方針その他

1.自由奔放にやる
 時にはディスクに収録されている演奏そのものよりも、周辺状況(ディスクにまつわる裏話やスキャンダルなど)について語る方が主になってしまうことがあるかもしれない。(何せ私は小中高の授業以外、音楽教育を受けたことがないのだ。楽器はできない。楽譜も♯や♭が2つ以上付くと「ドレミ・・・・」が取れないという体たらくである。なのに旋律を記す場合は移動ドを使う。追記:「なのに」よりも「なので」の方が適切という気もしてきた。)ひどい場合には、ディスク評はそっちのけにして私がそのディスクを入手した当時の思い出を延々と綴ったりすることもあるだろう。が、どうかご容赦いただきたい。ここは「これは私の、私による、私のためのサイト」なのだから。(←またそれかい。)

2005年1月追記
 今月26日(発売日)に買ったNewton2005年3月号に興味深いデータが載っていた。全ゲノムにおけるジャンク領域(タンパク質の情報を持たない領域)の割合は、大腸菌では12.2%であるのに対し、ヒトでは何と98.3%(あらゆる生物種中で最高)にも達するというのだ。つまり、この数値は高等生物(複雑さが高いと思われる生物)ほど大きいということである。よって、今後も「ジャンク領域の多いサイト」をモットーにページ作成を続けることにする。(とはいったものの、件の記事は「ジャンク領域から作られるRNAこそがヒトをヒトたらしめているものではないか」という仮説を提唱したものである。確かにヒトの2〜3万という遺伝子数はマウスやショウジョウバエと比べても大差なく、「タンパク質を作るDNA領域」だけで高度な生命活動を説明することはできない。ゆえに「ジャンク領域」と名付けられてはいても、それが生命活動に重要な役割を果たしていることは間違いない。同様に当サイトの脱線話にも何らかの意味を持たせなければ単なるゴミであり、サイトの高度化に結びつかないことは重々承知している。)

2005年9月2日追記
 マウスの全遺伝情報(ゲノム)の約70%が何らかの役に立っていることが明らかになったという記事が本日の朝刊に載っていた。転写によって作られた約23000種類ものRNAが遺伝子の発現を指令するなど重要な機能を持っていることを日本の理化学研究所を中心とする国際チームが明らかにしたのだという。そのように予測されていることは、上で述べたように私は既にNewtonで知っていたから特に驚いたりはしなかった。来るべき日が来たと思っただけである。が、当サイトの全コンテンツのうちで有益な情報が占める割合が7割に達するような日は永久に来ないだろう。以下はどうでもいいことだが、理化学研究所の略称「理研」は何とかならんものかと近頃私は思っている。麻婆茄子が脳裏に浮かんで胸焼けしそうになるのを抑えられないから。(もちろん理化学研究所は「リケンの麻婆茄子」や「マボちゃん」などを製造販売している理研ビタミン株式会社とは全くの別団体である。)実は家の畑で栽培している茄子が7〜8月は山のように採れるため、連日の麻婆茄子攻撃にウンザリしているのだ。ゴーヤチャンプルーは大好物で決して食べ飽きたりしないのだが・・・・(早速ジャンク情報を載せて比率を下げてしまった。)

2006年1月9日追記
 上でことわりを入れたが、当サイトでは主従の関係が逆転している(=ディスク評自体よりも、それにまつわる裏話、時に全然まつわらない脱線話の分量が圧倒的に上回る)ページが少なくない。が、他所でも述べたように思い出話を延々と綴ることを通して「自己確認」できたのは私にとってありがたかった。実は最初からそれを狙っていたこともある。ただし、そのつもりで執筆に取りかかったとしても、筆はなかなか滑らかに進んでくれないものだ。却って途中から脇に逸れたという場合の方が次から次へと言葉が浮かんでくることが多い。そういえば、「ショスタコーヴィチの証言」の序文にもこんな話があった。作曲家はインタビューの最初は口数が少なく、気の進まぬ様子だったが、聞き手(編者)のヴォルコフが「ご自分のことは思い出さなくてよいのです、ほかの人たちのことを話してください」と頼むと、「気の置けない友人を相手にするときよりもくつろいで話しをするようになった」という。さらに、「他人について話し、他人に映った自分を見いだすことで自分自身に到達するのである」とも書いていた。(まあ本編同様そのエピソードも真偽は定かでないだろうが。)それ(ペテルブルグ特有の「鏡方式」)と同じようなものだと私は考えている。

2.あくまでディスクの評価である
 つまり、実演の記憶によって評価を左右すること(例えば「この人は実演ではこうだった」式の情状酌量)はしないということである。 ちなみに、私はここで取り上げることになる指揮者の実演を幸か不幸か唯1人を例外として聴いていない(註1)。ディスクを評価する場合、これは(実演を聴いた経験のある人間と比較して)明らかに有利に働くと思っている(註2)。

註1:お陰で指揮者が尻を振りながら指揮するのを見てトラウマになったりせずに済んだ。チェリビダッケによる「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快な腰フリフリダンス」の映像を見ても「アッハッハ」と笑っただけである。それにしても、まさかあれを本番でもやるとはなぁ・・・・(2007年5月追記:今月にフリューベック・デ・ブルゴスの3番ディスク評をアップしたが、幸か不幸か私は彼の生演奏に接しているため、従来の「誰1人として」を「唯1人を例外として」に改めることとした。)
註2:ディスク批評の際にやたらと実演の感想を書きたがる評論家が一部にいる。それ自体は決して悪いことではないので、時にネット掲示板で目にするような「単に自慢話がしたいだけ」といった低次元の批判はしない。ただし、「実演の記憶が妨げとなってディスクの正当な評価ができない」のような言い訳をするくらいなら、最初からそのディスクを取り上げるべきではないとは言わせていただく。

 当然ながら録音(音質)も重要な評価対象である。いくら演奏が素晴らしくとも音が悪ければその分だけ評価を下げる。であるからモノラル録音が上位に来ることはまずあり得ない。(ただし、劣悪なライヴ録音に対して「演奏自体はさぞ素晴らしかったに違いない」のような肯定的コメントをすることはあり得る。名演、熱演ならば、別項で述べた「想像力」が働くからである。)
 なお、記載するのは指揮者名、オーケストラ名、(わかる範囲で)録音年月日、ディスクの発売元(レーベル名)と番号である。輸入盤は日本での発売元が一定しない場合(例えばDGはポリドール→ユニバーサル・ミュージック)があるので基本的に製造元のみにした。(例外あり。一貫性がなくてスマン。)ディスク番号を記載することにしたのは、同じレーベルでもマスタリングが違えば印象がガラッと変わるというケースが少なくないためである。演奏時間は割愛する。ブックレットやケース裏に書かれたトラックタイムにはしばしば誤りがあるし、楽章間や演奏前後の拍手も含まれている場合には正味の演奏時間とは食い違ってくる。実際に聴いてタイムを計ればいいのだが、面倒なので誰か代わりにやってくれ、と言いたい。

2005年10月19日追記
 ディスクの録音年月日については基本的に(多少の疑念がある場合でも)ケース裏やブックレットに印刷されているものを記載している。ただし、一切表記されていない場合は John F. Berky氏による Bruckner Symphony Versions Discography のデータを利用させていただいている。(氏は快く了承して下さった。今更ながらここに御礼申し上げる。)

3.「好き嫌い」と「良し悪し」を(なるべく)使い分ける
 宇野功芳は「名演奏のクラシック」にて、「音楽ファンの中には、好き嫌いと良し悪しを混同している人が多いが、芸術を批評する者はここのところをまちがわないよう、固くいましめなければならない」などと言いながら、自らその愚をしばしば犯している。「良い」と褒めているうちに「好き」が入り込んでいるような文章は読んでいても不快感はないし、却って微笑ましくすら感じることもあるけれども、「悪い」に「嫌い」が混じっていると読まされる側はたまったものではない。まあ彼の場合は確信犯(←今や誤用の方が定着してしまった感があるが、本当の意味において)である分だけ救いがあるのだが。
 「好き嫌い」は主観的評価で「良し悪し」は客観的評価、と文字にすればたったこれだけだが、実際にはそんなに簡単に割り切れるものではないように思う。私は宇野その他による「精神性」を尺度とした評価には極めて懐疑的である。 (「精神性」は「好き嫌い」を包むオブラートのようなものとしか思えない。)別の一派が使う「構造把握能力」は、技術の優劣であるから客観的な基準となりうるとは思うが、もし「構造」の定義が曖昧なままで話を進めるならば「精神性」と五十歩百歩であろう。(例えばある批評家は「構造にたいする配慮はまるで欠けている」と書く前に「構造」の定義づけをしておくという配慮に欠けていた。単に運が悪いのかもしれないが、「構造」を尺度にした批評文中で満足のいく「構造」の説明がなされているのを私はこれまで目にしたことがない。ヴァントのブルックナー2枚組CDのブックレットに収録されている指揮者へのインタビューによって何となくではあるが理解できた。「構造」ついて私が考えるところを雑文のページに書く予定である。)物量の「ものさし」である「長さ」や「重さ」などと同じく、芸術の「良し悪し」を評価するための「ものさし」も本来なら普遍的なものでなければならないが、実際には人によってまちまちであり、何を採用するかという判断自体に主観が含まれてしまっている。結局のところ、「良し悪し100%」は自分の中でしか成立しないという気がする。
 ダラダラと(悪文の見本のような)駄文を書いてきたが、要は「良し悪し」に「好き嫌い」が混じり込むのは避けがたいと私は腹をくくっているということが言いたかったのである。ただし、少なくとも次のようには心懸けることにする。なるべく自分が気に入ったものについて書くことにする。「好き嫌い」の混入した文章が他人の目に触れても気分を害する恐れは小さいと予想されるからである。一方、気に入らないものに対しては沈黙を守る、というのが理想だが、それでは否定的なコメントが書けないので、最初に「嫌い」と宣言してから話を進めるようにする。

 ここで駄文の口直しとして、小林秀雄の妹である高見沢潤子(田河水泡=「のらくろ」の作者の夫人)が書いた「兄小林秀雄との対話 ─ 人生について」中にある「批評精神について」という章より、小林の珠玉のような名セリフをいくつか挙げておく。(貶す時には実に生き生きとした文章を書くけれども、褒めるとなるとからっきしという無能評論家は爪の垢を煎じて飲んだらいい。小林の爪は博物館にもないかもしれないので、代用として吉田秀和のを入手すればよいだろう。)

・ほんとうの批評とは、創造することだ。否定するんでなくて、つくり出すことだよ。
 相手をけなしたり非難したりするのは、否定的なことだろう。
 それは批評精神には、まったく反することだ。批評をするのは、相手を尊重することだね。
・おれが書いたもののなかで、批評文としてよくできたと思われるものは、
 みんな他人を、ほめている作品ばかりだな。
 批評とは人をほめる特殊の技術だといってもいいね。
・正宗白鳥や、谷崎潤一郎には、りっぱな、魅力ある批評作品がある。
 それを読むと、批評している作品を、どんなに親身になって読んでるかわからない、
 その作品を心から愛しているよ。
 子どものようになり気って、純粋な目で、その作品をみている。
 その観点、態度がいいんだ。
・人をけなしている文にいい文章が書けてるのは、ひとつもない。

 (戻って、)とはいえ、私のことだから「矛盾だらけ」「言ってることとやってることが違う」などと批判されるようなこともきっと書いてしまうだろうと思う。しかし、そのような場合にも私には次のような言い逃れが用意されているのだ。

「私はこれでメシを喰っているわけではない。」(出た! 開き直り。)

 しかし、そうなのである。結局のところ、私がいくらアホなことを書いたところで笑いものになるだけのことである。どこかの掲示板で「アイツの耳は腐っている」などとボロクソに書かれたとしても別に気にしない。また、私はプロの物書きでもないのだから(註)「文才がない」と叩かれても「きっとそうでしょうね」と答えるだけで応えはしないだろう。プロには許されなくともアマチュアに許されることはいくらでもあるのだ。

註:私も文章書きが仕事の一部になっていて、その書いたものが最も重要な業績として評価されるわけであるから、ある意味「プロの物書き」なのかもしれない。しかし、実際には決して安くはない掲載料を(自腹ではないが)払って雑誌に載せてもらっているという立場なのである。印税や原稿料をもらったことも数回あるが、払った金には遠く及ばない。脱線ついでであるが、私が仕事で書く文章にはとにかく客観的記述が求められる。少しでも主観が混じると校閲者がクレームを付ける。その場合、直接に「客観性の欠如」と言わずに済ませる便利な言い回し=「文学的」がある。だから「所々に文学的表現が見られます」と言われても、いい気になって「自分には文学の素質がある」などと錯覚してはいけない。間違っても転身など考えてはいけない。

 最後にもう一つ断っておくが、否定的な評価をする場合には必ず根拠を付けて「批判」するように心懸ける。根拠なしの「誹謗」や「中傷」はしない。これはプロだろうがアマチュアだろうが絶対に許されることではない。

追記:実は「クラシック音楽のページ」にある「音楽評論家各論」は、当初「その他(雑文)」に入れるつもりであった。しかしながら、書き出してみると筆が滑った、というより明らかに暴走してしまったので、「ブルックナーのページ」の外に出す(追放)することにした。したがって、この項は適用されない。「治外法権」というやつである。

追記2:2004年5月12日に高見沢潤子女史が99歳で亡くなったという新聞記事が出ていた。まだ御存命だったとは知らなかった。謹んで御冥福をお祈りする。

4.呼び捨て御免
 私はこれまで評論家は「宇野氏」「許氏」などと書く一方で、「ヴァント」「カラヤン」と呼び捨てにしていたのだが、ここでは整合性を重視して敬称略とする。(「ヴァント氏」「カラヤン氏」は少々奇異に映る。なお、実際に教わったわけでもないのに「カラヤン先生」などと書いているのを見たことがあるが、あれは相当に気持ち悪いから止めていただきたい。大きなお世話であるが・・・・・)一般人には「氏」を付けるが、ネット知人は実際に会ったことがあるなしを問わず「さん」付けにする。

5.転載と引用について
 他サイトから数百字にも及ぶ文章をそっくりそのまま載せる場合(転載)には、執筆者あるいはサイト管理者に断りを入れるし、求められればリンクも貼る。(とはいえ、私にその必要が発生することはまずないと思うが。数文程度の一部抜粋なら、ソースに関係なくいちいち許可など求めない。)ところで、CDのジャケット(ブックレット表紙)を載せているサイトは少なくないが、一枚一枚スキャナで取り込んだ画像を加工してリンクを貼ることの煩わしさもさることながら、作成者はディスクの発売元にいちいち許可を取っているのだろうか? 想像するだけでも億劫で、私には到底できそうにないからもちろん載せない。一方、他サイトの内容を 「ある掲示板ではこんなことが書かれていた」「こんなアホなことを言ってる奴がいた」などと紹介する場合にはいちいち許可を求めたりはしない。「ネット上の文章に著作権は発生しない」という理由からではない。「これは他人様が書いたものです」ということを明らかにしておけばそれで十分だと考えているためである。これは「引用」である。してはいけないのは「他人が書いたことをさも自分のオリジナルであるように偽ること」、つまり「盗用」である。(こんな風にわざわざ断り書きを入れなければいけないのは、引用と盗用の区別が付いていない人間が意外に多いためである。)印刷物については基本的に「引用」を行う。つまり書名 and/or 著者名を併記することにする。

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