以下は某文学関係サイトの掲示板への投稿の最終(追伸)部分で、ファイルの最終変更日は99年2月6日とある。例によって一字一句そのままで載せようと思ったが、第2段落冒頭の作家名だけは修正した。(記憶違いで「島崎藤村」としていた。まったく大ボケもいいところである。ついでに補足しておくと、7番アイヒホルン盤ページに登場していただいた方は下の「牧師」とは全くの別人であるし、「作家」もその方のことを指している訳ではない。)なお、今回この手の駄文書が大量発掘されたので他所でも使うかもしれない。

 私がキリスト教に反発する大きな原因を作った人がいます。内村鑑三です。「余はいかにして基督教徒になりしか」で「我が国に仏教のような迷信がはびこり続けているのは・・・・」というような文章にそもそもカチンと来たし、自分が洗礼を受けるまでどれほど迷い苦しんだかという記述がないまま、いつの間にかクリスチャンになってしまった感があるのも大いに不満でした。その前に読んでいた本多顕彰の「歎異抄入門」冒頭の「私の告白・・・信じ切れなかった長い年月」が感動的だっただけに、題名によって大いに期待をかけていたのが裏切られたので余計に腹が立ちました。
 他にも志賀直哉のエッセイで、日蓮をイエスと同次元で論じたある博士がいたという話を聞いた内村氏が、「そんなのはハカセじゃなくてバカセだな」と不快感丸出しで言ったというエピソードを読んで、「お前こそバカセだ」と溜まっていた怒りが爆発しました。私の周りだけならいいんですが、一部のクリスチャン(作家にもいる)からは内村氏から感じたのと同じエリート意識が鼻についてしまって、どうにも我慢がならないのです。(ただし、色々と悩み抜かれた結果として信仰に入られた人達には好感を持っていました。謙虚さも仏教に対する寛容さもちゃんと持っていたからです。)
 確かに日本では、クリスチャンの方がモラルという点で仏教徒の平均値よりも高いとは思いますが、それはエリート階級に属する割合が高いからに過ぎず、「キリスト教が仏教より優れている」ことが理由ではありません。ところがこういった誤った認識を持っている人(牧師を含む)に出会ったことが何回かあるのです。
 ヨーロッパでは逆にエリート層が仏教(主に禅宗)に興味を持ち始めているそうで、例えばフランスでは関心の高さでカトリックの1位、イスラムの2位は不動だが、最近では仏教がプロテスタントを抜いているそうです。とにかく日常習慣化した宗教の堕落に嫌気がさしたエリートは少数派の宗教に走りたがる、要はこれだけなんですよ。

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