マリア・クレウザ(Maria Creuza)
Maria Creuza Best Selection(マリア・クレウーザ ベスト・セレクション)
1995
BMG BVCP-2647
竹村淳「ラテン音楽パラダイス」中の紹介文に「1970年代に人気のあったマリア・クレウーザ(1944〜)が最も輝いていたRCA時代に残した録音から、ぼくが21曲を選んだ」とある。となると、ヤフーオークションで時々見かける「砂の記憶」(Sony CSCS-5189、なお原題は "Da Cor do Pecado" で88年リリース、ついでながら国内盤と海外盤のジャケットは全く異なる)などレーベル移籍後のアルバムでは輝きが減じているということだろうか?(←つまらん揚げ足取りすんなよ。とはいえ、既にベッチ・カルヴァーリョのページで述べたように、歌手の生年を考えれば20〜30年代の歌唱を収めた当盤より後の録音の方が「円熟の境地」という点で勝っているという可能性は否定できない。)何にしても、これは国内企画盤である。ここで邦題に含まれる歌手名について言及しておくと、まず "Creuza" は2音節(creu+za)からなる。「私」を意味する "eu" と同じく「強母音+弱母音」の組合せゆえ、第1音節は二重母音化するからである。(決して "Creúza" → Cre+u+zaではない。)よって「クレウーザ」よりは上の「砂の記憶」が採用している「クレウザ」の方が圧倒的に原語発音に忠実ということになる。もちろん私もこっちを使う。(実は他サイトから知った。)
とうの昔に生産中止となっていたが、竹村推薦盤ということもあって中古市場からの入手を試みた。しかしながら、ヤフオクで2連敗(ともに税込定価2200円以上に高騰)を喫したため、アマゾンのマーケットプレイスに(諸経費込みでピッタリ定価となるよう)買い注文を入れておいた。が売り手は現れず。諦めかけていたところにオクで3度目の出品(1000円)を見たため、それなりの覚悟価格(たしか貯まっていた数百ポイントを全部利用して定価に収まる額)で自動入札を入れておいた。が、なぜかそういう時に限って強力なライバルは現れないものである。結局6割上がっただけで落ちた。もちろん私としては嬉しい誤算であるが・・・・
ところが届いた品を再生した直後に別の誤算に気が付いた。既に他盤(テレーザ・サルゲイロの "Você e Eu")ページに記したように、私はクレウザによる "Garota de Ipanema" を試聴し、その歌唱から尋常ならざるものを感じたため聴きたくなったのである。ところが当盤冒頭に収められた同曲といえば・・・・まずフルート合奏(?)による出だしにガクッときた。この曲にはまるで似つかわしくないイントロだ、と思っていたら8秒後にテンポがガクッと落ち、さらにその4秒後に戻す(間奏もほぼ同じ構成)。そして、ようやくにして始まった歌唱は何ともいえぬ脱力感を漂わせている。先に触れた試聴では、クレウザはそれこそ脱兎のような勢いで歌っており、短時間ながら殺気までが伝わってきたのである。それゆえ私の抱いた違和感は並大抵のものではなかった。ちなみに iTunes Store で検索すると、クレウザによる2種の「イパネマ」が上がってくる。うちヴィニシウス・ヂ・モライス名義による "Grabado en Buenos Aires - com Maria Creuza y Toquinho" の9曲目がてっきり聴けるものと思い込んでいた音源である。(また "Maria Creuza ao Vivo" の8曲目にも収められているが、そちらはライヴという事情は解るものの、崩しすぎが災いしてあざとさを感じてしまうため全く買えない。)そのトラックタイムは2分22秒である。一方、当盤では3分20秒。スピード感に乏しくて当然だが、それ以上に平板と聞こえてしまうのが痛い。だが、よく考えてみれば(小野リサの例などを聴いても明らかなように)元来そういう曲であるから、このケッタイなイントロとは歩調が合っているといえなくもない。そうなると私の方が間違っているということになるのだろうか? とはいえ、ここでの媚びを売るような歌い方(以降のトラックでもしばしば聞かれた)はちょっといただけない。ふと思い出したが、そしていつか採り上げることになるだろうが、極めて低い評価に終わってしまったフランス人女性歌手によるラテン音楽(西語&葡語曲)集とどことなく似ている。
以降のトラックも多くは「お上品にまとめている」という印象である。つまり当盤は「オシャレ」という形容に相応しいような音楽(これが竹村の趣味?)によって占有されているため、最初からそういうのを期待して買った人はきっと満足できたことだろう。が、私は購入の動機が上述の通りだから(本来なら文句を言う筋合いではないと判ってはいるものの)相当ガッカリである。そういえばジャケットの歌手の横顔写真(註)はどことなく貴婦人っぽく、音楽に揃えていると考えられなくもない。(註:意図不明ながらピンクで着色されている。レーベル面までも同色を基調としている。それゆえ「お前はポーラ・クリーマーか?」と言いたくなった。別に横峯さくらでも上田桃子でもいいが・・・・)とはいえ、それで中身を判断するのはもちろん無理である。解説中の「子供の頃から唄が巧くて近所でも評判だった少女」の片鱗も窺うことはできず、ただただ空しく響くだけであった。
しかしながら、曲によってはその実力を遺憾なく発揮できていることがだんだんと解ってきた。(ちなみに収録曲21はRCA時代のアルバム9枚から選ばれているということだが、年代順の収録では全くない。それゆえ、録音時期と出来不出来との相関も特に見出せなかった。)その例がトラック11 "Apelo"、エリゼッチ・カルドーゾの生演奏を耳にした竹村の人生を大きく変えてしまった曲である。別れの悲しみを切々と、ただしサラッと歌い上げているのが見事である。さすがに「今後何十年間も怨念を持ち続けるのではないか?」と思わせるようなカルドーゾの「絶唱」には及ばないものの。(実は冒頭から数節を紹介したかったのだが、翻訳者が自身のサイトにて絶対に日本語訳を無断で載せるなと釘を刺しているため断念した。)同15の "Caminhemos" もそれに肩を並べる名曲&名唱。
19曲目 "Lamento" は少し経ってから聞き覚えがあると思い当たった。先に触れた "Você e Eu" の収録曲である。そう気付くのが遅れた理由は他でもない。あちらの冒頭部はアホクラ(前曲 "Risque" の余韻を葬り去るほどに間の抜けたクラリネット)が担当していたのに対し、当盤では最初から唄で始まっているからである。ここでのクレウザは最初から最後まで力を入れず、飄々と歌っている。「こんな曲真面目に歌っても仕方ないわよ」と言わんばかりに。(そうなると、やはりサルゲイロに欠けていたのは「遊び心」であったと考えざるを得ない。アホクラ何するものぞとばかり弾けてしまえば良かったのだ。)
先の不満は偏に私の勝手な期待に基づいた一方的言いがかりであるし、音楽の質は決して低くないから、とりあえず80点を付けておく。買い直すとすればLP2枚("Eu Disse Adeus" および"Poético")をまとめた "Serie 2 Em 1"(何と26曲も入っている)あたりだが、どうやら廃盤の模様である。また上記 "Grabado em Buenos Aires" は何せ他人名義ゆえ、クレウザ以外の歌唱が多数混入していると考えたら手が伸びない。(追記:と思っていたのだが、よんどころない事情により方針変更となった。)
Grabado en Buenos Aires
2000年前後(オリジナルLPの発売は1970)
原盤はRP Musicらしい(ダウンロードによる購入のためディスク番号はよくわからない)
少し前にクララ・ヌネスの "Meus Momentos" を入手したが、これで同時期に聴き始めたブラジル歌姫3人衆?(カルヴァーリョ、ヌネス、クレウザ)のうち1枚のみ所有というのがクレウザだけとなった。このアンバランスを是正するため急遽iTunes Storeから買ったという次第。そのためCDの詳細情報(発売年等)についていまいちハッキリせず申し訳ないが、Eldor、Discmedi、あるいはIntercd Brasilといった複数レーベルからリリースされているらしい。(なお、2000年9月にはMetacdが「ブエノスアイレスの一夜」という題で国内盤TS-3036を販売した模様である。現在は入手困難のようだが・・・・)ここで気になったのがジャケット。上で述べたように、このアルバムはあくまでヴィニシウス・ヂ・モライス(註)の作品であり、共演者の一人であるクレウザは "Grabado en Buenos Aires - com Maria Creuza y Toquinho" のようにサブタイトル扱いとなっている。(註:この日本語表記はja.wikipedia.orgに倣ったが、「ジ」や「モラエス」よりも原語発音に近いと判断したことにもよる。)それは措くとして、問題は名義人の表記である。amazon.co.jpで検索して出てくる2種のうち、黒を基調としたジャケット(US盤)では "Vinícius de Moraes" となっている。一方、青ベースの方(UK盤)は "Vinicius de Moraes" である。(また、そちらには "Grabado...." 以下のメインタイトルがなぜか記されていない。ちなみにiTunesで入手できるアートワークは黒色ながら構成要素は英盤と同じである。)それを怪訝に思ったためいろいろと調べてみたが、検索サイトではアクセント付き(約 236,000)よりも付かず(約516,000件)の方が倍以上多い。ただし、それは単に表記を簡略化させた結果に過ぎないという可能性も大いにあるから、解決の手がかりにはまるでならない。もっともポルトガル語では(スペイン語でも同様だが)弱母音同士の組合せである "iu" は必ず二重母音化するため、第2音節の“i”には本来アクセント記号は要らないはずである(規則通りラス前の音節に強勢位置があるため)。そこで今度はpt.wikipedia.orgに行ってみたところ、「あり」の方で検索すると「なし」のページに転送されると判明。ところがes.wikipedia.orgでは逆に「なし」から「あり」に飛ばされる。よって事態は五里霧中のままである。とはいえ、 "Vinícius" が西語表記であるのはどうやら確かなようだ。一方、タイトルにしても西語式の "Grabado en Buenos Aires" と葡語式の "Grabado em Buenos Aires" が混在しており(例えばamazon.com)困惑させられた。だが、都市名との整合性を重んじるという理由(少々こじつけ気味か?)により本ページでは "en" を採用することとした。
どっちにしても「アルゼンチンの首都で録音された」という歴史的事実がそのまま当盤のタイトルになった訳である。それもスタジオでのレコーディングではなく、ライヴハウスでの収録であるのは明らかだ。観客の拍手やブラヴォーもタップリ収められている。また、ヂ・モライスは曲の合間で(時に訛っているかもしれないが)堪能な西語によるしゃべりを繰り広げ、笑いもしっかり取っていたりする。なお、もう一人の共演者トッキーニョはギターとヴォーカルの掛け持ち、そしてヂ・モライスとクレウザは歌のみの参加と思われる。(またジャケット写真には姿が見られないが、他に少なくともドラムス担当が1名いる。)何とも剽軽な感じのする小品(正味では1分にも満たない)の "Copa do mundo" が冒頭に収録されているが、これは入場行進曲みたいなものだから飛ばす。
リーダーの語りを挟んで始まった "A felicidade" の出だし "Tristeza não tem fim. Felicidade sim."(註)におけるクレウザの独唱(ほとんどアカペラ)を耳にして私は思わず唸った。(註:これは私が最も好きなシャンソンである "Plaisir d'amour" ─ただし原曲はイタリアのカンツォーネ "Piacer d'amor" ─ の決めゼリフ "Plaisir d'amour ne dure qu'un moment. Chagrin d'amour dure toute la vie." と提示順は逆ながら主張せんとするところは同じである。)そして音楽を聴いて久しぶりに背筋がゾクゾクした。これは尋常ならざる名唱である。加えて相当な貫禄をも示している。彼女(1944年生まれ)はまだ20代半ばだったというのに・・・・大変な才能だ。(何とクレウザはこのセッションが行われた時点では未だソロ歌手としては活動していなかったそうである。ところがところが、デビュー後は角が取れた結果として少なからず凄味が減退してしまったように思われてならない。上記ベスト盤の最後に収められた同曲歌唱と聴き比べてもそれは明らかである。あちらは完全に気の抜けてしまった炭酸飲料みたい。ほんと惜しいなあ。)
ギター伴奏が始まって間もなく、ヂ・モライスが代わって歌う。兼業歌手(註)だから仕方ないとはいいながら正直言ってヘタである。(註:ja.wikipedia.orgでは「ブラジル・リオ・デ・ジャネイロ生まれの詩人、作家、作詞家、作曲家、翻訳家、外交官、歌手、ジャーナリスト」と紹介されているから相当な多才人ではある。)ギタリストが本職のトッキーニョにしても五十歩百歩。しかしながら、これまで他盤評にて散々愚痴ってきたような「せっかくの女性歌手の名唱に水を差される」といった類の不満を感じることはなかった。思うにデュエットだと落差を感じてしまうけれど、3人だと際どいながらも均衡が保たれるからではないか。これは既に他所に書いたはずだが、ベルギーとかカナダのケベック州のように2つの言語圏が存在する国では決まって両者の仲がメチャクチャ悪くなるけれども、3つ以上になるとスイスみたく多言語国家が成立するという話と何となく似ている気もする。全員によるコーラスは息ピッタリでハーモニーは非常に美しい。
それはそうだとしても、女性歌手と男性2名との間に厳然とした実力差があるのは誰しも疑えまい。また、ヂ・モライスとトッキーニョの声質が異なっているのは当然としても、声域には特に違いが認められない。(テノール vs バス/バリトンほどは隔たっていない。)なので、ここでクラシックを持ち出すならば、当盤を室内楽(例えばピアノ、ヴァイオリン、チェロという編成のピアノ三重奏)に喩えるのは全く適当ではない。むしろ超絶技巧の持ち主を独奏者(ピアニストあるいはヴァイオリニスト)に迎えた協奏曲に準えるべきだろう。男声歌唱はどっかの地方オーケストラのレベルかもしれない。そう思って聴けば決して不快ではない。この曲のラスト(3分過ぎ)でクレウザのソロが戻ってくる。ただし "Tristeza não tem fim." のように寸止め、そしてギターが「ジャーン、ジャラララーン」と流して終わり。これも妙にインパクトがあった。
少し飛んでトラック9は超有名曲(ただし「超名曲」にも該当するかは私としては微妙)の "Garota de Ipanema" である。最初のフレーズはヂ・モライスが、次はトッキーニョがヴォーカルを受け持っている。テンポが相当速いこともあり、どちらもメロディを忠実になぞることなく語るように、あるいは呟くように歌っている。これは私が常日頃から気に食わないと思っている唱法である。(かつて家畜語で歌った女性をこれでもかと叩いたことがある。)だから「大作曲家の手になる旋律をぞんざいにすんなボケ!」と暴言まで吐きたくなるところではある。(作詞者のヂ・モライスがジョビンに対してリスペクトを払わないなんてことがあるはずないのはもちろん解っているけれど。なお、蛇足ながら他に先述の "A felicidade" など両者の共作によって世に送り出された名曲は多い。)だが、先にコンチェルトという位置づけが完了しているから問題なし。サビの "Ah, por que estou tão sozinha"(註)から登場するクレウザがこれぞ真打ちとでもいうべき名人級の味わい深い歌唱を聴かせてくれている、って他は二つ目(前座)扱いかい! んなら横綱土俵入りの太刀持ちと露払い・・・・ってこれも一緒か。(註:ここで歌手は "sozinha" と歌っているが、実際には「どうして僕はこんなにもひとりぼっちなんだろう?」と男性の寂しい心持ちを詩にしたためているため奇異に響かなくもない。それを気に懸けていた訳でもあるまいが、上記ベスト盤に採用されたヴァージョン ─元は1980年録音のアルバム "Poema" に収録─ では "sozinho" となっていた。)
今度は少し戻って、トラック5の "Berimbau - Consolação"(2曲のメドレーというよりチャンポン)が当盤随一の出来である。もはやヂ・モライスの独唱には触れないでおこう。(やっぱり可もなく不可もなしといったところである。だが、今になって気が付くのもどうかと思うが、当盤の収録曲はどれも高度な歌唱力は必要としないものばかりである。)とにかくサビの三重唱(ただしユニゾン)が素晴らしいのだ。これは絶対に書き漏らしてはいけないが、トッキーニョの奏者としての腕前は超一流である。1番が終わる直前(1分頃)でのギターのソロの格好良さに痺れた。一方ドラムスも相当な実力者なのは明らかで、猛烈ダッシュのごとく進められるこの曲でもアンサンブルは一度として乱れることがない。お陰で大熱演となっているのはもちろん、完成度という点でも申し分ない。当盤では他にも一部トラックでボサノヴァのリズムを刻む打楽器がエキストラ的に加わることがあるものの、基本的にはドラムスとギターのみによる伴奏である。が、それで十分だと思う。これほどの凄まじい迫力が出ているのだから。時に殺気をも感じたりするという点では、ヂ・モライス作詞による8曲目 "Canto de Ossanha" も同様だ。こちらも隙というものが全くない。野趣と洗練という相反する特性を当盤ほど高い次元で両立させているアルバムは滅多にあるまい。「ブラジル音楽入門用ディスク」として今後はこれを推すことに決めた。自信を持って薦められる名盤である。
あとは採点だけ。難点がない訳ではない。3つばかし。まずは編集。 "A felicidade" の後、リーダーが共演者2名を紹介している。が、その途中で無惨にもぶった切られ、次曲 "Tomara" の出だしを合わせるためにトッキーニョが発した "Um dois três" という掛け声にワープしてしまう。少しぐらい間延びしても構わないから、語りが一区切り付くまで収めてもらいたかった。また "Garota de Ipanema" 終了後の拍手もあまりに唐突。テープを繋いだ跡がアリアリなので萎える。さらに、オンライン購入者へのボーナスと思しき最終トラック(16)の "Você abusou"(註)は、確かにありがたいことはありがたいのだが、残念ながら前曲からの流れがあまりよろしくない。(註:後年、おそらく1996年に同名のアルバムがリリースされ、今も各種通販が扱ってはいるものの、クレウザのディスコグラフィには見当たらないから、たぶんオリジナル盤ではなく寄せ集めのベスト集だろう。)15曲目の "Se todos tossem iguais a você" はシミジミ曲調ゆえ、この異国での充実したライヴを締め括るにはまさに打ってつけである。その後の盛大なる拍手と歓声のままに終わっていれば・・・・勿体ない。(それに続くものとして "Você abusou" はあまりにも軽すぎる。これが当日のアンコール曲だったとしても、収めるなら数十秒のインターバルは必要だろう。)それぞれを1点ずつの減点対象として97点を付ける。
おまけ
本文で触れた "A felicidade" や "Se todos tossem iguais a você" は、テレーザ・サルゲイロの "Você e Eu" にも入っている。が、その出来映えに必ずしも満足できなかったことは既にあちらのディスク評に記した通りである。ところで、本ページ執筆中にジョビン関係のアルバムを集中的に採り上げているサイト(ブログ)を見つけた。各ディスクについて寸評付きで採点(5点満点)が行われているが、4.5の当盤に対しサルゲイロの方は3点に留まっていた。そのコメントから一部(実は半分以上)引かせてもらうと「ジョアン・クリスタルのバンドはしっかりした演奏をしているのだが、歌が若い」とあった。器楽部については(正直わからんから)ノーコメントとするが、「歌が若い」には反射的に膝を打った。同時に私のダラダラ文章よりもはるかに的確な指摘のように思われて嫌になった。それはどうでも良いが、サルゲイロがボサ・ノヴァを初めとするブラジル音楽をレパートリーとして(私のような)うるさ型の聴き手を満足させるためには、やはり熟成過程(経験を積み上げ、円熟味を加えていくこと)が必要なのは間違いなかろう。ここから話をワインに持って行きたいが、使い回しになりそうだから止めておく。
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