アマリア・ロドリゲス(Amália Rodrigues)

Super Best
1993
EMI TOCP-9160

 「A・ロドリゲス」と書いたら松井秀喜の現同僚、つまりメジャーリーグ史上最年少で500本塁打を達成したN・Y・ジャンキース(Yankees)の長距離砲と誤解されかねない。なので、ファーストネームが必要な場合にもイニシャルはなるべく用いないようにしよう。もう少し「どーでもいい話」を続ける。
 昨年(2006年)8月の冥王星の「矮惑星」(註1)への格下げ騒動によって話題になったホルストの組曲「惑星」(註2)であるが、その第1曲「火星」が何調で書かれているかご存知だろうか? 実はハ長調なのである。私は解説書を見るまで全然気が付かなかった。(これに対し、第4曲「木星」の主部が同調であることはすぐ判る。)サブタイトル「戦争をもたらす者」(あるいは「戦争の神」)からも窺えるように、そこら中で火の手が上がっているように激しく、かつ不安定な音楽ゆえ、「明るくて堂々としている」という私がハ長調に対して抱いていたイメージとは結び付けようがなかったのである。とにかく調性を敢えて不明確にすることで気味悪さの付与に成功しているのは確かだ。

註1:今年3月に開かれた日本学術会議の「太陽系天体の名称等に関する検討小委員会」にて冥王星の分類の訳語を「準惑星」とすることが決まった。
註2:2000年に英国ホルスト協会理事、コリン・マシューズの作曲した「冥王星〜再生する者」が加えられたが、それが定着する前に肝心の冥王星が太陽系の惑星から除外されることになってしまったため、今後は純正品=ホルスト作曲部分のみが演奏および録音されることになると思われる。なお、「冥王星」のみならず宇宙をテーマにした4つの委嘱曲までカップリングしたラトル&ベルリン・フィル盤が昨年7月下旬にリリースされたが、ここまで最悪のタイミングというのも珍しい。HMV通販のユーザーレビュー中に「どうせだったらマシューズは『セレス』も『カロン』も『UB313』も作曲して組曲『矮惑星』を完成させる義務があると言うべきであろう」というコメントを見つけたが、実は私も同じことを考えていた。ちなみに2003UB313は同年9月「エリス」と命名されている。
追記:後で気付いたが、ラヴェル作曲「ボレロ」も少々くすんだ感じのB主題(?)の方はハ長調には聞こえない。

 さて、こんな枕を置いたのは他でもない。当盤のトラック1 "Barco negro"(暗いはしけ)も実は「火星」と事情が全く同じだったのである。私はドゥルス・ポンテスの "Caminhos" 収録の同曲(ただしオリジナル歌詞使用による "Mãe preta")を聴いて初めてハ長調であると認識した。当盤の演奏は既に冒頭の打楽器(ボンゴ奏者2名?)からして何とも不気味だが、その後ポルトガル・ギターも加わって物悲しげに奏でられる序奏を耳にすれば、短調曲と錯覚してしまったのも無理ないという気がする。というより、その方が自然の成り行きだろう。0分33秒からロドリゲスの唄が始まっても全然明るくならない。出だしからしばらくは山火事直後のまだ何かがブスブスと燻っているという光景が目に浮かぶが、"Mas logo os teus olhos" 以降は赤黒い溶岩が底でグラグラと煮えたぎっている活火山の火口を覗き込んだような感じ。熱唱だがドロドロ感が凄い。この箇所についてポンテスのページでは「本日は晴天なり」のような形容を用いたが、実際彼女は「これぞハ長調の音楽」と言いたくなるほど朗々と歌い上げている。「惑星」なら先述した「木星」(副題「快楽をもたらす者」)のイメージに近い。このように同じメロディながら2人の歌唱は陰と陽のごとく全くタイプが異なっているが、ここでは別に優劣を付けようとしているのではない。ここからベートーヴェンの交響曲に話を飛ばす。
 私が普段手に取ることが多いのは、やはりステレオ録音による比較的新しいディスクである。挙げていけばキリがないが、とりあえず特に気に入っているのはヴァント(13番)、ワルター(26番)、ムラヴィンスキー(4番)、クライバー(57番)、スウィトナー(9番)あたりだろうか。ノリントンやブリュッヘンなど古楽器派の全集を通しで再生することもある。しかしながら、(モノラルゆえ音質には少なからず不満を抱いていても、どういう訳か)怨念が渦巻いているかのようなフルトヴェングラーの演奏が時に聴きたくなるのである。一部評論家が「麻薬的」などと評していたことに反感を抱いている私だが、同時にそのような言い回しを持ち出したくなった気持ちも理解はできる。当盤の "Barco negro" も同じだ。ポンテスのページで "Mãe preta" をクライバーの「運命」に喩えたように、聴く回数および好き嫌いでは断然あちらである。とはいえ、ロドリゲスの歌唱も芸術的価値という点では全く遜色なしと考えている。私は幸か不幸かそうはならなかったが、虜にされてしまう人が少なくないという話も不思議ではないだろう。事象の地平面(シュヴァルツシルト面)の内側に入ったものは光ですら決して逃さぬというブラックホールにも喩えられようか。聴き手を一度捉えてしまったら二度と離さぬだけの重力、いや魅力を備えているのは間違いない。
 これで他の収録曲(ファド)についての印象も言い尽くされた感があるため、以降は葡語以外のトラックについてのコメントに留める。6曲目 "La La La"(ラララ)の西語歌唱に全く不安がないのは嬉しい。次の "La moison sur le port"(愛しきマリアの追憶)など計4曲採用された仏語曲も同様。うち15曲目 "Aranjuez mon amour"(わが心のアランフェス)であるが、これまで私が聴いたことのある西語によるヴァージョン(ホセ・カレーラス、サラ・ブライトマン、ミルバ)がことごとく気に入らなかったのに対し、仏語歌詞はメロディにもうまく乗っておりアイデア賞といえるのではないか。
 最後に採点が残っているが、フルヴェン級の大巨匠が残した芸術そのものには畏れ多くてケチは付けられない。まあモノラル音源(トラック1と5)の混入を理由に1点ずつ引くぐらいなら罰は当たらないだろう。ということで98点。

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