その「持論」とやらを記憶を掘り起こしつつ書き上げ、いったんアップしたのであるが、今になって何年も前に作成した文書ファイル(原型)が出てきた。(まさか残っていたとは! ちなみに最終の変更日は2002年8月6日である。)読み返すとそちらの方が明らかに出来が良いため差し替えることとした。以下、無修正のまま載せてある。
私は学生時代に米粒の発達について習ったことがあります。まず、もみ
がらが最初にできあがり(器の大きさが決まり)、それから中の米が大き
くなります。最初は縦に長くなり、続いて幅が広がる。この段階では米は
まだペラペラの紙みたいです。最後に厚みが増していって毎日食べている
ような米の形になります。私は人間の成長についても全く同じような三次
元的発達過程で説明可能ではないかと思ってきました。題して「人間米粒
理論」。
最初の伸長過程に相当するのが肉体的成長、次の増幅過程は技術的側面
(学校で教わる勉強や事務処理能力など)の発達です。これだけでも人間
は社会的成功を得られると思います。しかし、(曖昧な言い方で気に入り
ませんが)「深み」が加わるには厚さに相当する部分、人間では情緒的側
面(他人との交流、および自然や芸術と触れることによって育まれる)の
発達という過程を経なければなりません。(もっとも米とは違って人間の
場合は3つの過程が同時進行すると思います。)そうなると、立派な地位
にある人だが話してみたら中身のない人だったとか、平凡だと思っていた
人から実に含蓄のある言葉が出てきて驚いたというのも、それぞれ「正面
から見たら大きいが横から見ると薄っぺらい米」(炊いても不味い)や
「小ぶりでもしっかり実った米」に喩えることができます。
(註:元ネタは新田次郎の息子である数学者、藤原正彦氏の「数学者の言
葉では」で、「専門的成長」と「情操的成長」という言葉が使われていま
す。ですからアイデアは私のオリジナルではありませんが、それを米粒と
結びつけたところが独創的ではないかと自画自賛しています。ついでに言
うと、第二の過程と第三の過程はそれぞれ理系分野と文系分野における能
力の発達とかなり重なるように思います。当てはまらない部分もあります
が、それは「理系」「文系」という強引な分類自体に問題があるからだと
考えます。)
というのが何年も前に思い付いた理論ですが、最近はそれに若干の修正
が必要ではないかと考えています。人間は米のようなきれいな流線型をし
ていない。(「情緒的側面」にも無数のタイプが存在する。)だから厚さ
を1個所で測定することは妥当ではない。ある所で測ったら薄いけれども
別の所では十分な厚みがあるということも当然あり得る。「あの人とはど
うも話が合わない」というのも結局は厚さを持っている場所の違いではな
いか?(ならば「人間金平糖理論」か? ついでに書くと場所ごとの発達
がアンバランスでデコボコな形をしている人間ほどオモロイということが
言えるように思います。もちろん限度はあるのでしょうが・・・・・)
上は第三者の運営する掲示板でのやり取りに関し、当事者の1人であるネット知人の掲示板を訪れた私が書き込んだものである。(ややこしい。)これに続く2段落は、そのちょっとしたいざこざに関する私のコメントであり、読者には興味のない内容と思われるから割愛する。
今回新規に作成した文章も内容は上とほとんど同じであるから没にするが、比べてみると僅かながらバージョンアップしていると感じたところもあった。人間が米粒と異なる点として「3方向の発達が同時進行する」のみならず「幅と厚さの発達がある程度トレードオフの関係にある」と指摘していることだ。つまり、両者をどのように配分するかが大きな問題となると今は考えているのである。炊いた時に美味しいのは偏りなく発達した米で、もちろん人間も一緒であるが、そのような理想的成長を遂げるのは容易ではない。(何にせよ私は偉そうにしているハリボテ野郎は大嫌いだ。)
その数日後と思われるが、こんなのも書いていたらしい。(全く憶えていない。)ついでに貼っておく。
米粒理論の説明で「まず、もみがらが最初にできあがる(器の大きさが
決まる)」と書きましたが、これも大いに考えさせられることですね。予
め器の大きさは決められていて、コメはそれ以上大きくなることは絶対に
できない。もみがらが満杯になったら光合成でつくられたデンプンは実に
は蓄えられず茎と葉の方に行ってしまう。つまり(利用する側の視点から
すると)無駄になってしまうんです。
けれども、満杯になってデンプンを持て余すような人間というのは極め
て稀なのではないか? 大多数の人間にとっては、もみがらの大きさ(天
賦の才)にいかに近づけるか、隙間をどこまで埋められるかというところ
に人生の価値はあると思います。
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