宇野功芳の良くないところは無節操なところだ。彼の手になる文章を目にしたのは、ハイティンク&VPOの「ロマンティック」の解説が最初であるが(私が生涯で初めて買ったCDだから当然か)、指揮者についても概ね好意的に述べられていた。ところが、彼は60年代から70年代にかけて録音されたハイティンクの全集についてこんなことを書いていたのである( 帰徳書房「モーツァルトとブルックナー《増補改訂版》」)。ネット上でそれを読み、私は呆れてしまった。

「聴いていて精神がだれ切ってしまうような凡演」
「一言で評せば、<軟弱の極み>であり、<愚鈍の固まり>であるといえよう」

私はその全集は全く聴いていないので、彼の評価に対してコメントはできない。しかし、そこまで酷評したことがある指揮者のディスクならば、解説を依頼されても断るというのがまともな神経の持ち主ではないだろうか? 引き受けるにしても、(指揮者の将来性を見抜けなかった自分を恥じて)「ぼくの聴き方が間違っていたといえよう。読者の皆さん、ごめんなさいといえよう。」と詫びの一つぐらいは入れたらどうなんだ、と言いたくなる。他に、自著ではボロクソに書いているショルティについても、チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番他(シフ独奏)のCDブックレットにて、やはり二枚目の舌でオベンチャラを言っていた。(ただし「もし解説執筆を片手間仕事と考えているのなら芸術に対して失礼だし、小遣い稼ぎならセコイとしか言いようがない」のように仮定で批判をしてはいけない。)
 ここでKさんへのメールにこんなことを書いていたのも思い出した。

 「カラヤンが小澤征爾に『シベリウスの音楽を演奏するには、スコアを徹底
  的に勉強しなければならない』といった言葉も、トスカニーニからみれば
  笑止千万ということになろう。彼にとって、フィンランドの自然こそ全て
  だったからだ。」

上を眺めて「あれ、何か変だな?」と思った人は「名演奏のクラシック」を読んだことがおありであろう。

 「カラヤンが小澤征爾に『シベリウスの音楽を演奏するには、フィンランドの
  自然を知らなければならない』といった言葉も、トスカニーニからみれば
  笑止千万ということになろう。彼にとって、スコアこそ全てだったからだ。」

これが原文である。いずれにしても宇野はシベリウスの演奏に「フィンランドの自然」と「スコア」のどちらがより重要であるかについては何も言っていない。そう、彼にとっては「フィンランドの自然」や「スコア」などどうでも良いのである。単にトスカニーニをダシに使って「笑止千万」と間接的にカラヤンを貶したかっただけなのだ。こういうのを「狡猾」という。いや、「卑怯」の方がピッタリかもしれない。
 ここでカラヤンが出たのでもう少し続ける。宇野は「好きではないカラヤンでも誉める時は誉める」「好き嫌いに関係なく、よいものはよい、悪いものは悪いのだ。それをはっきりと読者に伝えるのが評論家のつとめなのである」などと自分の公正さをアピールしているが、貶すときは「品格」「芸術性」「人間性」などあらゆる言葉を用いてカラヤンを攻撃するのに対し、誉めるときは「無上にすばらしい」で終わりである。不公正さを隠蔽しようとする意図がミエミエで非常に見苦しい。さらに、カラヤンが名演を成し遂げているのは演奏効果を狙った外面的な曲で、精神性(中身)のない指揮者と相性ピッタリだからとでも言わんばかりの論調である。どこが公平な態度なのであろうか?(「4つの最後の歌」には「精神性」はないのだろうか? R・シュトラウスやヘッセが怒るぞ。)
 それから、「クラシックの名曲・名盤」ではベートーヴェンの第5番でフルトヴェングラーを挙げ、最後のたった2行で「最新録音ではクライバー盤がベスト」と推している。「カラヤンとは似て非なる名演である」と付け加えて。クライバー盤のどこがどう似て非なるのかを具体的に書かなければ、その前に「スポーツ・カーがどうのこうの」と述べたことも「私はカラヤン盤が嫌いだ」と言っているのと何ら変わりがなくなってしまうということには思いが至らないのだろうか? (表面的に似た演奏でもクライバーを是、カラヤンを非とするというのなら、つまり「ダブル・スタンダード」ならそれでも別に構わないのだが、少なくとも2つ目の基準、もちろん好き嫌い以外の客観的基準が何であるのかを説明する義務はあると思うぞ。そういえば、「ある基準で嫌いな演奏家を徹底的に貶す一方で、贔屓の演奏家の場合は同じ基準を『大して問題にならない』『些細なことである』などと軽く扱うのは冗談じゃない!」というような批判投稿をネット掲示板にて読んだことがある。)そもそも他を貶めることによって相対的に持ち上げるというのは、批評の中でも最低レベルの批評ではないか!(ちなみに、カラヤンのベートーヴェンに対しては、宇野ほどではないけれども私も感心できない点がある。これについてはカラヤンの項に別に記す。)
 「ダブル・スタンダード」で思い出したが、宇野は「ほんとうに優れた芸術は甘口専門ではない」(名演奏のクラシック)としてカラヤンを貶す一方で、「オンガクハドノヨウナバアイニモタノシクナクテハイケマセン」(クラシックの名曲・名盤)などとブラームスにケチを付けている。彼の頭の中ではこれら2つがどのように折り合いを付けているのか、それだけはどうしても知りたい。もしかしたら、彼もドストエフスキーのような分裂気質、自己矛盾を抱えた人間なのかもしれない。その自覚がないからこそ(本来の意味での「確信犯」だからこそ)、いつまでも変わることなく好き勝手なことを書いていられるのではないかという気もする。
 ということで最後はちょっと暴走気味になってしまったが、宇野の得意技は「節操の無さ」(あるいは「厚かましさ」)、「公正さの欠如」、「良し悪しと好き嫌いの混同」「ダブル・スタンダード」ということでよいだろうか?(おいおい。)
 既にお気づきの方もおられるだろうが、このページの書き出しは許光俊のパクリである。彼は「クラシックを聴け!」で宇野をこのように評していた。

 宇野功芳のいいところは、あくまでバカ正直なところだ。いいと思うものは、
 たとえ他人が無視しようとけなそうと、しゃかりきになって誉める。ダメと
 思うものには憎悪をむき出しにしてけなし倒す。まさに一匹狼の評論家なら
 ではの傍若無人ぶりだ。

そう、確かに「一匹狼」だったのかもしれない。かつては。「こんな名盤はいらない!」巻末鼎談における鈴木淳史(下は誤記)の発言を引きながら、私はこんなことをKさんへのメール(2000/05/27)に書いている。結局、宇野がダメになったのは取り巻き連中のせいなのであろう。

>  本文中で出てきた宇野氏について、前述の鈴木敦史氏は「共同体をあえて
> 離れて仕事をした人が、皮肉にも新しい共同体を作ってしまっていますけど
> ね(笑)」と評していましたが、確かに教祖に祭り上げられるようになって
> 以降の宇野氏の発言は傲慢さを帯びるようになってきたと思います。
>  この前の日曜日に、かなり前に買った「クラシックの聴き方が変わる本」
> を読み返していて、ふと竹内貴久雄氏の文章が目に留まりました。(記憶に
> 残っていないのは、読み飛ばしていたとしか考えられません。)ストコフス
> キーの92歳の誕生日を記念したコンサートのライブCDに収録されたブラーム
> スの交響曲第4番が、新譜を月評する月刊誌上で、音楽評論家U氏によって
> 「ストコフスキーにはそぐわない選曲」という理由にもならない理由によっ
> てダメ演奏の烙印を押されたことに触れ、以下このように続けられています。
>
>  こんな歳まで生きた大指揮者が引退を目前にして自ら選択したレパートリ
>  ーを、「そぐわない選曲」とバッサリ切り捨てるU氏の傲慢さが、私には
>  ゆるせない。音楽評論というのは、なぜこの曲を選んだのか考えることも
>  含めて、まず、そこにある演奏を受け入れなければ成り立たない。この評
>  論家氏、昔はこんなに威張っていなかったのに。
>
>  さらに竹内氏は高校時代にU氏の自宅に押し掛けた時のエピソードまで書
> いていました。
>
>  貴方は、貴方の書いた文章をそらんじているような私の発言に、少し困っ
>  たような顔をして「音楽はいろいろな聴き方があるんだよ。ボクのいうこ
>  とがすべてじゃない」というようなことを言いました。ずいぶん、お変わ
>  りになりましたね。とても残念です。・・・・・
>
> お解りのように、かつて竹内氏は宇野氏の熱烈なファンだったのです。裏切
> られたという無念さや「可愛さ余って憎さ百倍」という心情が文章から滲ん
> でいました。

 ・・・・などと好き勝手に書いたが、私はこの評論家の実力は認めている。Kさんにこんなことも書いていたのであった 。

>>  渡辺和彦氏が「批評家はもっと批評されるべし」などと言っていましたが
>> 雑誌でそのような企画があると面白いですね。
>>  最も評価が分かれるのは、やはり宇野功芳でしょうか。(註:ここまでKさん)

>  全く。「評論家ベスト・ワースト」みたいなの、(できたら毎年)やって欲しいで
> すね。宇野氏ほどの実力があれば、間違いなくベストにもワーストにも必ず顔を出す
> でしょう。ワースト部門だけ上位にランクインしてベスト部門では圏外という「キン
> グ・オブ・ダメ評論家」には一体誰が選ばれるか、是非知りたいものです。
>  ところで今もやっているかは知りませんが、作曲家の吉松隆氏によるNHK-FMの「ク
> ラシック・サロン」の新譜紹介を代わって宇野氏に担当してもらいたいものです。と
> にかく何でも思った通りのことを歯に衣着せずに発言してもらう。気に入らない新譜
> は途中で止めてしまう。そして「これこそが推薦盤だ」とばかりに、自分が指揮した
> CDを全曲かける。きっと抗議の電話は鳴り止まないでしょうが、金曜日の「おしゃ
> べりクラシック」など問題にならないほどの爆発的人気を獲得することになるのでは、
> と勝手に想像しています。(98/12/25)
                           

おまけ
 この際ついでということで、Kさんに送ったメールより宇野と仲の良かった(今もそうなのかは知らないが)評論家Tについて語った部分(ただし>>はKさん執筆分)をおまけとして載せておくことにする。わざわざ独立したページを立てるまでもないと判断したし、新たに書き加えることも多くないためである。

>  ところで、スポーツライターとして登場した頃の○木△之氏の文章は僕は
> とても好きだったのですが、彼が売れてきてクラシックの評論もするように
> なると、やはり(宇野氏ほど感情的ではないが)カラヤン批判の文章に苛立
> たせられるようになり、次第にスポーツ評論の方も目にするのを敬遠するよ
> うになりました。あくまで別の分野なので、「ああいう偏った批評をする人
> だから」という色眼鏡で見てはいけないのは解っているんですけど。彼も忙
> しさのためにじっくり文章を練る時間がとれないために、質が下がっている
> のかもしれませんね。とても残念です。(98/12/04)

> ・・・・・・・・・もしかしたら目にされたかもしれませんが、あるアンチ・
> カラヤン氏はコンサート評で、「コンサート会場に高級車で颯爽と乗り付け、
> さっと引き揚げるような彼の権力志向剥きだしの態度が・・・・」というよ
> うな文章を書いていたそうですが(別のアンチ・カラヤン氏が引用)、この
> ような指揮者の私生活という音楽とは直接関係のない情報を批評の材料とす
> る態度、色眼鏡をかけて(せめて聴くときだけははずすべき)音楽を聴こう
> とする姿勢は評論家として完全に失格でしょう。(98/12/18)

 こんなこと書く奴も書く奴だが引用する奴も引用する奴だと思うぞ。こんな卑しい真似(第三者を使って他者を攻撃)をしておいて「精神性」とはチャンチャラおかしい。

>>  全く言い掛かりも甚だしいというものですね。
>> 蛇足になりますが、高級車に乗るのがどうして権力志向なんでしょう。
>> 誰だって乗り心地がよくて安全な車に乗りたがるのは当然なのに。
>> 誰かのエッセイの中での誰かの言葉の引用で(わけがわからない)、
>> 「庶民にとっては、自分の手の届かないものは全て悪なのだ」
>> というものがありましたが、その評論家もまさにそういった観念に
>> 毒された一人ですね。
(追記:実に見事な○木批判で、これにつけ加えることは何一つない。)
>  よく考えてみると、彼の支持する音楽家のうち誰1人として高級車で乗り付けたり
> はしていないということを証明してはじめて言える意見ですよね。あるいは、演奏家
> がコンサート会場に来るために用いる手段とコストを調査した上で、演奏の質との間
> に有意な負の相関があった等というデータなりを示してくれたら、こっちも(その是
> 非はともかくとして)「オオッ!」と感心し、その内容を吟味しようという気にもな
> りますが・・・・理系人間なので、つい理屈っぽいことを書いてしまいました。
                               (98/12/25)

>  しかし、このようなアンバランスな演奏(註:バーンスタイン晩年の演奏
> を指す) でも褒める人は褒めるのです。宇野氏と○木△之氏の対談では、宇
> 野氏が「晩年のあの遅いテンポには付き合いきれないよ」と言ったのに対し
> て「お言葉ですが、あれこそがバーンスタインの良さなのです」などと言い
> 張って、○木氏は決して譲ろうとはしませんでした。○木氏はバーンスタイ
> ンのすることなら何でも正しいと考える人で(ちなみに長嶋茂雄氏について
> も同様)、そういう崇拝型の人にはあくまで客観性を保たねばならない評論
> などして欲しくないと思います。ちなみに、前々回のメールで「カラヤンの
> 権力志向むき出しの態度が」と述べた評論家がいたと書きましたが、何を隠
> そうそれが○木氏なのです。(99/01/04)

 彼は売れっ子になって堕落した典型だと思っている。以上。

2005年1月追記
 昨年12月に某掲示板に○木のスレッドが立てられたが、直後から批判のオンパレードとなった。何でも自身のサイトに「クライバーはカラヤンなんかよりもバーンスタインと仲がよかったんやもんなぁ…」と書いていたらしいのだが、それに対してこういう反論投稿があった。

 クライバーはカラヤンを心から尊敬していると公言していたのですが。
 よりによって「カラヤンなんかよりも」などと書くとは、この御仁、
 デリカシーがないのか、電波かアフォか、単なる知ったかなのか?

カルロス・クライバーがカラヤンを尊敬しているという話は私も何度か目にしている。その事実を認めたくないという意固地な態度はガキのそれである。もしかして既に幼児退行現象が始まっているのかもしれない。何にせよ、こんないい加減なことを書いていたら叩かれて当然であるし、評論家としても失格だ。けれども、野球やサッカーなどと比べるとクラシック関係では「ネタ不足」であるため、「○木なんかはクラシック音楽評論家の名に値しない」という見解がどうやら最近では主流になっているらしい。ところで、彼は他人から御馳走された蟹が美味しくなかったとしてこんなことも書いていたそうだ。

 「人間、贅沢するとアホになりますなあ…。」

そこはちゃんと自覚しているようである。ならば、飽食のせいで脳の血管が詰まっていないか病院で検査してもらうべきではないか?

戻る