ミージア(Mísia)

Fado(ファド)
1993(国内盤は1994)
BMG BVCP-710

 大学に入って間もない頃、「牛」に対する英単語が "cow"、"ox"、"bull"(他に畜産用語の "cattle" 等)のようにいくつもある理由について述べた本(著者も題も忘れた)を読んで「なるほど」と納得したことがある。たしか古来から家畜の繁殖と飼育を行ってきた人種にとって、牛の「オ○ン○ン」(あるいは「キ○○マ」だったか?)の有無は非常に重要な関心事だったから、という説明だった。これに対し、狩猟時代以降は獣肉食の習慣がほとんどなかった日本人にとって普段はどーでも良い話で、どっちかを示す必要が生じたら「雌(または牝)」か「雄(または牡)」を前に付けて対応していたのである。一方、縄文後期から栽培を始めていたとされる Oryza sativa L. となると、栽培中は「稲」、収穫物は「米」、調理後は「飯」と全く違う単語を充ててきた。(同じくアジアで米を主食とするインドネシアでも "padi"、"bras"、"nasi" と呼んでいることを後に知った。)言うまでもなく英語では全て "rice" である。(強いて区別するなら "rice plant"、"rice grain"、"cooked rice" だろうが、大抵はその場の状況で判るから "rice" で済ませてしまうだろう。)
 作物関係の話をもう少し。既にクラシック関係のページに書いたが、わが国では特に使い分けの必要がない場合を別として、本来別種のコムギもオオムギもライムギもエンバクも「麦」で一括りにされることが少なくない。(「サル」という動物種がいないのと同様、「ムギ」という名の植物は存在しないにもかかわらず。)形態学的に微妙な差異は目に入らず、穂の形がそれっぽいものをみんな「麦」の仲間と認識してきたのである。(かなり遠縁で、しかもC4植物のハトムギ (Job's tear) などは「いくら何でも違うやろ」と言いたい気分だが。ついでながら「ホソムギ」と名付けられた畑地雑草まである。)これに対し、麦類を主食とする国の言語では "wheat"、"barley"、"rye"、"oat" のように全く別の名が付けられている。日本では各地域の気候や風土に適合した(最も栽培しやすい)「麦」をとりあえず作ってきたのに対し、麦類主食地帯では特性の異なる種を用途に応じて栽培する必要があったからだと思われる。これとは逆に日本では「粟」「黍」「稗」が(単に補助食に留まらず飢饉の年の救荒作物として)非常に重要な作物として位置づけられてきた。ゆえに「米」「麦」とともに「五穀」に加えられている。(ちなみに「稗」の代わりに「豆」の入った「五穀」リストも目にするが、これだとダイズもアズキもインゲンもエンドウも一緒くたであり、かなりぞんざいな扱いだと言わざるを得ない。そもそもイネ科作物に属していないし、それ以前に双子葉植物を加えようというのだから私としては大いに違和感がある。)ところが英語では基本的に "millets" である。多くのイネ科作物がこのカテゴリに入れられている。("foxteil"、"barnyard"、"pearl"、"finger" といった単語が前に置かれるのは特殊なケースである。)日本語には元来なかったはずの「雑穀」が訳語として当てられているが、これではまるで雑草扱いではないか。とはいえ、やっぱりこれもお互い様、実用性の程度で片付いてしまう。そういえば先に出たインドネシアのカリマンタン(ボルネオ)島で伝統的焼畑農業を営んでいる民族の言語には、数年間耕作を行った後の回復途中にある森林植生を指す単語が1年ごとに違っているという話を誰かから(隣の学科の先生?)、あるいは何かの本で知り驚いたことがある。グダグダ書いてきたが、要は思い入れ(こだわり)の強さと分類の細かさには正の相関があると言いたかっただけである。
 さて、このような音楽とは全く関係のない話から始めたのはちゃんと理由がある。私はかつて当盤についてKさんへのメールでかなり悪し様に述べたことがあった。FM誌のラテン音楽特集でD・ポンテスと肩を並べるほど好意的な紹介文が出ていたので期待を抱きつつ(それも生協注文だから新品を)買ったのだが、それが見事に裏切られたからである。たしか「どれもこれもアマリア・ロドリゲスの物真似みたいな歌い方だ」などと好き放題書いたと記憶している。(だから、もし彼のBBSに投稿していたら一部参加者、特にポンテスよりもミージアの方を高く評価していたという元常連Hさんの顰蹙を買ったのは間違いない。)私の暴走はそれでは止まらなかった。NHK-FM「世界の民族音楽」のファド特集で放送された歌が男女を問わずロドリゲスの声と節回しがソックリだったことに立腹し、「いくら彼女が偉大な歌手であり、敬意を払っているとしてもあんまりではないか!」と悪態まで吐いたはずである。
 この点についてさらにダラダラ余談を続けてみる。1989年以来の知人であり2年以上をともにパラグアイで過ごした「戦友」でもある現東京近郊都市在住のH氏(前段落の「Hさん」とは別人)から借りたCDあるいはカセットテープ(どっちだったかな?)に関する話である。(それにしても彼だけは「〜さん」「〜君」でなく「H氏」と呼びたくなるのは何故だろう?)彼は帰国後に私が在学(3年休学→復学)していた中部圏の大学に設置されたばかりの大学院国際開発研究科に入ったので頻繁に会っていた。さて、私に貸してくれたのはボリビアのフォルクローレのオムニバスだったが、これが本当に酷かった。男性ヴォーカルを立てている曲がことごとく世界的人気を博したロス・カルカス(Los Kjarkas)のモノマネだったのである。今の私なら間違いなく「劣化コピーバンド」で片付けていただろう。研究室で再生していたところ、たまたまフォルクローレ同好会に所属していた学部4年生の女性後輩が居合わせたので聴いてもらったが、同じ印象を抱いたらしく呆れ果てた表情を浮かべていた。(以下脱線。氏はそのサークル向けにスペイン語と音楽の指導を行っていたので彼女も彼を知っていたし、「学芸会レベル」という辛辣な評価についても正当なものと認めている様子だった。ところで、彼は音楽の背景や演奏時の心構えについても教えようとしたらしい。「アンデス諸国の音楽を同じ衣装で演奏するのはケシカラン、それはチマチョゴリを着て日本民謡を歌うようなものではないか」などと語ったということだ。そこまでウルサイこと言わんでも、という気がしないでもないが、それを言わずに済ませられないところが彼の持ち味なのである。とにかくユニークな好人物なので、当サイトでも今後たびたび登場してもらうことになるだろう。なお、かくいう私もフォルクローレの地域間差にはとんと疎い人間だが、かつてボリビアの憲法上の首都スクレで生演奏を聴いた際、ゲストの団体がペルー、エクアドル、ボリビアの音楽の特徴を分かりやすく説明してくれたのは嬉しかった。その女性ヴォーカリストの声は小柄な体から発せられたとは信じられないほどボリュームたっぷりで、かつ非常に魅力的だった。なので再度聴きたくて仕方がないのだが、名前が判らないことにはどうしようもない。ここら辺で脱線にピリオドを打ちたいのだが、「売らんかな」精神に毒された結果、安易なモノマネに走ってしまうという風潮には本当に反吐が出る。最近のテレビ番組はどのチャンネルに合わせても占い師、グルメ、知能クイズなど同じような番組ばっかしではないか! 他局が高視聴率を取ったから追従するというのでは無節操にも程がある。これは我が国だけではないだろうが・・・・)
 さてさて、購買者にとっては特にコロッケや栗田貫一などのファンでもない限りモノマネのCDなど欲しくもないし聴きたくもないのである。栗貫といえば、最近ようやく板に付いてきたと評判らしいが、彼のルパンIII世には全然魅力を感じない。これに対し、まだ十分馴染んでいないけれども、大山のぶ代→水田わさびを筆頭に思い切って先代のイメージからの脱却を図った「ドラえもん」の制作者は慧眼だったと思う。こんな風ではいつまで経っても本題に戻れないので今度こそ止める。
 上記のように当盤のみならずファドというジャンルに対してあまり良い印象を持っていなかった私であるが、最近はそういった考えを改めつつある。そこで冒頭の話である。既に他ページに「些細な違いを論うのがクラシックの愉しみ」と書いたが、それは全てに当てはまるのではないかと思い当たったのである。私にはほとんど同じに聞こえる音楽でもファドのファンにはちゃんと違いが把握でき、それが面白いのだろう。(なお、少し前に通販サイトでMariza(マリーザ)という歌手のCDを試聴したが、あれくらいクセのある声だったら私にも判る。)逆にブルックナーのシンフォニー1曲について何十枚もディスクを集めたり、フルトヴェングラー&BPOによる「運命」のわずか2日違いの演奏(1947年5月25日盤と27日盤)におけるそれこそ針の先で突いた程度の違いを聞き出して嬉々としているクラヲタは全く理解不可能に違いない。ましてや、同一演奏にもかかわらず異なるマスタリングが出る度に入手し、本当に音質改善がなされているかチェックするといった真似など狂気の沙汰としか映らないだろう。
 ということで、「違いのわからない男」である私には、正直なところ「ファド」と題された当盤を批評する資格はないという気がする。が、折角ここまで書いてきて放り出すというのも何なので、ひとまずは久しぶりに試聴した印象を手短に述べることにした。
 既にトラック1から声質や崩し方がロドリゲスと瓜二つでウンザリしてしまう。とはいえ、現代作品を世に送り出すメッセンジャーとしての使命感は買える。実際新しい曲の方が窮屈さが感じられず心地よく聴くことができた。どちらかといえばスローテンポの曲でこの人の持ち味が出ているように思ったが、中でもトラック6の「ガヴェアス通りの悲劇」(Tragédia da Rua das Gáveas)は当盤屈指の出来映えだ。しかしながらトラック12「海の唄」は何度聴いてもいただけない。理由は既述だが、もうちょっと書いてみる。ジャズのアルバムに「枯葉」を入れるのと入れないのとで売り上げが大きく違ってしまうのだそうだ。究極の演奏ともいえるマイルス・デイヴィスの影響らしい。(またしても余談。冒頭に「枯葉」を収めたBLUE NOTEレーベルのアルバム "Somthin' Else" は「これを聴いてわからなければ仕方がない」と言われるほどの決定盤であり、ジャズ愛好家から「聖典」として奉られているらしい。ということで実際に聴いてみた。グロテスクなイントロにはちょっと引いてしまったが、その後さりげなく飛び込んできたミュート付きトランペットの旋律には思わずゾクゾクした。それだけで「わかった」などというつもりは更々ないけれど。→追記:調べてみたら市川正二という評論家が「もしこのアルバムを聴いてつまらないと感じたら、それはジャズとは縁がなかったということだ」と書いていた。そうなると、クラシックではフルヴェンの「運命」辺りがこれに相当するのだろう。比較的新しいファンにはクライバーかな?)志が低いと言われようが営業上やむを得ない。そんな話を何かで読んだことがある。それと同じで、ロドリゲスが十八番としていた有名曲だったからとりあえず入れたのだろうか。そんなことを考えてしまったほどにオリジナルを超えてやるという気概が感じられなかった。「大権現」(フルヴェン)のスタイルをそっくりそのまま踏襲したバレンボイムのベートーヴェン全集と同じく、これでは音質に優れているという以上の存在意義がないではないか? そうしてみると、本家越えのために(形式の)破壊工作までも厭わなかったD・ポンテスはやはり偉大だったと私には思えてくるのである。結局暴言の羅列にしかならんかったな。
 ところで、当盤は国内盤としては最初のCDであるものの、その前にEMIからリリースされたファースト・アルバムがあるらしい。歌唱力はしっかりしているので、もしファドでなければ聴いてみたい気も少しだけある。最後になるが、我が国にも同名の歌手が登場し結構人気があるらしい。「犬」では先輩に敬意を払ってか「Misia」「Misia (Jp) 」として区別している。一方「塔」では「Misia (Portuguese)」と「MISIA」である。何にしても当盤の歌い手は "Mísia" である。既にどこかでぼやいているはずだが、西語と葡語のアクセント規則の違いにはいつも悩まされる。

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