マリーザ・モンチ(Marisa Monte)

Infinito Particular(私の中の無限)
2006
phonomotor/EMI 0946 3951032 2(TOCP-67939)

 HMV通販で同じ品が何点かリストアップされていたが、最も低価格だったのをカートに入れて買った(25%割引セール中のため約1500円)。届いてみたらアルゼンチン盤だった。マドレデウスの "Faluas do Tejo" もそうだったが、同国からの輸入品はなぜか安い。
 パソコンに読み込んでビックリ。13曲入っていながらトータルタイムはたった39分! 何とも時代錯誤的な収録時間である。もちろん長けりゃいいってもんじゃないのは承知しているが、「無限」をタイトルに入れているのだから、限界ギリギリとまでは言わないまでも長時間(せめて60分以上)収録してくれてもいいじゃないか。よく調べずに注文した私がバカだった。こんなことなら約47分収録されている同時発売のサンバ集 "Universo ao Meu Redor"(私の中の宇宙、TOCP-67940)にすれば良かった、と悔やんでも後の祭り。もっとも、産婆は既に所有しているベスト盤1枚で十分と思っていたから、あちらは選びようがなかったのだが・・・・・気を取り直して試聴に臨む。
 ところが印象はパッとしない。とくに美しい声ではないし、メチャメチャ歌が上手い訳でもない。曲にしても冒頭の "Infinito particular" のみならず、どうにも掴み所のないようなものばかりを並べているといった感がある。ブックレット(1曲につき1頁)の各ページには全て彼女が名を連ねているから、おそらく作詞・作曲のいずれかに関与していると思われるが、そちらの才能にしても正直どの程度のものなのかが私にはわからない。(ちなみに6曲目 "A primeira pedra" の出だしの音型が先述のトラック1のそれと類似していたが、これも使い回し疑惑により評価を下げる一因となった。)録音時点でまだ40歳にも達していなかった歌手にベテランと同じ凄味や円熟味を期待するのは言うまでもなくお門違いであるが、かといって若々しさも伝わってこないから中途半端という印象は拭いようがない。(クラシックでも中堅どころの指揮者や演奏家は評価が難しい。それと同じか?)とにかく地味な曲の数々を地味な歌手が歌っているという風にしか聞こえなかったのだ。ただし、ダメの烙印を押すだけの自信は全く持てない。そういえば竹村淳は「ラテン音楽パラダイス」に現役ブラジル人女性歌手では一番のお気に入りと書いていたし、CDジャーナル2006年6月号の「今月の推薦盤」では「エリス・レジーナの域に達しつつある」とまで持ち上げられていたっけ。(既に21歳でのデビュー時から「レジーナの再来」と激賞されていたらしい。)とはいえ、その本家からして真価が解っているとは到底言い難い私ゆえ、実際には並々ならぬ(それこそ「無限」について思いを馳せずにはいられないほどの)深みを備えているにもかかわらず、それを全然理解できていないだけという可能性は否定できない。結局ナイナイ尽くしに終始してしまったようだが、特にこれといった欠点も聞き出せなかったので一応75点としておく。

おまけ(本文を圧倒するボリュームとなるのは必至だが知らん。)
 当盤のタイトルにも使われている「無限」という言葉について最近私が考えていることを綴ることにした。
 わが家は先祖代々浄土真宗の門徒であるから私も「南無阿弥陀仏」(念仏)はしょっちゅう目&耳にしている。ところで真宗の宗教学者だった清沢満之(きよざわまんし)は、「『名無』は有限者である。『阿弥陀仏』は無限者である。これら対立矛盾する存在の橋渡しとなるのが『南無阿弥陀仏』の六字名号である」という説を唱えたが、それが異安心(いあんじん、宗祖の教えにそむいた教説をとくこと)であるとして東本願寺から除名処分を受けてしまった。そんな記述を何か(梅原猛の本だったか?)で読んだ記憶があるのだが、思い出せないし探しても見つからない。何にせよ、阿弥陀仏が無限者であるという考え方は私の心にもスッと入った。
 絶対者を崇めるのは他宗教でも同じであるが、例えば「神」にしても「無限者」の意味で使っているのだとすれば、私が受け入れることだって決して不可能ではない。無限大を分母に入れればどんな大きな数を分子に持ってきてもゼロであるのと同じく、無限者を相手にすれば所詮有限者である人間など無に等しい(註)。だから「神」に逆らっても無駄である。また、有限の知性しか持たない我々人間が無限な真理である「神」を認識することもできない。非常に解りやすい説明である。ところが話はそれで終わらない。「無限である」は必ずしも「全能である」を意味しないからだ。
 仮に「神」が宇宙を創造する力を有するとして、それを実際に試みた回数は無限であると考えても決して不当ではあるまい。(むしろ「無限者」にはその方が相応しいはずだ。)ならば、成功した回数と失敗した回数はともに無限であったと想像してもちっともおかしくない。つまり、現在に至るまで「神」は途方もない数の「できそこない宇宙」を造ってきたということになる(ブルックナー9番目次ページの下も参照のこと)。1つの宇宙の創造に失敗するだけでも決して小さなことではあるまい。こうなると「神の愚行に比べれば人間のそれなんて可愛いもの、だから許されて当然」だって成立するではないか。「神がいなければすべてが許される」と語ったらしい「悪霊」(未読)の主人公スタヴローギンとは前提が逆ながら、危険思想には変わりがないようなのでひとまず措く。

註:この点について、当サイトの「信仰告白」(「私のクラシック入門」)ページで採り上げた大学生協発行の音楽雑誌「をとひめ」に私よりもはるかに説得力のある文を寄稿した人がいた。感銘を受けたので打ち込んで保存していたのである。以下にその一節を載せておく。身も蓋もないかもしれないが、このような考え方には清々しさを感じる。

  僕自身は無宗教で「神」たる存在をなるべく信じたくないと思う人間なの
 だが、もし存在するとしたら一つだけ確実だろうと思うことがある。それは、
 その「神」というのは一人の人間の生き死になど全く意に介さないだろうと
 いうこどだ。人間に慈悲をかける神など神ではない。信仰と救い。「信じる
 ものは救われる。」本当にそれでいいのか? 信仰したら自分を救ってくれる
 ような神に、あなたは運命をゆだねたいと思うのか? 僕はそうは思わない。
  確かに自分自身を救ってくれるのはありがたい。信じてお祈りすれば万事
 がうまく行きますよ、それは結構なことだ。信者だけが世紀末に起こる最終
 戦争に生き残り新しい未来を開くことができるのだ、それも結構なことだ。
 しかしそんな選択的・差別的な神など、決して社会を平和にはしないだろう。
 ただ差別の、人間の醜さの代弁者となるだけだ。第一そんなケチな神など、
 神と呼ぶに値するだろうか。
  本物の神は地震で何千人の人が死のうとも、街がなくなろうとも、無差別
 テロが1カ月以上騒がれ続けようとも、せいぜい路上の雨の跡が乾いたぐら
 いにしか思わないのだろうと思う。全てを知り、運命付ける。鏡のような冷
 たさ、太陽のような圧倒的で殺人的ですらある力。そのくらいでなければ、
 僕は神と認めたくはない。

 何にせよ、私は「無限者」としての「神」を認めることには吝かでないものの、「全能者である」という考え方は絶対に容認できない。理不尽としか思えないような死に方をした人の追悼の場にて「彼は神様が必要とされたから召されたのだ」のような一見物わかりの良さそうな解釈を聞いたことがあるが、「勝手に納得してどうする!」と私は腹の底から煮えくり返る思いだった。これに限らず「神のなさることはその時々に応じて正しい」のように、不条理な出来事すらまるで自分達の側に非があるかのようなウジウジしたご都合主義には心底から反吐が出る。(この際暴走ついでに書くと、舊約聖書の中でも私がとりわけ忌み嫌っている物語の一つがヨブ記である。)先に転載した投稿とは大違いだ。「無限者ゆえ過ちを犯す回数も無限」の方がはるかに合理的な(理に適った)考え方ではないか? あるいは、新潮社のPR誌「波」2006年11月号に掲載された「『本当の私』というフィクション」という対談にて、禅師の南直哉(みなみ・じきさい)は「もし神というものが存在するのだったら、私たちの後ろを横切るだけで、正面には立たないと思うんです。仏教の『無常』がこれに近い。それは辛いけどしようがない。」と語っていたが、こういうのも潔くて私は好きだ。
 そういえば、神は決して完全なる存在ではなく、トライ・アンド・エラーを繰り返しながら成長するという考え方をこれまた何かで読んだことがあると思い当たった。今度はすぐ見つかった。本多顕彰(ほんだあきら)の「歎異抄入門」(カッパブックス)の冒頭部分「私の告白 ─ 信じ切れなかった長い年月」に出ていた「ライフ・フォース」である。バーナード・ショーが説いたというその力は「宇宙を支配し、完成に向かって進んでいるが、それ自身が不完全であるため、誤りをおかし、つまずき倒れ、また起きあがって前進をつづける」と書かれている。「つねに新しいものを創造しながら、完全に向かって進化する」というベルグソンの「エラン・ヴィタール」も同じらしい。本多は全知全能の神がなにゆえに罪を犯すような人間を創造したのか、地上に山ほどある不正や不幸をなぜ黙認しているか等、まったく理解できなかったが、神(ライフ・フォース)自体が全知でも全能でもなく、人間同様に不完全であり、それゆえに完全に向かっての前進の努力をしているという説明に満足したそうである。私もこれなら納得がいく。(立花隆の「宇宙からの帰還」のインタビューに登場した元宇宙飛行士の何人かも「神」を発展途上にある存在と認識していたのではなかったか?)
 さて、私が「神」というのを「無限者ながら不完全な存在」と捉えていることは先に記した通りだが、だからといって「つまらない存在」「いてもいなくても一緒」とまでは思っていない。科学雑誌「ニュートン」で「無限」についての特集を読んだことが切っ掛けとなった。
 有理数も無理数も無限に存在するが、数は圧倒的に後者の方が多い。つまり一口に「無限」といっても種類の異なる無限がある。それを証明したのがドイツ人数学者、ゲオルク・カントールである。彼は無限集合を研究し、「濃度」という尺度によって無限の程度を比較する方法を作り上げた。そのお陰で無限は数学の対象として厳密に扱うことがはじめて可能となったのである。例えば整数、自然数、および有理数は個数に違いこそあるものの全て「濃度」の等しい(=カントールが「アレフ・ゼロ」と定めた)無限であり、無理数や実数は「アレフ・ワン」、つまりもっと「濃い」無限である。数直線の隙間を埋め尽くすことが可能なのは後者に限られる(以上、2005年9月号のNEWTON SPECIALより)。
 ということで「無限」にもピンからキリまであるのだとすれば、「無限者」もまた同じと考えて悪かろうはずがない。つまり、私には優等生からどうしようもない落ちこぼれまでいろんな「無限者」がいるように思われてならないのである。既に述べたように「神」は限りなく良いことをしてくれるかもしれないが、それを認めると、ろくでもないことも限りなくやらかすと考えざるを得ない。ただし、前者における無限の「濃度」が後者のそれよりも圧倒的に上回っている「神」、すなわち最高ランクに位置づけられる「神」はいるかもしれない。その逆も然り。そして私は最近、この宇宙を支配する「無限者」は決して上中下の「上」の部類ではないが、かといって「下」に位置づけられるほど酷くはないような気がしている。
 しかしながら、もし「全能である神」(一度たりとも失敗しない神)がいるとしたら ─私は認めたくはないのだが ─ それは無限の「濃度」で比較できるような並の「神」ではなく、それらを創造し統括しうる存在ではないかと思う。あるいは宮沢賢治が「銀河鉄道の夜」に書いた「たったひとりのほんたうの神さま」が該当するのだろうか? とはいえ、有限者たる人間にはその「大ボス」どのようなものであるかを想像することすら許されていないに違いない。なので、私は「自分たちだけが真理を」などと声高に主張するような連中はみんな大嘘吐きだと考えることにしている。せいぜい「他教団の神より濃度○割増強」ぐらいにしときなさいって。(後日追記:などと一度は書いた私だが、「神」の創造に出来不出来があるとすれば、それ自体が「大ボス」の不完全性を物語っていることにならないかと思い当たった。ただし、何かのシミュレーション実験をしているということにすれば一応は矛盾を回避できる。そのシミュレーションなりモデルなりの妥当性という問題はついて回るが・・・・とにかく、こういうのが決して行き着くところのない疑問であることは間違いない。いろいろ考えるのは楽しいけれど。)

さらにおまけ
 最近私が興味を持っている事柄に「ユダの福音書」がある。「正統派」(註1)のキリスト教団から「異端の書」として読むことを禁じられた「偽典」(註2)の1つである。(註1:あくまで「異端」を排除するだけの力を持っていた「勝者」の意味で使ったことを示すため括弧書きにした。ちなみに「書物としての新約聖書」の著者、田川建三はこの点について「正統派が結束するのは、同じ純粋さのまわりに集まって結束するのではなく、特定の『異端』を追い出すためにのみ結束するのである。自分達の内部には、時にはその『異端』と自分達の間の距離よりもっと大きな相違をかかえていても、そんなことは一向に構わないのだ。」と看破している。註2:他に「トマスによる福音書」「マリアによる福音書」などがある。「トマス行伝」のように「正典」からは外されたものの読むことは必ずしも禁じられていなかった「外典」とは異なる。)タイトルこそ知られていたものの、他の「異端の書」のように現物が発見されることはなく、長いこと「幻の書」であったが、それが1970年代にエジプト南部の洞窟で発見され、復元を経て今年ついに公開された。そのキモはこうである。「正典」に属する四福音書ではイエスを官憲に引き渡した「裏切者」という扱いだったイスカリオテのユダが、実はイエスの親友だったというのだ。よって「引き渡し」も背信などではなく、イエスの使命(彼自身が望んだ肉体からの解放)を全うするための手助けであり、彼こそが最も忠実な弟子かつ唯一の理解者であると語っているのである!(何とイエスから秘蹟を授けられる場面の記述まである。)これでは従来のユダ観が180度ひっくり返ってしまう。キリスト教関係者の間に一大センセーションをまき起こすのはもはや避けられない情勢だ。私が定期購読しているNATIONAL GEOGRAPHICはこの書物に随分入れ上げているようで、既に特集記事が組まれただけでなく各種単行本やDVDブックまで販売している。2006年9月号付録の小冊子に載っていた中沢新一(宗教学者)の解説はとても面白かったので、上の「おまけ」に関係する部分を交えて少し紹介したい。
 この「異端」の福音書を記したのは「グノーシス派」と考えられているが、彼らの思想の特徴を中沢は平易に解説してくれている。なお「グノーシス」は「神の真理の認識」の意である。
 宇宙には、それを創造した神の正しい意図が反映しているから、宇宙の秩序にしたがって生きることによって人間は正しい人生を送ることができる。このような現世肯定の考え方にグノーシスの思想家たちは真っ向から挑戦した。「現実世界のうちに、絶対的な神の真理を示しているものなど果たしてあるだろうか。逆にこの世は不正に満ちみちているではないか」と。「宇宙の秩序とそれを反映している人間の社会は、真実の神の考えを示してはいない。宇宙を創造した神自身が実は偽りの神であり、真実の神はどこかに隠れているのである。だから人は、現世をいたずらに肯定する生き方を捨てて、自分の魂を霊的に純化していく努力をしなければならない。ましてや、不条理な信仰にすがって生きたところで、その人は悪と無知の道に迷い込んでいくだけだ。」(次の「ただ真実の叡智であるグノーシスの探求だけが、人を解脱に導いていくことができる」はキリスト教よりも仏教に近いが、筆者の仏教への傾倒を反映していると思われる。)これが上の「ウジウジしたご都合主義」を一蹴しているのはいうまでもないが、もし私がこういった思想にリアルタイムで触れていたらすっかり魅了されていたのは間違いない。(その後どうなっていたかは知る由もないが・・・・)
 さらにグノーシス派は絶対的な神の意志が現実の歴史に介入して、それを変化させる可能性にも疑問を唱えた。イエスは十字架刑によって死したのち、よみがえりを果たすことによって死に打ち勝ったと「正統派」は考えている。しかし、霊的な本質をもっている神の意志が、そんなやり方で物質的な現実に介入したり、かかわったりするものだろうか?(「イエスは十字架にかけられて死んだ。しかしそう見えているだけで、そのときイエスは幻影の身体を脱ぎ捨てて純粋に霊的な本質に戻っていっただけなのである。十字架による死も、死してのちの復活も、たんに信仰という不条理な行為にとって意味のある幻想に過ぎないのであって・・・・」のように、現在に至るまで根本原理としてキリスト教を支えてきたイエスの復活ですら、グノーシス派にとっては取るに足らないものとされてしまう。以降、信仰よりも叡智による認識を重んずるという彼らの基本的考えが説明されているが、このページで言いたかったこととは外れるので省略する。なお中沢は、「ユダの福音書」の発見をキリスト教に危機をもたらすものと見なしている多数の「融通の効かない人たち」に批判的である。彼は「実際にはグノーシス思想が明らかにされることによって、人類の思想としてのキリスト教の可能性はずっと豊かになったのである」を理由に挙げ、「歴史の限界づけから、人類は確実に自由になることができたわけであるから、この発見は人類にとって計り知れない意義をもっている」と高く評価している。)
 私の目に留まったのは次の一文である。「じっさいには、純粋な霊は、物質的な限界に触れると、それだけで純粋な本質を失って、堕落してしまうのではないだろうか。」同じく私が関心を寄せている量子論的な考えが含まれているように思ったからである。以下NEWTONの2006年7月号と9月号を引っ張り出して書いてみる。
 ミクロの世界では1つの物体が同時に複数の場所に存在しうる。例えば電子は量子論に従って振る舞うため、「複数の状態が共存した状態」をとることができる。どのような状態で発見されるかは確率的にしか予測できない。しかしながら、ひとたび「観測」(ただし「マクロな痕跡をつくり出すこと」という意味で、必ずしも人間の介在を必要としない)を行えば「状態の共存」は破れる。つまり状態が1つに決まって、「観測」以前の複数の状態は消えてしまう。(そうではなくて、複数の状態が残っているとするのが既に他ページでも触れた「多世界解釈」で、その結果として時々刻々と世界が無数の「パラレルワールド(並行世界)」に分岐していくという大胆な考えが導き出される。ここで脱線。宇宙にある全エネルギーの約14倍が必要なため前世紀の終わりに理論上不可能とされたワープ移動とは異なり、タイムマシンは例えばスティーブン・ホーキングが「そもそも未来からの時間旅行者がいないのがタイムマシンが存在できない証拠」として否定説を唱えているものの、まだ完全に決着した訳ではない。が、もし時間旅行が可能なら、無数に出現するであろうドラえもんとセワシによってのび太は引き裂かれてしまうに違いない。なので絶対無理と考えておいた方が精神衛生上からは良さそうだ。)加えて粒子の位置と運動方向とを同時に正確に決めることは不可能、すなわちハイゼンベルクが明らかにした「位置と運動量の不確定性関係」も量子論の重要な特徴である。(ここでの「不確定」とは「不可知」、つまり「実際は決まってはいるが、人間には知ることができない」ということではなく、「多くの状態が共存していて、その後実際に人間がどの状態を観測するかは決まっていない」という意味である。ここでまたも余談。「地下室の手記」と題する小説が19世紀に書かれている。前半部は主人公&語り手の独白であるが、彼は暴走に暴走を重ねた挙げ句こんな話を持ち出す。科学が進歩すれば、いつの日か人間の恣欲や気まぐれとされていたものも全て方程式や一覧表によって正確に予測できてしまうようになる。そうなれば人間は即座に欲望することをやめてしまうだろう。自由意志も結局は自然の法則や「二二が四」のような算術と何ら変わりがないと判れば、あとは理性的に判断を下すだけになるから。かつてその作者を扱った超弩級サイトに出入りしていた私は、この点について考えるところをBBSに書き込んだことがある。詳細は覚えていないものの、不確定性のため未来は絶対に決まらないから、彼の考えるような時代は永久に到来しないだろう、などと述べたのではなかったか。ゲーデルの不完全性定理とごっちゃにしているのを指摘され、自分の不明を恥じる結果に終わってしまったが。今思うにカオスから同じ結論を導くべきだったかもしれん。何にしても、これらの理論や関係性がもう少し早く世に知られるようになっていれば、あるいは彼は地下室に引き籠もらずに済んだだろうし、そもそも小説自体が書かれなかったかもしれない。)
 さて、話がだいぶあっちこっちしたけれど、私が言いたかったのは「霊」にせよ「神」にせよ、この世に「痕跡」を残したが最後、「純粋な本質」を失ってしまうということである。ゆえに人間の目に「神の御業」と映ったものも所詮は残骸に過ぎない。(だから、そんなものに振り回されてはいけない。)同様に、人間が何らかの「観測」を行った瞬間に「神」は変質してしまう。(よって「自分は真理を知る者である」などと語る輩は錯覚しているか嘘っぱちのいずれかである。)つまり、私たちが「神」の領域に到達できない理由は、上で述べた「無限の対象を有限の知性では捉え切れない」からではない。不確定性こそが本当の原因だったのだ。そういえば浅岡弘和というクラシック音楽の評論家が「真の信仰とは自分は神の近くに居ると錯覚する事(賢者、善人)ではなく、いかに神から遠く離れた存在であるかを自覚する事(愚者、悪人)にある」と書いていたが、要はこれも不確定性をしっかり「自覚」するということかもしれない。とはいえ、私はかつてグノーシス派が試みたような「叡智による神の真理の認識」への不断の努力が無意味であるとは思っていない。「観測」の積み重ねによって確率論的予測の精度を上げることは可能なはずだから。

追記
 他ページで触れたブラジル出張が実現していれば、本ページは(万が一の事態に備えて)その直前にアップするつもりだった。必ずしも遺稿に相応しいとは思っていなかったが。

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