>  このところ、吉田秀和著「この一枚」を読んでいます。僕が前から抱いて
> いた印象が吉田氏(や文章中に登場する他の評論家)の意見と一致すると単
> 純に喜んでしまいます。氏は、実演を聴いたことのない演奏家のCDを推薦
> したけれども、いざナマで聴いてみると期待はずれだったという場合、「私
> の聴き方が完全に間違っていたというである。ごめんなさい」と謝っていま
> す。この潔さは他の評論家も是非見習ってほしい。
>  ところで、僕は「吉田秀和と宇野功芳」を書くにあたって、「ロシア的な
> 吉田秀和」と「フランス的な宇野功芳」という対比を柱として話を展開しよ
> うとふと考えたのです。まだ骨組みだけですが・・・・・・(マゼールのと
> ころで書いたように)「ロシア的」vs「フランス的」という最も遠いものに
> なぞらえることで、両者を対極に置くわけです。
>  宇野氏は、ロシア人ピアニストのリヒテルを全く評価していませんでした。
> 誰かの「象のようなピアニスト」(言った人は単に「巨大な」という意味で
> 使ったかもしれないのに)という言葉を引いて、感性の鈍い音楽家であると
> 決めつけています。そして、そんな鈍い感性で弾かれた「モーツァルトが可
> 哀想だった」とか、「彼を神秘的だという人間は、その容貌にだまされてい
> るのではないか」とまで書いています。一方、吉田氏は「リヒテルという人
> は、ドストエフスキー的な得体の知れないものを内に抱え込めるだけ抱え込
> んでいたような人だった」と書いています。
>  リヒテルの演奏をほとんど知らない僕には、どちらが正しいのかの判断は
> 下せません。ただし、これだけは言えることとして、宇野氏は自分の感覚(そ
> れがなかなか鋭いものであることは僕も認めています)で捉えきれないもの
> は最初から拒否するという態度に出るのに対して、吉田氏は「何だかよく解
> らないけれども、とにかく尋常ではない、凄いものであることだけはわかる」
> というように最終的な評価は先送りするという方法をよく採ります(例えば
> ポゴレリチなど)。
>  宇野氏の感覚的に捉えるというやり方が何となく「フランス的」、評価の
> 保留によって内側にドロドロしたものを蓄積していくといった感のある吉田
> 氏の方法が「ロシア的」ではないか、とまあこんなことを考えてみたわけで
> す。前者は絶対の自信を持つ自分の感性だけをあくまで頼りにする方法であ
> り、何となく危なっかしさを感じさせるという点でも「フランス的」であり、
> 後者は徹底すると「神はいるのか、いないのか」と最後の作品(「カラマー
> ゾフの兄弟」)に至っても疑問を投げ続けたドストエフスキーにまで行き着
> くという点で、「ロシア的」という言葉を用いるのも決して不当なことでは
> ないかな、という気がします。「フランス的」「ロシア的」を「女性的」「男
> 性的」に置き換えても上手くいきそうな予感がしますが、男女差別と言われ
> たくないので止めておきます。
>  とにかく、もっと多くの材料を集めて「フランス的vsロシア的」説を完成
> させたいと思っています。(Kさんへのメール、99/02/15)

追記:Kさんへのメールを読み返していたら、 2000年5月27日送信分にこんな文章を見つけた。「こんな名盤はいらない!」巻末鼎談における許光俊の発言である。

 宇野功芳はときどき、ひじょうに微妙で大事なことに気づいているんじゃな
 いかと思うことがある。本人もその大事さに気づいていないので、論が発展
 しないでいつもの宇野節で終わっちゃうが、鋭い人はそこから問題を敷衍さ
 せていくことが可能なんじゃないか。とにかく、理性の吉田秀和か、感覚の
 宇野功芳か。

やはり気づいている人はちゃんと気づいているのである。(吉田の方は微妙に違っている気もするが・・・・)

2004年9月追記
 上のリヒテルの件のうち、「象のようなピアニスト」「容貌にだまされている」云々は宇野の言葉ではなく、「名演奏のクラシック」で彼と対談した宇神幸男(作家)の発言であった(「モーツァルトがかわいそう」は宇野)。なお、この対談で宇神は宇野の演奏を盛んに褒めそやしていた。あっちのページに書いたように、宇神のような箸にも棒にもかからない連中が寄ってたかってチヤホヤ持てはやすものだから宇野が増長してしまったのである。その罪はひじょうに重いといえよう。

2005年1月追記
 没後50周年を記念して発刊された「フルトヴェングラー」(Gakken Mook)を買ってきた。企画・編集は宇野功芳である。「フルトヴェングラー vs トスカニーニ 仁義なき戦い」(宇野と佐藤眞との対談)と「丸山眞男 vs 宇野功芳 幻のフルトヴェングラー論争」(中野雄)が特に面白かったし、後者の終わりで描かれていた宇野の言動は私の心を打った。当サイトのそこら中で彼に噛みついているけれども、朝比奈のビクター全集の特典盤で聞かれる穏やかな話し方はジェントルマンそのものだし、実際に会ってみたら結構いいオッサンだと思うかもしれない。さて、その功芳センセはカラヤンを貶してフルトヴェングラーを持ち上げるという汚い真似からは足を洗ったようであるが、箸にも棒にもかからない男は相変わらずであり、何の必要もないところを含めて4箇所でカラヤンを出汁に使っていた。「流麗すぎてきれいごとに終始している。」まだこんなことを言い続けているのは呆れる以外なかった。(私にゃこういうステレオタイピングこそが「きれいごと」としか思えんのだが。)前世紀からまるで進歩の跡が認められない。本業の実力のほどは知らないが、こんな作家の書いたものなど到底読む気にはならない。また、「クラシックCDの名盤」(宇野らとの井戸端会議本)の共著者として名を連ねていた福島章恭(「フルトヴェングラー嫌い」として有名らしい)も「上辺ばかりがゴージャスで中身の空虚なカラヤンとはまさに対極の音」と書いていたが、とりあえず「帝王」を批判しておけば「良識ある評論家」と見なしてもらえるというお気楽な時代はとっくに終わっているんじゃないですか? (最初は「こういう時代錯誤タイプの評論家がいつまでも老害をまき散らしている状況は何とかならんか!」と書いたのだが、執筆者略歴から老人ではないのを知って驚いた。「全身が倦怠感に襲われ、朝起きるのも辛く、思考は停止し、(中略)各種ビタミン剤やアミノ酸、強壮剤も効果なく、辛い日々を過ごしたのである」などとあるから、てっきりヨボヨボの・・・・)贅沢を覚えてアホになった(註:本人談)ライターが寄稿していなかったのはせめてもの救いである。

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