるいはとっくに見放しているなら、誰がこんなに長々と綴ったりしますかって!

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