鈴木淳史を「B級」呼ばわりしたのは、自分の名前でしょーもない小細工(印刷されるたびにどこかが間違っている云々)を弄しているからである。本人としては暖めてきたアイデアなのかもしれないが、私にはちっとも面白くない。三流お笑い芸人みたいなわざとらしい演出は勘弁してくれ、と言いたい。彼の本名が「あつし」だろうが「あつふみ」だろうが、はたまた「あつふひと」だろうが「あつもり」だろうが、「あつこ」だろうが、そんなことは読者にとってどうでもいいのである。(字も一緒で、「淳史」でも「敦史」でも「圧死」でも別に構わん。)内容さえ良ければ。では実力はどうか?

 私はこの人の洋泉社新書yシリーズを4冊持っている。許光俊との共著である「クラシックCD名盤バトル」を除いて、いずれもBOOKOFFにて定価の半額で買ったものだ。居住地の長浜市、勤務地の彦根市は人口がそれぞれ6万人、10万人ほどしかいない地方小都市であるが、そんな田舎にも鈴木淳史の本を買っている人がちゃんといるのである。(そして私はそのお零れにあずかっている。)某掲示板では「鈴木の本はブックオフで100円で売られていた時だけ買う」というような投稿があったが、比較的新しい彼の本が100円コーナーに並べられているとはにわかに信じがたかった。ところが2004年3月に東京出張した際、ある近郊都市のBOOKOFFに入って驚いた。地上3階、地下1階の堂々とした建物で、文庫本だけのフロア、AVソフトだけのフロアなどがある。これでは1日かけても見回れない。(地元店では2時間もあればだいたいチェックできる。)こういう大きな店では発売直後の本でも100円で売っているのかもしれないと納得した。うらやましい。

 さて、「鈴木淳史」という名前を初めて目にしたのは許と同じく「クラシックの聴き方が変わる本」のはずなのだが、ちっとも記憶には残らなかった。後に買った「クラシックB級グルメ読本」では海賊盤について書いていたが、「さすが元店員だけにオモロイことを知っとるなあ」と思った。まだ宮岡博英との区別が付いていなかった。(ただし、欄外に[参考1]としてバーンスタイン&BPOのマーラー9番に言及した部分がもし彼の手になるものだとしたら、そこはいただけない。面白いと思って書いたのだろうが、思いっきり「滑って」いる。メチャクチャ寒い。)しかし、鈴木の名をハッキリと意識するようになったのは、彼が最初の章を担当した「こんな名盤はいらない!」を読んでからである。
 まず「名盤」を3〜4ページにわたって貶してから、最後に申し訳程度に(長くて1ページ)推薦盤について書く。それはこの本だけでなく、以降の本にも引き継がれる鈴木の常套手段(得意パターン)である。ブルックナー総合サイトに出ていたM氏の書評から予備知識を得ないままに読んでいたら、きっと驚いたに違いない。(もっとも、氏が貶していなかったらあの本は買わなかったと思うが。)「名盤」12枚に対する彼の貶しっぷりにいちいちコメントはしないが、ブラームスの1番については、私もこだわりのある曲なので少し書いてみたい。(また、最後の「朝比奈とは、へたなブルックナーという意味だ」についても別ページで触れる。)
 鈴木はこの曲が人気の割に内容は大したことがないという難癖から出発し、続いてカラヤンの87年盤を貶している。要はブラームスの書法に問題があるのに、カラヤンのような「構造」に対する配慮のない一本調子の演奏ではアカンということらしい。が、「足りないのはファンタジーなのだ」には「ハァ?」と首を捻ってしまった。「錯綜する楽譜」と「ファンタジー」がどうしたってつながらない。というより、これは強引なこじつけである。「錯綜する楽譜」に対応するのは、(それを紐解く)「分析力」ではないのか? 「ファンタジー」(空想、幻想)は「分析力」とは相容れない概念だと思うし、「ファンタジア」の「形式にとらわれず、作者の幻想を盛り込んだ楽曲」の「形式にとらわれず」というところは、鈴木が推したヴァントではなく、むしろアーベントロート盤の特徴ではないかという気がする。(本筋とは関係ないが、「ベルリン国立管」はおそらく「バイエルン国立管」の誤りである。)次の「アイデアと言い換えてもいい」の「アイデア」はあまりにも曖昧で意味不明だ。この曲に限らず演奏にとって「アイデア」が重要なのは自明だから。また少し後に出てくる「赤面モノ」だが、勝手に赤面しているのは聴き手である鈴木であり、即ちこれは著者の主観である。主観から導けるのは「嫌い」であって「悪い」ではない。このように論旨が腰砕けであるため、嫌いなカラヤン盤をこき下ろすためだけに書いたとしか私には思えなかった。(まさにこじつけにすぎない評論なのだ。)とはいえ、彼がオススメ盤として「もうこれは一つしかない」と書いたのが私が2位に挙げているヴァント&NDRの82年旧盤だったことは、「この著者は単なるバカではない」、どころか「ただ者ではない!」と唸らされた。(文章には気に食わないことが多いけれども、耳は確からしいと今も思っている。)
 ところで(以後脱線)、私はこの曲に対して「ブラームスが人間のあらゆる感情を詰め込んだ」という印象をずっと前から持っている。悲しみも喜びも怒りも。それも中途半端ではない。悲しみは絶望のどん底まで、歓喜は乱痴気騒ぎまで行ってしまう。作曲者の当時の心境が反映されていることは十分に想像できるが、それでも彼は自暴自棄にはならなかったし、発狂したり自殺を図ったりもしなかった。ギリギリで踏みとどまれたのは彼に信仰があったからである。この曲が崩壊しそうで崩壊しないで済んでいるのは、ごちゃ混ぜ状態の感情を信仰が根っこの所でしっかりと繋ぎ止めているからである。終楽章のコラール風主題が典型だが、この曲に宗教を感じさせる箇所は決して少なくない。(交響曲4曲中では圧倒的に多い。「ドイツ・レクイエム」で表現されている宗教性は「建前」だが、この曲のそれは「本音」だと私は思っている。)ここで特筆したいのは第1楽章の終わりである。あそこが「ドイツ・レクイエム」のいくつかの楽章と似ていることは今さら述べるまでもないと思うが、明らかに礼拝を描写している。フルートの「ドー」の持続が牧師の「アーメン」で、それに続く弦の「ドー」がそれに呼応する会衆の祈祷の声である。ブラームスのページにあるように、私が1位に挙げているのはジュリーニ&ロス・フィル盤であるが、それはあの部分の表現が圧倒的に素晴らしいためである。弦の「アーメン」が終わってからも暫くの間フルートが吹いているが、これは作曲者(=この曲の牧師)が1人で祈り続けている様子を見事に表現している。また、ジャケット写真(祈りの姿そのもの)からは指揮者もどうかしている、いや、同化していると思わせる。あそこをピチカートで「プツン」と終わらせてしまう指揮者には「お前は何も考えとらんのか?」と言いたくなる。脱線はこれくらいにするが、もし鈴木の手法が許されるのであれば、「○○には宗教性が足らんのだ」という自分勝手なストーリーによって、私が○○の演奏を貶すことだってできるはずである。あるいは「宗教性」の代わりに「壮麗さ」によって似たようなストーリーを組み立て、カラヤン以外のあらゆる演奏にダメ出しをすることも可能であろう。要は筋さえ通っていれば何だっていいのだ。結局のところ、「この曲に必要なものは△△である」という前提から始めて、「○○の演奏には△△が欠けている」→「だから○○の演奏はダメである」とする三段論法は古典的な貶しの手法であるが、その前提に必然性(←あまり使いたくない単語だが)が感じられない読者に対しては、「私は○○が嫌いである」と同程度の説得力しか持ち得ないため、批評のやり方としてはあまり優れているとはいえないように思う。 △△の最たるものは宇野功芳の伝家の宝刀ともいうべき「精神性」だが、鈴木の「ファンタジー」もそれと大して違いはない。(そういえば、「クラシック名盤&裏名盤ガイド」にて佐藤康則がクライスラーのヴァイオリン曲集のページでパールマンの演奏を推した後、「ないものを探すより、あるものを大切にすることの方が人生では有益だと教えてくれる」のようなことを書いていたが、それは評論にも当てはまると思う。ちなみに、「クラシックの聴き方が変わる本」ではどうしようもないアホ文章ばかり書いていた佐藤だが、この本では一転してまともであった。)

 「クラシック名盤褒め殺し」も、とどのつまりは「貶し本」だから彼にとってはお手の物である。まず天使と悪魔による対話形式というアイデアが秀逸だし、訪問販売、試験問題、警察の取り調べなど手を変え品を変えて読者を飽きさせない手腕にも感心させられる。ただし、フルトヴェングラー&BPOの「運命」1947年5月27日盤(POCG-3788)の以下の部分については書かずにいられない。

 テンポをどのように設定するかということは、その音楽がどのように書かれ
 ているか、そしてどのように響かなければならないのか、という条件を考慮
 に入れなければ、と言ったのはフルトヴェングラー自身でしょ。それが聴こ
 えてこなければ、そのテンポに何の根拠もないはずだ。

著者には悪いが、最後の文で何を言いたいのかが私はどうしてもわからない。いくら考えても「テンポに何の根拠もない」の意味がわからない。(たぶん私の頭が悪いのだろう。)指揮者は演奏会場のティタニア・パラスト(映画館)でどのように響くかを考慮してテンポを決めたはずである。少なくともその意味でテンポに「根拠」はある。当時の録音機器の性能ではパートバランスのような情報量は十分に記録できていない。それは事実だとしても指揮者には全く責任のないことだ。むしろ、わざわざフルトヴェングラーの言葉を持ち出してきた著者には「指揮者がテンポを設定した根拠から逆算して、パートバランスや響きをある程度は推定することも可能ではないか?」と問わずにはいられない。それをしないで分かり切ったこと(情報量不足)にグダグダと不満を漏らしているのだとしたら、それはただの駄々っ子に過ぎない。(もっといいのは何も書かないことだ。指揮者が適切なテンポを設定したという前提で演奏自体について批評を書く。それができないのであれば。同じディスクを所有している私には、パートバランスなどは想像力で補えないのだろうかと不思議でならない。こういう人は小型の短波ラジオ1つだけ持ってアマゾンの奥地などで2年ほど修行すれば良いと思う。想像力は確実に鍛えられる。)
 それとも、当時の録音機器の性能を考えてテンポの設定をしなかった指揮者を責めているのだろうか。なら話はわからないでもないが、これはスタジオ録音ではなく演奏会の記録(ライヴ録音)なのだ。後にディスクで聴く人ではなく、目の前の聴衆のために適切なテンポを設定するのが芸術家というものだろう。当然ながら指揮者は50年以上も後にこの録音を聴いてイチャモンを付けるような人間のことなど考慮していない。この意味で「根拠がない」と書いたのだとしたら、それは言いがかりというものだ。(ところが、従来はティタニア・パラストとされてきたこの1947年5月27日の「運命」が、実はベルリン英国占領区ソ連放送局スタジオでの演奏であることが最近の調査で判明したそうである。この音源使用による外盤として初めて発売されたELOQUENCEシリーズの紹介記事をhmv.co.jpで読み、私はそれを知ったのだが、本当にスタジオ収録だったとすれば、「録音機器の性能を配慮して設定されていないテンポに根拠はない」もあながち間違いとはいえなくなる。が、もし指揮者がそのような配慮をしていたとしたら、この著者は逆に「当時の録音・再生技術に合わせた演奏を、あえて行わざるをえなかった」などとして、それを批判していたに違いないのだ。こういう人は何でもいいから叩けさえすればいいのだ。と思ったら、これは「こんな名盤はいらない!」の共著者が既に述べていたことだった。なお、この括弧内に私が書いたのは「ありもしない仮定」による批判であり、少なくともプロの物書きのするようなことではない。追記:あるクラシック総合サイトには、「近年の研究により、27日の演奏会は『ベルリンのイギリス占領地区にあるソ連管轄の放送局』に聴衆を入れてのライヴ録音と訂正された」とあった。これでは録音が主目的で聴衆はオマケだったという可能性も否定できず、鈴木と吉澤ヴィルヘルムのどちらが低質のイチャモンを付けたのかという点に関しても灰色決着とせざるを得ない。残念!)

 何れにせよ、鈴木理論(パートバランスが聞こえてこないような録音ではテンポに根拠が感じられない)によると、このディスクに限らず音質劣悪な歴史的録音を全て排除しても構わないことになるが、何故にこのディスクを標的にしたのかという「根拠」が書かれていない(少なくとも私には判らない)以上、ここでも単なる言いがかりとしか思えなかったのである。ところで、古い録音に対するこのような否定的見解(積極的に批評する気にはなれない理由)は既に許光俊が「クラシックを聴け!」や「こんな『名盤』はいらない!」で述べており、鈴木はその跡を辿ったに過ぎない。その後、許は「世界最高のクラシック」あたりから古い録音についても(勿体ぶりながら)肯定的に評価するようになっているが、鈴木がそれに追従するのか見物である。

 ということで、一部ネット掲示板にて「許のコバンザメ」などと書かれたこともある鈴木だが、私が連想するのは漫画「じゃりん子チエ」に登場するタカシである。いつもマサルの背後にピッタリと寄り添ってチエをからかっている。が、自分からは気の利いた悪口は一つとして言わない。そういえば彼は途中からチエとヒラメに「腰ぎんちゃく」と呼ばれていたっけ。(ただし、マサルが転校すると知ってからしばらくの間だけは、彼女達もタジタジとなるほどの八面六臂の大活躍を見せた。)そう私に言わしめたのも、鈴木が「こんな名盤はいらない!」に書いていたことのいくつかが、許の文章中で既に目にしたことと酷似し、時には全く同じだったからである。いくつか例を挙げてみよう。

・ブラームスの交響曲第1番を「ダサイ」「恥ずかしい」などの理由で駄作呼ばわり。
・朝比奈のブルックナーを「構造」がどうのこうのという理由で貶す。
・ラトルのブルックナー7番を「チェリビダッケのものまね」と形容。
 (ここでも私は、マゼールの演奏について許がCDジャーナル誌にて
  「遅いテンポはチェリの模倣」などと評していたのを見逃さなかった。
   実はKさんに教えてもらったのだが・・・・)

 ここまで似通っていれば、「鈴木淳史」が架空の人物(許のペンネーム)ではないかと私が一時期疑惑を抱いていたのも無理はない。いつか2人が同一人物だということを明らかにして周囲をアッと驚かせようと狙っているのではないか、と邪推すらしていたほどである。「クラシックCD名盤バトル」を読んで、さすがにここまで手の込んだことはやらんだろうと思うようになったが・・・・ただしこの本も「内容に偽りあり」でちっともバトルになっていない。宇野功芳ら仲良しグループによる井戸端会議本と同じく、単なる馴れ合いである。(「バトル」なら例えば、「苦い思い出」で傷の舐め合いなんかしないで、「そんな位で『運命は残酷』などとなさけないこと言ってんじゃねーよ、この腰抜けがぁ」ぐらいは書かないとねえ、と言いたい。)鈴木はここでも恥ずかし気もなく許の推薦盤を挙げているし、模倣も相変わらずだ。この本の彼の文章のいくつかについて、「こんな名盤はいらない!」中の許の文章との類似点を以下のように指摘することができる。

鈴木:第三交響曲の第一主題がこれほどまでに意味を失って響いた例を私は知らない。
 (ブルックナー3番ドホナーニ盤)
許:第一主題の提示からしてその主題が提示されるべき必然性がない。
 (ブルックナー9番ヴァント&BPO盤)

鈴木:でも、そのとき、われわれ聴き手はヴァントではなく、その奥のチェリビダッケを聴いていた。
許:その結果、出てくる音がときにチェリビダッケ風になってしまうのはご愛敬だが。
 (ともにヴァント&ミュンヘン・フィルの演奏に関するコメント)

 ワルツ集の項では「基本的にウィンナ・ワルツが好きではない」というお追従ぶり。しかも「そんなわたしでさえも、アーノンクールがニューイヤー・コンサートに・・・・・」という展開の仕方までソックリ。(許は「クラシックの聴き方が変わる本」に「私はウィンナ・ワルツが大ッキライだ。・・・・・・だが、クライバーが指揮したときだけは、興味をひかれた」という文章を書いている。)もひとつオマケに書くと、許がベートーヴェンのピアノ協奏曲第1番の項で「天下のドレスデン」と持ち上げたドレスデン・シュターツカペレ(←後に「究極! クラシックのツボ」で「筆者として一押しの楽団」と述べている)を、ブル5(シノーポリ盤)の項でヨイショしている。まさに忠犬ハチ公も真っ青というべき徹底した献身ぶりである。(2005年6月追記:アーノンクールのページ構想中に気が付いたこと。ともに「本場もの志向」の評論家であるせいか、許は「世界最高のクラシック」で「クラシックはヨーロッパのローカル音楽」というアーノンクールの主張を引いているし、鈴木は「クラシック悪魔の辞典【完全版】」にて「自分の芸術がヨーロッパという歴史的環境でしか成立しない、はかない貴族文化なのだとの自覚をもっていることだろう」という一文でこの指揮者の項を結んでいる。そういう思考回路を持っているからこそ、両者とも特定の贔屓を除いて日本の演奏家や団体を小馬鹿にするような発言を繰り返しているのだろう。ただし、許の引用はともかく鈴木の「はかない自覚」云々は彼の勝手な想像に過ぎず、読んでいて非常に不愉快である。なお、もしかして自分が時々本場ヨーロッパまで聴きに行けるほどのいい身分であるという優越感から「貴族文化」のような言葉が飛び出したのではないか、などと邪推したくなるのは言うまでもなく私の劣等感のせいである・・・・と書いたが、その辺りについては「クラシックCDバトル」のドヴォ8の項でちゃんと予防線が張ってあった。ついでに書いておくと、「優れた指揮者の手にかかると曲の欠点が露わになってしまう」のような論調もクリソツである。)
 ちなみに、この本で最悪なのが、先に挙げたブルックナー3番ドホナーニ盤の項である。42行の「ひじょうに長い前置き」でドホナーニ盤をさんざん貶している。しかも笑わせることに、「作曲家の特性を考えるためにいい演奏だから」という理由で挙げたのだという。「演奏自体は悪いが」との注釈まで付けて。そして、自分が本当にいいと思っているらしいアーノンクール盤とセル盤にはたった5行しか使っていない。宇野が「カラヤンとは似て非なる演奏」と書いてクライバーの「運命」を褒めたのとのと同じく(宇野の項参照)、いやそれをも下回る最低レベルの批評である。
 例の「延々貶し→添え物賞賛」というパターンであるため、そこは水を得た魚のごとく著者が筆を走らせている様子が目に浮かぶ。が、いつまでもこんなやり方に頼っているようでは、「この評論家は褒める場合には全く無能」と烙印を押されたとしても文句は言えまい。もしかして、この人の引き出しの中身は本当にこの程度なのだろうか?

 「クラシック批評こてんぱん」は、「各論」に相当する1〜4章はそれなりに楽しんで読めた。しかし、著者が力を入れて書いたであろう最後の「総論」(5章)はちっとも面白くなかった。たぶん高尚すぎて私の知的レベルが追いついていないのだろう。理解できないものには口を噤むべきなので、3章から1つだけ文句を付けるだけにしておく。
 許光俊について述べた部分には、例の掲示板でも「身内のべた褒め」のような書き込みがあったと記憶しているが、私も「ごますり」のように思えなくもなかった。いずれにしても、「身内だから悪くは書か(け)ない」というような印象を与えるのは感心できない。それはさておき、許の守備力はそんなに完璧だろうかと私は疑問に思う。このサイトのあちこちで触れているはずだが、許の批評に「つっこみどころ」は決して少なくないように思う(例えば「本場物志向」)。彼はむしろ爆発的な攻撃力がウリの評論家ではないか? 「3点取られても4点取って勝てばいい」というタイプ。だから見ている側も楽しくてたまらない。(「かんぬき」なんぞ糞食らえだ! つまらんサッカーしやがって! →EURO2004のグループリーグ敗退で溜飲が下がった。)おそらくは敵を増やすこともさして気に留めていないのだろう。昔も今も「言いたい放題」というスタンスを続けている。だいたい自分の保身を考える人間が、来日反対運動を繰り広げたヴァントのコンサートにノコノコと出かけたりするだろうか? 後でボロクソに言われることは火を見るよりも明らかなのに。許のページの「生きていくためのクラシック」の所にも書くことになろうが、彼は「破滅型人間」に属すると思う。彼にとってはあと1年生きるのも50年生きるのも大して違いはないのだろう。だから、一期一会のコンサートに出かけたまでのことなのだ。周りが敵だらけになって、クラシック関係の仕事が全て取り上げられてしまったとしても、彼は「そんときゃそんときさ」位にしか思っていないのかもしれない。「犬のようにうろついていた」頃のある評論家のような生き方を今も続けている、それが許光俊であると私は考えているのだが、決して大外れではあるまい。許のページ冒頭にも書いたが、彼は明らかに小林秀雄の血を引いている。(ちょっと強引か?)

 最後に、であるが、「美しい日本の掲示板 ― インターネット掲示板の文化論」という本を出していることからも、彼が暴挙台形地盤をよく観察していることは明らかである。ところで、かつて彼のスレッドが立てられたものの盛り上がりはもう一つで、過去ログ倉庫行きになる寸前で何者かが上げるということが何度か繰り返された。「ageているのは鈴木自身w」のような疑惑が出され、さらには「どうせこのスレも自分の本のネタとして使うつもりだろう」という投稿もあった。私の目を引いたのはその後である。「そんなのはただの妄想だ。本を出すような人間はこんなところでお前達の相手をしているほどヒマじゃない」という反論があったのである。私はこの応酬を見て驚いた。「鈴木がここの住人である」「ここに書き込んでいる」などとは誰も言ってない。「(ここを閲覧して)次作のネタに使う」という可能性が指摘されただけである。現に鈴木は「クラシック批評こてんぱん」で宇野のスレッドからそっくりそのまま、かなり長々と転載していたのだから、その指摘は決して荒唐無稽なものとはいえない。(ちなみにあの局部に関する議論は読んでも全然面白くない。ネタにするのなら他にいくらでもあるのに、と思った。)まるで「ネタとして使う」が図星だったので思わずカッとなって書き込んだような過剰反応である。「もしかして本人、あるいは関係者?」という考えが一瞬頭を過ぎったが、いくら何でもこんな読み違いをプロの物書きがするはずはない。「あれはいったい誰やねん?」 確かめようがないので相変わらず謎のままである。そして、結果的に煽りとなった書き込みが誰の仕業であるのかを知る術もない。(この先さらに続く・・・・のだろうか?)

2005年1月追記
 昨年9月に洋泉社新書yシリーズとして出た本は「占いの力」という題で、これまた内容はクラシック音楽とは無関係のようだ。さらに今月には「『電車男』は誰なのか―“ネタ化”するコミュニケーション」というのも発売された模様である。(私は今年に入ってから、あるテレビ番組で宮崎哲弥と橋下徹が話題にしていた時に初めて耳にしたので、「電車男」のことは某巨大掲示板の書き込みが小説としてベストセラーになってしまったという位しか知らないし、特に興味もない。)某掲示板に「音楽評論家としては完全に失速」という書き込みがあったような気もするが、既にクラシックの評論には見切りを付けてしまったということだろうか?(CDジャーナルの輸入盤評こそ今も続けているが。)何にせよ、当ページは音楽評論家を論ずる場所であるため、それについての新ネタが登場するまで待つことにする。

2005年6月12日追記
 前から気になっていたこと。「クラシック名盤ほめ殺し」中の「ラヴェル/ピアノ曲集」の項では、引きこもりの息子が所望するディスクを買うため街に向かおうとする母親役の天使に知人(近所の主婦?)役の悪魔が語りかける。

 たいへんねえ。引きこもりだなんて。
 でしたら、演奏者はフランソワなんてどうかしら?
 ≪夜のガスパール≫なんて息子さん向けだと思いますわ。
(その後≪鏡≫≪道化師の朝の歌≫≪クープランの墓≫も褒める。)

私は「これは何のパロディだろう?」と考え込んだ。以前どこかで読んだ記憶があったから。その時は思い出せなかったので、「きっとデジャ・ヴーだろう」ということで放っておいた。しかし、気になるものはやっぱり気になる。それで昨晩、本棚から手当たり次第に引っ張り出してみた。ラヴェルが出てくるということは20世紀の作品だから、捜すにしても大して時間はかかるまいと思いつつ。たぶん砂岩、そうでなければ黒糖か猿取ではないかという予想こそ外れたものの、やはりアッサリ見つかった。(英米は最初から問題外だった。マンやヘッセなどドイツ文学でもないだろうと考えて、フランスからラテンアメリカに飛んだのは正解だった。)タイトルがそのものズバリだった。チリの作家、ホセ・ドノーソによる「三つのブルジョワ物語」(集英社文庫)の3作目「夜のガスパール」である。(以下余談。訳者の木村榮一は解説にて「トルストイの小説を読んでいると、どこまでも続く広々とした大道を歩いているような気持ちになるが、ドストエフスキーの小説では、次のページで何が起こるか解らない不安と期待があり、それが大きな魅力になっている」という数学者の岡潔による比較論を紹介した後、「ドノーソの作品でもやはり、ある狂気なりオブセッションに取りつかれた人物たちの次の行動が読みとれず読者は絶えず不安と期待を抱くことになる」「次のページで何が起こるか見当もつかないドノーソの作品を読みおえた読者はおそらく、パラノイアックな悪夢を見ていたような思いにとらえられるであろう」と述べていた。全くその通りで、私はこの短編集を大いに堪能した。ドノーソの小説が他に翻訳されているのなら読んでみたいと思っている。ちなみに、私は集英社の「ラテンアメリカの文学」を10冊全て買ったけれども、ことごとく傑作揃いでハズレは1つとしてなかった。それは何もこのシリーズに限ったことではなく、ラテンアメリカ文学はガルシア=マルケスを筆頭に、プイグ、フエンテス、コルタサル、バルガス=リョサ等々どれも水準は驚異的に高い。私はロシア文学と並んで評価している。日本に紹介されている作品がまだまだ少ないのは残念である。)
 バルセローナでモデル稼業を営むシルビアは、元夫のラモンに引き取られた息子マウリシオをしばらく預かることになる。ところが、彼は同年代の若者が興味を示すような事柄にはまるで無関心。部屋に閉じこもってずっと口笛を吹いている。それも人の心を惑わせるほど上手に。心配になった母親はマドリッドのラモンと電話で話し合った末、共通の友人であるパオロを呼ぶことにする。
 やって来た彼は「びっくりする位、口笛がうまいね」から始め、「きみみたいに上手にラヴェルを吹こうとすると、よほど耳がよくて、人並みはずれた音楽的センスがないとだめだね」とマウリシオを誉める。そして会話が始まる。

 パオロがずばり尋ねた。
 「君が吹いていたのは、≪夜のガスパール≫だろう?」
 「ええ」
 シルビアが横から口を挟んだ。
 「でも、どうしてラヴェルが好きなの、マウリシオ?」
 こういう時は空とぼけるにかぎると考えて、彼は答えた。
 「ぼくと同じ名前だからだよ」
(蛇足だが "Mauricio" は "Maurice" の西語式綴りである。)

それでも納得がゆかないシルビアは、若者ならポップスやジャズに興味を持つし、いい音楽ならバロックやベートーヴェンの四重奏などもあるのに、なんでラヴェルなのかと食い下がる。(大きなお世話やないか。)パオロも「彼はたしかに偉大な作曲家だよ。だけど、近頃はあまり聞く人がいないんじゃないかな。ほとんど話題にもならないしね。」と追い打ちをかける。(正確な年代は判らないが、当時のスペインでのラヴェルの評価が推し量れるのは面白い。)しかし、納得のいく答えをマウリシオから引き出すことは結局できず、シルビアは埒があかないまま事態の収拾を図る。

 「(前略)ラヴェルのレコードを一枚残らず買ってあげる……」
 「いらないよ……」
 「口笛で吹いていたのは、何という曲?」
 「≪夜のガスパール≫だよ」
 「明日そのレコードを買ってあげるわ」
 「≪夜のガスパール≫はべつに買わなくていいよ」
 「そう。だったらほかのを全部揃えればいい」
 「いいよ」

ということで、鈴木は翌日シルビアがレコードを買いに出た場面を続きとして描いたのだ。これで私の頭の中も「スッキリ」・・・・とはいかなかった。少し前後するが、パオロがシルビアにこう語る。「ラヴェルというのは、ふっといなくなって、長い間人前に姿を現さないことがよくあったんだけど、その間どこに行って、何をしていたのかまったく分からないんだ。その意味で、彼の生涯は多分に神秘的な雰囲気に包まれていると言えるだろうな。妙な話だけど、この子を見ていて、ぼくはラヴェルのことを思い出したんだ。じつのところ、カサドシュの演奏を聞いたあと、ラヴェルのことはずっと忘れていたんだけどね……」以下その続き。

 マウリシオの顔に笑みが広がり、こう言った。
 「カサドシュ……そうですね。あの人の演奏はすばらしいですね。
  二人は友人だったんです」
 シルビアはびっくりしたように息子を見つめた。
 自分がおなかを痛めて産んだ子供が、こんな難しい話をするように
 なったとは信じられなかったのだ。
 「どうしてそんなことを知っているの?」
 「あの人の演奏するラヴェルが好きなんだよ」

なので、鈴木が持ち出したのがロベルトではなくサンソンというのがよく解らない。私は「モヤッと」のままである。ひょっとして彼はこの小説のことは全く知らずにあれを書いたのだろうか?(読んていて少し捻りを利かせただけと考えられなくもないが、どうも違うような気がする。パクリ、いやパロディならこんな中途半端なアレンジはしないはずだ。ネタバレした時に叩かれるのは明らかだから。)もし「引きこもり」と 「夜のガスパール」を結びつけたのが彼のオリジナルだとしたら、上に書いた「腰ぎんちゃく」発言も見直さなければならないし、それ以上に彼の目の付けどころの確かさ、そして(何となくではあるが)センスの良さを認めない訳にはいかない。こういうのを独力で生み出す能力が本当にあるのなら、彼は他人の尻馬に乗る評論家ではなく小説家としての道を歩むべきではなかったか? いや、今からでも遅くはない。(最近では将棋雑誌の編集長から作家に転身し、大成功を収めた大崎善生の例もある。)「寄生虫体質」(傍系地盤)からの脱却を強く望みたいところだ。

2006年1月9日追記
 私は土曜日も大抵は(特にこれといった仕事がない場合でも)職場に来ている。そして、ほぼ2週間に1度(ただし制限回数に達するまで)、帰りに居住地の湖北献血ルームに寄って成分献血させてもらっている。そこからの帰宅途中にブックオフ長浜店がある。某掲示板によると他店も似たり寄ったりの状況らしいが、この店は価格設定が相当いい加減で、クラシックのCDは一部見切り品を除いて1000円均一である。(以前は1250円だったが、売れ行きが悪いので下げたと思われる。)NAXOSなど廉価盤も同価格なのは呆れてしまうが、稀少品の廃盤や2枚組まで一緒なので時に掘り出し物を見つけて手を叩くこともある。(古本も事情は同じ。)一昨日久しぶりに足を踏み入れてみたら、カラヤン&VPOの惑星(DECCA BEST PLUS 50、税込定価1000円)が105円だったので即カゴに入れた。普段は文庫と新書をチェックして終わるのが常だが、何気なしに単行本コーナーに回ってみたところ、「音楽」の棚に並んでいた本の背表紙から「野中映」という文字列を見い出したため反射的に手を伸ばした。
 この音楽学者(現国立音楽大学専任講師)は、かつてCDジャーナルに「にんじんピーマン」という連載を持っていた。少々毛色の変わったクラシック名曲解説で私はそれを愛読していたのである。その連載は一時期ポピュラー音楽にシフトし、再度クラシックに戻ったが、それから間もなく(89年夏)私は国外追放となり、帰国した時(91年冬)には彼の連載は終わっていた。(ポピュラー関係のタイトルは忘れてしまったが、「ニューミュージックが恥ずかしい」だったかな? 内容が変わってしばらく後のこと、お便りコーナーに「野中映という人を殺して下さい」という投稿が載ったことをよく憶えている。その最高傑作は紛れもなく大貫妙子「ピーターラビットとわたし」の回で、一人暮らしの男とぬいぐるみが一体になるというクライマックスのシーンを想像した途端、私は腹を抱えて笑い転げてしまった。現在のCDJには私をここまで愉快にさせてくれる記事は存在しない。切にカムバックを願いたい。)
 さて、私が手に取ったのは「にんじんピーマン」その他の雑誌連載をまとめた「名曲偏愛学」という本で、懐かしさのためそれを購入したのは言うまでもないが、久しぶりに読んでみたところ、他ページで触れたディーリアスの回(「おいしいパセリ」)以外では、メンデルスゾーン&ワーグナーの結婚行進曲、ブラームスのハンガリー舞曲第5番、「トゥランガリラ交響曲」ぐらいしか思い出せなかった。(うちメシアンについては、その話を読んだことが後にリリースされたラトル盤の購入動機となった。)それゆえ新鮮さが却ってありがたかったが、中でもモーツァルトが絶好調時にハ短調の曲を書き、どん底の時にニ長調の曲を書いたという話(幻想曲ハ短調の回)が面白かった。作曲家の生涯を通じて(筆者によれば「絶不調の証」である)ニ長調の曲が圧倒的に多いことに対する「よほど頑固一徹、不調を守り通したのだろう」というコメントはまさに抱腹絶倒ものである。「クラシックについてこれほど面白く書ける人はほかにいない」というネット評を見つけたが、その是非はとにかくとして、オチャラケ批評の先駆者の1人であることは間違いない。最初に出てくる「妊婦に『干からびた胎児』を聴かせる」というネタは、これから触れる本でも使われている。また、ブルックナーの回の新興宗教のような怪しい団体に監禁されるという話は、許光俊の「白バラ団のマリア」の元ネタではないかと思ったほどだ。(2006年2月追記:後にオネゲルの第2交響曲の回を思い出した。オールドミスばかりの弦楽合奏団に男性のトランペット奏者がソリストとして招かれるという話だったが、とにかく表現の生々しさが素晴らしく、壮絶極まりないラストのシーンを思い浮かべると背筋が寒くなるほどだ。「にんじんピーマン」中の最高傑作かもしれないが、あまりにドロドロ過ぎるため「名曲偏愛学」には収録されなかったのであろう。)
 例によってダラダラ前置きになったが、その隣にあったのが「不思議な国のクラシック」である。鈴木がそのようなタイトルの単著を請求者(許の牙城?)から出していたとは全く思いも寄らなかった。半額(800円)でも安くは感じられなかったが、「(やはり半額だった)「名曲偏愛学」のオマケと考えればいいか」という気持ちで一緒にレジに持って行った。しばらく彼の本を読んでいないことも考慮した。(要戦車新書yシリーズの近著「わたしの嫌いなクラシック」は某掲示板では「味方からも敵からもスルー」どころか「宇宙開発」を思わせるほど話題にならなかったため、私も全く読む気が起こらなかった。ちなみに、「宇宙開発」という言い回しは岡野俊一郎がサッカーの解説中に繰り返し使っていたので憶えた。要は明後日の方向に打ち上げられ観客席に飛び込むようなシュートのことである。)
 第1章「クラシックってどんなもの?」では「いかにもクラシックなクラシック」である「運命」交響曲を題材に話を進める。ソナタ形式の説明は以前にも読んだことがあるが、本著のそれは秀逸だと思う。(許の「クラシックを聴け!」以上にわかりやすい。)喩え話で笑いに徹しているのが見事で、第2楽章の変奏曲を人形遊び(コスプレ)に準えるところなど吹き出してしまった。ところが、ポピュラーとクラシックの違いを論じるあたりから次第に苛立ちが募ってしまった。この章最終ページの「極論をいえば、クラシック音楽は日本人にとってあまり必要な音楽ではないんじゃないか」に対しては、「何をいまさら分かり切ったことを」「延々述べてきて結局それだけかい」と言いたい気分だし、それは何も日本に限ったことでもあるまい。が、そんなことお構いなしに著者は「クラシックがもてはやされる現象は、まちがいなく日本という風土に原因の一つはある」として、「で、日本ってどんな国だったかしら?」と次に移ってしまう。
 その日本論(第2章「日本とはどんなものだったかしら?」)であるが、日本の独自性については(当サイトも真っ青のこじつけ話まで持ってきて)これでもかこれでもかと提示する。が、それに対して「クラシックの本場」ヨーロッパの方はといえば多くが憶測の域を出ず、著者に多少は訪欧経験があることを勘案してもあまりに貧弱であるといわざるを得ない。結局のところ、彼の語る「ヨーロッパ」とは、「日本はこうである」と「日本とヨーロッパは違う」から強引に導いた「こうである『はず』のヨーロッパ」に過ぎない。(私には仮想敵国の攻撃に怯えつつ必死に軍備を増強し続けるような滑稽さが感じられて仕方がなかった。ついでながら、「そんなに仮想敵国が恐いんなら、いっそのこと亡命してそっちに住んじゃえばいいのに」とも言いたくなる。もちろんこれは当てつけである。)そういう「仮想ヨーロッパ」と「日本」とを対比させているのだから、(私もここから想像モードに入ることを許してもらうとして、)もしこれが学術論文で私がレフェリーだったとしたら「循環論法に陥っています」という理由でリジェクトするだろう。細かな矛盾点を指摘するまでもない。(思い出したが、鈴木が「こんな『名盤』は、いらない」の「朝比奈とは、へたなブルックナーという意味だ」で用いた手口もこれと同じである。朝比奈8番N響盤ページを参照のこと。ちなみに、鈴木はそこで朝比奈を「日本的アニミズム」の権化のように扱っていたが、この言い回しは本著で執拗なまでに繰り返し使われている。)
 戻って、「日本人は、ソナタ形式がカラダに染みついてしまったおかげで、形式を意識しなくても聴ける、感覚として構造を感じることができる本場のヨーロッパ人とは違う」が主張の眼目のようだが、作曲家がそうだったとしても、それを欧州人全体にまで広げるのはいくら何でも乱暴というものだ。自説をサポートする材料があまりにも不足しているのは明らかである。比較論を繰り広げようとするなら、せめて実地調査(聞き取りなど)ぐらいはやってもらわんと。「昨今のヨーロッパ人には日本人と同じ傾向が出てきている」のような逃げ道を用意したつもりかもしれないが、そんな言い訳は通用しない。つまり、鈴木の「日本論」は部分的には注目するところがあっても全体としての構造は極めて脆弱であり、「構造的センスを感じ取れてもそれを表現できない」という日本人の特徴を身を以て示すという結果に終わってしまっている。(「あとがき」にあった「自分でもやんなっちゃうぐらい重苦しい内容」は彼一流のジョークであろう。やっつけ仕事としか思えない。)もっとも、後に「ズボスボに日本文化に染まってんねん」「論理的にものごとを考えるより、きわめて情緒的な流れを重視するタイプ」と自分自身を評しているから、それは十分に予想されたことかもしれないが。
 著者は「すべての文化を取り込んでゆく日本文化」ゆえ、「日本仏教も洋食もホンモノの仏教でもなければ西洋料理でもない」と述べた後、「このような二次元化されたフェイクがあふれかえっている日本という国で、本当のクラシックは何かということを探すのも、それを聴きつづけるのもひじょうに難しい」と続ける。それを読み、「結局この人は『ホンモノ志向』『本場物志向』から一歩も抜け出せないでいるんだな」と私は思った。小林秀雄の「真贋」ぐらい読んでいそうなものだが。そういえば、アニメ「ルパンIII世」の最初のシリーズにも、真札よりも出来の良い紙幣を刷ってしまう贋金造りの話(「こりゃ失敗作かい?」とルパンが訊いたら本物だった)があった。ここで私は、本著で紹介されている金子達仁(サッカー評論家)の「低俗なポルノ」発言(WC前回大会の日本 vs ベルギー戦に対するコメント)がネット上で大きな波紋を呼んだことを思い出した。他にも評論家やにわかライターの一部は、開催前に自分の立てた予想が悉く外れていたことの腹癒せか、読者が嫌悪感を催さずにはいられないような低劣な文章を書き散らしていた。その後、(たしか)宇都宮徹壱が自身のサイトに「自分たちの思い通りにならないと不貞腐れている連中はもう放っておこう」と書いていたのは胸がすく思いだった。それに便乗(?)して私も「志の低い連中はもう放っておこう」と言わせてもらう。こういう人は、仮に「本場ヨーロッパのオーケストラよりも日本のオケの方が優れていることがある」といった現場の(両方に在籍した奏者による)証言が出てきたとしても、「下らない意見」として無視するしか手はないのだろう。(実は最近そのような書き込みを某掲示板の許スレッドで目にした。)などど私がゴチャゴチャ書く以前に、「ワタシはこの著者の書いたものを何冊か読んでいるので、またか、と思わないでもなかった。 ある種の日本人論なんだけど、何冊か読んでいると飽きちゃうんですよね。」というネット評に言い尽くされているような気もする。
 ということで、この章と第3章「ニッポン・クラシックとはいかなるものか?」については真面目に評論として読む価値を認めなかったが、そんな堅苦しいことさえ言わなければ結構愉しめる。著者はクラシックを「エロなオレ様音楽」と定義し、それを何度も使っているが、使用頻度の相当高い(=その道に通じていることを窺わせる)エロ関係ネタには笑わせてもらった。また、日本各地の方言の使用も効果的である。サッカー話も私にとっては嬉しい限りだ。いつかリベルタドーレス杯も頼む。(2006年1月12日追記:「遺伝子」や「DNA」の乱用は遺伝学や分子生物学を専門としていない私ですら眉をひそめずにはいられないが、これはまあ彼に限ったことではないから許そう。池澤夏樹「世界文学を読みほどく」によると、現東京都知事は日本在住外国人について「あいつらには犯罪の遺伝子がある」などと言ったらしいが、それと比べたらはるかにマシである。ついでながら、その本は京大文学部での集中講義をまとめたものであるが、「犯罪のDNAがある」といった考え方は池澤によると「通俗生物学の最悪の例」だそうで、「世の中一般に今言われているDNAという言葉は、だいたい比喩です。それも良くない比喩です。人は自分の判断、自分の倫理観で道を選んで動いていく。それをその通俗生物学で誤魔化さないように」と学生達に語ったらしい。そういえば、中村桂子と柳澤桂子のどっちだったかは忘れてしまったが、何かの対談で「私たちのDNAが脈々と受け継がれていくことに感動を覚える」など、まるで神様のようにDNAや遺伝子を崇め奉る風潮に対して異を唱えていたのを読んだことがある。)
 次の第4章の「クラシック音楽伝道者達の饗宴!」(書評)は素晴らしい。(著者が暗澹たる気分になったというくだりは前段落で述べた理由により笑って読み飛ばしておけばよい。)戦前戦後のクラシック入門書の執筆者を次々と歴史上の重要人物(宗教家など)に当てはめるという(天使 vs 悪魔の対話以上に)斬新なアイデアおよび見事な手腕には思わず唸らされた。もちろん「これほど、クラシック音楽がなんであるかについてわかりやすく説明した本はないはずだ」として「クラシックを聴け!」を紹介し、忠実な僕としての責務を果たすことも忘れていない。
 第5章「日本人はどう聴けばよいのだろうか?」は2&3章同様なので割愛。終章「私はどう聴いてきたんだっけ?」はこの人のクラシック遍歴であり、許の「私の憂鬱」(「クラシック、マジでやばい話」第2章)同様、読み進むにつれて著者との距離が縮まっていくように感じた。(第1章冒頭のカラオケ話にも共感を覚えた。ちなみに、私はアカペラで第九の独唱パートを唄って顰蹙を買ったことが何度かある。裏声に磨きをかけ、次に「復活」でもやったろか?)それにしても、この人の教養の幅広さには感心するばかりである。一時期、彼がサブカルチャー評論に進出しようとしていたのも肯ける。もっと知られて&売れていいライターだと正直思った。前回追記分ラストに書いたように、マジに小説家としての道を歩んでみたらどうなのだろうか? (独創性皆無というなら話は別だが・・・・・・それどころか「仮想構築力」はなかなかのものじゃないか。)それはさておき、「800円は高い」という気持ちは読後さらに強くなったけれども、250円なら文句なしに買いだろう。(おっとっと。ブックオフの250円均一はCDだけだった。古本はやはり半額か100円ということになるが、後者は当地ではまずあり得ないだろう。私が散々汚してから売りに出せばその可能性はあるが、引き取ってもらえないかも。)
 最後に、本に挟んであった美しいしおりについて。表に「財団法人日本聖書教会」、裏に「聖書通読運動」の文字がある。当ページ冒頭では「地元に鈴木本の固定客がいるのではないか」と推察したが、もしかすると熱心なクリスチャンなのだろうか? 何にせよ、「わたしの嫌いなクラシック」の方もお願いします。

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