ブルックナー演奏には曲の構造を把握することが必要である。
 ↓
○○の演奏には構造に対する配慮が欠けている。
 ↓
だから○○の演奏はダメである。
 
大変わかりやすい。他所でも触れた三段論法である。ところで、上の「構造」という単語を好んで使う評論家としては真っ先に許光俊が挙げられるが、彼は自著「クラシックを聴け!」にて入門者向けの説明を試みていた。以下はそれを読んでの感想をKさんに書き送ったメール(99/12/24)の一部である。

 >  氏は推理小説を例にとって「全体のない部分はない。部分のない全体は
 > ない」ということを説明した後、「クラシック音楽でもメロディーやハー
 > モニー、リズムは唐突に登場するのではなく前後関係があるのに、それが
 > 読めない演奏家は、一見きれいなメロディが出てくるとめいっぱい濃厚な
 > 節回しをつけてみたり、重たい和音があると恥ずかしげもなくズドンと響
 > かせたりする。(芝居と違って音楽ではその滑稽さが気付かれにくいため)
 > そのような笑止千万な演奏が拍手喝采されてしまうのだ。」(何だかこの
 > 言い方、宇野功芳ソックリだな。)こう主張した後、さらに続けます。
 > 「たとえベートーヴェンの『運命』でも『第九』でも、そうした前後関係、
 > 全体と部分の関係を理解できない人の演奏は、もはや『運命』とか『第九』
 > とは呼べない。なぜなら、ベートーヴェンはちゃんとそうした関係を考え
 > て作曲したのだから。」(続いて「そんな『木を見て森を見ず』演奏を聴
 > いていたら、いつまでたってもクラシック音楽がわかるはずがない」と厳
 > しいことを述べるのですが、「解釈の仕方は人によって異なり、場合によ
 > ってはどれが正しいと判定できないこともある。それはそれでかまわない。
 > その演奏家なりにちゃんと作品を考え抜いて、ちゃんとつじつまが合った
 > 演奏をしてくれれば」と独善に陥らない辺りは流石だと感じました。)

一方、「音楽評論家・許光俊の評価」というページにてマイナス評価を付けた投稿者の1人が以下のようにコメントしていたことは注目される。

 「全体のための個/個のための全体」とやらも、「精神性」を
  いいかえたものにすぎんのじゃぞい。

私はそうとは断言しないが、「○○は構造に対する配慮がないからダメだ。→(以下延々と○○貶し)→それに対して△△は良い(わずか数行)」という「貶し手法」がお得意の某B級評論家のように、「△△の演奏のどこら辺が構造に対してちゃんと配慮されているのか」についての具体的記述を怠っているのであれば、確かに「カラヤンは精神性がない、それに対して・・・・」という宇野功芳と変わらない。そして、その満足のいく説明に巡り会えたことがないのは既に「方針その他」ページで述べた通りである。上で再掲したメールにしても、当時は著者の説明に納得したつもりになっていたこと、およびひたすら感心していたことが文面から窺えるが、今読み返すとやはり具体性に欠けているという印象は否めない。そこでネット上をあちこち探し回ってみたのだが、やっぱりよくわからない。
 そういえば、かつて(来日した年だから2000年)某掲示板のヴァントスレでも「構造」が話題となり、ひとしきり議論が進んだ後に以下の1行カキコがあった。

 で結局、構造って何よ?

ところが、それにレスが付けられることは結局なかった。比較的安易に用いられながらもいざとなると誰も説明できない「構造」とはいったい何だろう?
 結局、最も合点がいったのはCDブックレットに掲載されている「構造主義者」ヴァントのインタビューであった。それらを読んでいる内に朧気ながらもイメージできた。無節操だが、私の心に留まったものを片っ端から貼っ付けてみる。

・彼(ブルックナー)の交響曲においては、アッチェレランドやクレッシェ
 ンドによって別のものに展開していくということが存在しない。ブロック
 状になっていて、それぞれが並列しているという音楽なんだ。もしもそれ
 ぞれのブロックの関係をうまく設定できなかったり、テンポの関係が間違
 っていると、建築としての全体が崩壊してしまう、これがブルックナー演
 奏における最大の課題なのだが、これをうまくやるのはとても難しいこと
 だ。
・もしもある演奏を聴いて、全体を貫いている柱が見えないとしたら、その
 演奏は間違っている。
 (ギュンター・ヴァント、大いに語る(2)、許光俊によるインタビュー、
  ケルン放送響との3&4番2枚組ブックレットに収録)

・ブルックナーの交響曲は、曲の構造がモーツァルトやベートーヴェン、ブ
 ラームスとは違います。これらの作曲家の作品では主題が展開します。一
 方、ブルックナーはそれぞれのブロックを対比させるのです。そしてそれ
 らを調和させなければならない。正しいテンポと、適切な表現でね。でも、
 その表現自体が目的になってはいけない。そうなると曲のフォルムを忘れ
 てしまいます。聴いている人が交響曲だということを忘れてしまう。私は
 交響曲を皆さんが論理的に聴けるように演奏したいのです。
・ブルックナーでは、指揮者によっていつも美しい箇所で解釈されすぎてい
 ます。美しい箇所に来ると突然・・、始まるのです。
 (「ギュンター・ヴァント、大いに語る、2000年最新版」、来住千保美に
  よるインタビュー、北ドイツ放送響との5番ブックレットに収録)

・一つの交響曲の内部で取るべき複数のテンポも、相互で関連し合うもので
 す。(続いて「ロマンティック」の第1楽章の2/2拍子の拍動が4/4
 拍子で書かれている第2楽章の1拍分に等しいという「基本拍動はそのま
 ま」の例を挙げる。)この関係がうまくいかないとね、テンポがダレてし
 まう。
・あるべき解釈=演奏(Interpretation)というものは、音楽を「理解」し
 ている場合にのみ実現するものでしょう。音楽を文字通り「解釈」してし
 まっては駄目なのです。ある人の演奏を聴きます。そこで「おっと、今こ
 の人何をした?」と思う瞬間があれば、当の指揮者がそれを良かれと思っ
 てやっていても、何かがそこで間違っているのです。
 (「音楽に身を捧げて ─ ギュンター・ヴァント・ラスト・インタヴュー」
  ウォルフガング・ザイフェルトとの対話、「ザ・ラスト・レコーディン
  グ」ブックレット)

このように大量転載したけれども、ヴァントの発言中には「美」という文字が全く出てこないことに気が付いた。つまり、「文字通りに『解釈』」することで表現される「美」にはさして興味がなかったのではないかと思われる。これに対し、彼が具体的箇所を指摘しつつテンポや拍子、奏法などについて語っている(聞き手が金子建志の場合に多い)部分を読んでいた時、私はふと「まるで数学の証明を試みているみたいだな」と思った。全体として筋が通っているか、どこにも矛盾がないかが何よりも重要だったのである。「交響曲を皆さんが論理的に聴けるように演奏したい」などという台詞を吐いた指揮者が他にいただろうか?(彼の経歴を見ると大学の哲学科に入学後に音楽学校に移籍したようだが、きっと理系分野に進んでも成功したに違いない。藤原正彦によると、同じ問題を何十年でも考え続けていられるだけの執念深さを備えていることが数学者として大成する条件なのだそうだ。ヴァントのイメージとはピッタリである。京大法学部を出た後しばらくの間は電車の運転士として働いていたという人はどうだろう?)彼は楽譜から「あるべき解釈」を読み取ろうと試みる。既に存在しているものだから、それを見い出すという(音楽を「理解」するという)作業があるのみだ。(少なくともそういう信念を持って臨んでいるのは確かである。埋蔵金の存在を信じて疑わない人間のごとく。)次にそれを音にすることによって、その「解釈」(Interpretation)が正しいことを自他に示そうとする。そして、実際に「正しい音楽」として奏でられた時が彼にとっての「証明終わり」を意味するのだ。
 と、ここまで何となく解ったような物の言い方をしてきたが、結局は頭で理解しているに過ぎない。先に「朧気ながら」と書いたが、実際そのレベルである。以下は実体験を踏まえて書いてみたい。大したことではないが・・・・
 毎年私は「環境フィールドワーク」という野外授業にて学生達との炭焼きの体験学習を行っている。窯に炭材と薪を詰めてから最後に煉瓦で蓋をするのであるが、漫然と積んでいたのではダメなのである。基本的には同じ幅と厚さの煉瓦を積み重ねていく。ただし、薪補給用の焚口を設けるため、それ専用の煉瓦が存在する。焚口直上のブロックは他のものより長い。(正確には思い出せないが、たしか通常煉瓦の整数倍の幅を持っていた。)その口の左右にも特別な煉瓦を置いていたはずだ。また、入口はアーチ型なので上部ほど幅は狭くなる。そのため、必要に応じてサイズの小さい(幅は同じだが少し薄い)煉瓦を置かなければならない。このように適材適所で積み上げてこそ上手く塞がってくれる。その上から土をかぶせた後、薪に火を付けて炭材への着火が確認できれば焚口を閉めて炭化を待つばかりである。(補足:着火後は焚口を閉め、必要に応じて最小限の空気を扇風機で送り込む。)私は炭焼きの大ベテランというオッサンがテキパキと積み上げていくのを手伝いつつ「いつもながら見事な業だなあ」と感心していたが、突如「ブルックナーのブロック構造というのはこれか!」と直観し驚喜した。(授業中でも当サイトのネタを考えているという我ながら「困ったちゃん」である。)もし自己流の積み方をする、あるいは「こっちの煉瓦の方がキレイだから代わりに置いてみよう」などと酔狂な真似をすればどうなるか? 隙間から酸素が入り込み、炭材までもが灰と化してしまう。(補足:土だけでは空気を完全に遮断できないので、煉瓦をなるべく隙間なく積んでおくことが大切である。)つまり、1箇所でもいい加減なことをすると全てが台無しとなる。「全体のない部分はない。部分のない全体はない」の好例である。ヴァントが異常なほど構造に執着したのも当然であると実感した。
 そのしばらく後のことであるが、勤務地にある城(国宝)の堀の周りを自転車で走っていた時、立派な石垣を見て「ベートーヴェンはこれかもしれない」と思った。煉瓦造りのブルックナーほど緻密ではない。またパーツの形や大きさも揃っていない。ある程度不揃いの材料を積み上げていく。どこに何を置くかも厳密には決まっていない。崩れたりしなければ少しぐらい隙間があっても大丈夫である。(とはいえ、河原に転がっている丸い石を積んだりしたらアウトである。)要は自由度がより大きい訳で、ベートーヴェンでは指揮者の裁量がかなり許されるというのも「石垣構造」ゆえだと思う。
 もう少し続けてみる。ここまでは連続した音楽、交響曲なら1つの楽章内でルールを厳密に守って建造物を組み立てるという話だった。だが、それだけなら各々の楽章が完結してさえいればOK(楽章間の関係はどうでも良い)ということになってしまう。これでは困るので、上でヴァントが提示したブル4の第1楽章と第2楽章とのテンポの関係を題材にもう少し考えてみたい。その後、聞き手のザイフェルトはベートーヴェンの4番も似たケースとして紹介する。さらに、同様の例がベートーヴェンの他の交響曲に見られるに留まらず、「優れた交響曲においては、いつも、各楽章のテンポは実に合理的なプロポーションによって、相互に関連づけられています」と述べる。
 私は以前カラヤンの目次ページでベートーヴェンの7番第1楽章のテンポに関して思うままに書いた。他の交響曲では相当な快速演奏を聞かせているムラヴィンスキーが、この曲では(私が不可解と感じるほど)遅いテンポを採用しているからには、よほど考えてのことだろう。もしかするとカラヤンやC・クライバーのテンポは間違っているのではないか。もし彼らのテンポにも正当性を与えようとするならば、続く第2楽章も猛烈な速さにしなければならないだろう、等々。そこで論より証拠、私は所有している第7のディスク(21種類)を取り出し、両楽章の演奏時間の比(第1楽章/第2楽章)を調べてみた。(本当は第4でもやりたかったが、手持ちが少ないので断念した。)ただし、第1楽章については序奏と主部とに異なるテンポを設定するのが一般的であるから、主部の演奏時間のみを分子として計算してある。また、反復を行っている/いない演奏の違いは当然考慮しなくてはならないため、反復あり演奏では提示部1回目に要した時間も差し引いた。(本当なら2回目=反復部分を引くべきかもしれないが、便宜上、つまり頭出しが楽だったため1回目にした。独奏フルートにより2度登場する「ソッソソッソッソソッソッソソソッソソッ・・・・」という音型が捜しやすかったのである。)

 *ヴァント(87)         1.152
  ムラヴィンスキー(64)     1.151
 *ノリントン(LCP)       1.092
  カラヤン(83)         1.022
  テンシュテット(NDR)     1.009
 *ブリュッヘン          0.994
 *コンヴィチュニー        0.981
  クレンペラー(60)       0.967
  フルトヴェングラー(54)    0.941
  クレンペラー(55)       0.931
 *クライバー           0.923
  ケーゲル            0.923
  クレンペラー(68)       0.920
 *バーンスタイン(VPO)     0.910
  ライナー            0.901
 *ハイティンク(ACO)      0.884
  ショルティ(VPO)       0.859
  フルトヴェングラー(43)    0.849
  S=イッセルシュテット     0.841
  フルトヴェングラー(50)    0.815
  フルトヴェングラー(53)    0.813

(「*」は反復実施の演奏だが満遍なく散らばっているので、反復する/しないは、直接この比には影響しないことが読みとれる。なお、念のため序奏の時間を引かない場合についても同様に計算しているが、若干の順位の違いこそ認められたものの変動幅はプラマイ3の範囲に収まっていた。つまり、概ね同じ傾向と考えられるため割愛する。)
 驚いた。私があのページで第1楽章が遅いと指摘した指揮者達が上に並んでいるのは当然としても、カラヤンが4番目とは! つまり第2楽章を本当に猛烈なスピードですっ飛ばし、第1楽章との釣り合いを取ったのである。(クライバーとは似て非なる演奏といえよう。)3種とも第1楽章が相当なスローテンポだったクレンペラーが思いの外上に来ていないのは第2楽章もノロノロだったためであるが、55年盤からいったん増加した後、60年盤から68年盤にかけて大きく減少しているのが面白い。これに対し、「いずれも個性的で、どれを取っても似たところがない」などと評されるフルトヴェングラーが比較的安定していたのは意外だが、最晩年の54年盤が突出しているのは指揮者がそれまでとは異なる境地に足を踏み入れていたことを窺わせる。(2006年2月追記:今年度の廃盤CD特別謝恩セール「レコードファン感謝祭2005」は全くの不作で、唯一手を伸ばしたのは輸入盤コーナーに出品されていたセル&クリーヴランド管によるベートーヴェン交響曲全集&序曲集 (SXK-92480) だったが、オリジナルジャケット使用による10枚組が4200円だから悪くない買い物だった。早速7番の「第1楽章/第2楽章比」を調べてみたところ、(11:46─3:35)/7:32 ≒ 1.086であった。これはセルの芸風から予想された通り。)
 私は何もこんなデータを基に適正なテンポ比が存在すると主張したいのではない。比の大きい指揮者と小さい指揮者の間に優劣を付けようと思っている訳でもない。何となく上の方には「理知的」や「即物的」指揮者が、下の方は「猪突猛進」あるいは「芸術は爆発だ」タイプが比較的多く並んでいるような気がするが、当てはまっていないケースも結構見受けられるし・・・・(第1楽章がイケイケで第2楽章で耽溺だと比は小さくなる。)ただし、最上部と最下部の指揮者のベートーヴェン演奏をともに高く評価している評論家がもし存在するとしたら、批評方針にまるで一貫性がなく、その日の気分次第あるいは好き嫌いでやってるだけとしか私には思えない。「批評とは似て非なる全くのデタラメ」(タモリ口調)として糾弾したいくらいだ。(そんな人いましたっけ?)
 ここで再び建築関係に話を振ってしまう。コンクリートブロックで家の壁を造るとして高さ20cmのブロックの隣には同じ高さのものを置くか、あるいは半分(10cm)のを2つ積み重ねるなどしなければ横のラインが狂ってくる。とはいえ、組み合わせのバリエーションはいろいろあるだろう。厚さ20cmの隣に30cmのを積むとしたら、地上から60cmのところでピッタリ合う。このようにピースのサイズが異なっていても簡単な整数比ならばズレはすぐ解消するし、却って美しい幾何学模様が描けたりするから、こういうのもアリだろう。けれども20cmの隣に21cmはペケである。4m20cmで揃うといっても外から眺めたら美しくないし、それ以上に機能的ではない。ある程度の頻度で横の線が合ってくれないことには出入口や窓を設けることが困難になる。(例外的高さのブロックを1個乗せて無理矢理合わせるとしたら、美観はともかくとして強度が損なわれてしまうだろう。)なので異なる2種を用いるとしても高さは互いに素でない方が好ましい。(ゴタゴタ書いているが、結局は協和音と不協和音の違いと大して違わないような気がしてきた。今更書き直すのも癪なので続ける。)あるいは四方の壁面を造るとして、各面に用いるブロックの高さが同一である必要はないが、積み上げた最終的高さだけは寸分の狂いもあってはならない。さもないと屋根が傾いてしまう。既にお分かりかもしれないが、ここでの「四方の壁面」とは(4楽章構成の)交響曲の各楽章、「ブロックの高さ」とは基本テンポのことである。また、主部以外の部分(序奏やコーダなど)は、ある程度なら自由に造ったとしても家が崩れてしまうようなことのない庇や煙突に相当するだろうか? ゆえに柔軟なテンポ設定も(もちろん限度はあるが)許されるのだと思う。「ブルックナーのブロック構造」に対する私の理解は所詮この程度であるが、もう少し続ける。
 ヴァントの「一つの交響曲の内部で取るべき複数のテンポも、相互に関連し合うものです」という主張は何となくながら理解できた。その場合、先述のブル4のように基本拍動が同じ(1:1)というケースが最も発見しやすいが、そうでない場合も大抵は前段落で述べたような簡単な整数比で片が付いてしまうような気がする。あまり複雑な比が隠されているとは考えにくい。「自然そのもの」のブルックナーの交響曲ゆえに。(自然はいつもシンプルで美しい。)ところが、1:√2(正方形の一辺と対角線との長さ比)あるいは1:(1+√5)/2(いわゆる「黄金比」)のように無理数の含まれる比が使われることもひょっとしたらあり得るかもしれないとふと思った。特に後者の元となるフィボナッチ数列は自然界の至る所に見い出すことができるからである。(1、1、2、3、5、8、13、21、34、55、89、144・・・・というように各項が先行する2つの項の和によって得られるフィボナッチ数列の隣り合う2つの項の比は先の黄金比に近づいていく。一本の枝に生える葉の数、花弁の数、ヒマワリの種の配置などはフィボナッチ数列に対応している。)また縦横の辺の長さが黄金比の長方形は人を惹き付けるプロポーションを持っているため国旗に採用されるケースが圧倒的に多いし、パルテノン宮殿の高さと横幅の比、ピラミッドの斜面の高さと底辺の長さの半分が、ともに黄金比になっているそうだ。何と「黄金比がこの世に与えられた神の贈り物である」という信念に基づき、自然や芸術や建造物の中に黄金比とフィボナッチ数列の実例を探し出すことを使命としている「フィボナッチ協会」という団体が今日も活動しているそうだ。「妻の臍までの高さと身長との比が0.618≒黄金比」という報告には思わず笑ってしまった。(ところで、本稿執筆中に偶然に気が付いたことがある。黄金比は0.618033988749895......と無限に続くが、その逆数も1.618033988749.........と小数点以下が全く同じである。これには仰天してしまった。冷静に考えたら当たり前なのだが・・・・情けない。)以上はアミール・D・アクゼル著、吉永良正訳「天才数学者たちが挑んだ最大の難問 フェルマーの最終定理が説けるまで」(ハヤカワ文庫)の受け売りであるが、一方「数学大明神」(ちくま文庫)と題する対談本の中で、森毅と安野光雅は絵画のあちこちに勝手に線を引いて勝手に意味を付けて納得するようなやり方に対し疑問を唱えていた。けれども、楽譜に整合性を見い出そうとして格闘を続けた偏執狂ヴァント(何せ上記ブル4の基本拍動が同じということに気が付いたのも亡くなる2ヶ月半前の「ラスト・レコーディング」の演奏時だったらしい)なら、いつかは(寿命さえ尽きなければ)ブルックナーにも黄金比を探り当てていたかもしれない。こじつけ同然でも辻褄さえ合えば、きっと手を叩いて喜んだに違いない。(2006年1月12日追記:こんなことを書きながらも内心では半信半疑、つまり「無理数なんてムリじゃないか」と思っていたのであるが、最近買った野中映「名曲偏愛学」で紹介されているナンカロウの「習作」という作品では、第41番ABCのうち「Aは円周率の平方根の逆数対三分の二の平方根というテンポ比率のカノン、Bは円周率の立方根の逆数対十六分の十三の……(中略)……となっている」そうで、さすがにこれには唖然とした。ルートどころか立方根まで使っているとは! ならばテンポ比率に複素数を採り入れようとした作曲家がいても何ら不思議ではない。←どうやって音にすんだよ?)
 先にヴァントは「美」に対して全く興味がなかった、などど自分勝手な憶測を書いたが、彼が音楽から「美」を全く感じていなかったかといえば、そうではないような気もする。私にはよく判らないが、先に持ち出した数学にしても「美しい証明」と「醜い証明」があって、専門家の目には前者が淀むことなく流れていると映るため、眺めていると惚れ惚れするのだという。ヴァントは音楽を「理解」しているか否かが「正しい演奏」と「間違った演奏」の境目であると考えていたのは間違いないが、それは「美しい演奏」と「醜い演奏」とに対応するのではないかと私は思ったのである。つまり「(構造把握の)正しい音楽=美しい音楽」ということである。
 ここで「部分と全体の関係」および「美しい」ということから黄金比と同じく自然界に遍在するフラクタル(自己相似的)構造を連想した。(かつて私は解析手法に採り入れていたことがある。)フラクタルは美しさでも黄金比と共通しているが、効率よく機能することが多い。(ゆえに進化の過程で自然に獲得されたりする。)もしブルックナーの交響曲にもフラクタル構造が存在すれば「形態(構造)はしばしば機能と深く結びついている」という話がいくらでも展開できるのであるが、残念ながら構造探求者のヴァントは既に世を去っているし、私にはそれを見い出す能力がないためペンディングとする。さらに「テンポを動かす場合には『1/fゆらぎ』(←生体リズムと同じであるため脳のα波が誘導され快さを感じる)となるように音楽が書かれている」という珍説も思いついたが、本稿からは逸れるので書くにしても別ページにする。(2006年1月9日追記:一昨日ブックオフで買った鈴木淳史著「不思議な国のクラシック」にて、「医学部のセンセイ」という品川嘉也の「右脳クラシック鑑賞法」が紹介されていたが、その本の最後の方で「1/f、それが『名曲』の条件かもしれません」と述べられているらしい。愕然である。)
 最後にもうちょっと。かつて「○○は構造に対する配慮が欠けている」というコメントを目にした時、私は「不足しているのが事実としても、いやしくもプロとして営業している指揮者の構造把握能力が大きく欠如しているとは考えにくい。少なくとも95%以上は把握できているのではないか」と考えた。たかだか5%程度の違いなら「想像力」で補える範囲だから、それを論うなど不毛と感じられたのである。ところが、後にそれは大間違いであると思うようになった。(そもそも些細な違いをほじくり出すのがクラシック音楽の楽しみである。)ヒトの全ゲノムが解析されたのは2001年のことであるが、翌年の「サイエンス」1月4日号に掲載された論文によるとチンパンジーとは1.23%(30億塩基対のうち3700万塩基対)しか違わないという。(分岐してから500〜600万年の間に分子レベルではたったそれだけしか変化しなかったということだ。しかもアミノ酸を変えるようなDNAの違いはその数分の1、わずか0.2%という推定もある。ちなみにヒトとマウスのゲノムは50%ほど違っている。)にもかかわらず、形態も生態も大きく異なっている。(脳での遺伝子の働きが違っているのが原因らしい。)また、ヒトとしての共通部分以外の固有配列もせいぜい2万塩基対ということだが、それで大きな個人差が生じるとしたら恐ろしい。(実際には、別ページで述べたようにタンパク質をコードしていない「ジャンク領域」の違いもあるだろうし、胎児期や出生直後での遺伝子のオンオフを左右する環境条件も大きく影響を及ぼすはずだが・・・・・)だから、決して「たかだか数パーセント」などと侮ってはいけないのである。
(全然上手くまとまっていない箇所が散見されるため、時々読み返して手を入れようと思っている。)

戻る