エリゼッチ・カルドーゾ(Elizeth Cardoso)

Elizethiana - Os Grandes sucessos de Elizeth Cardoso(絶唱)
1990
TAKE-OFF(Copacabana) TKF-3002

 竹村淳は1977年秋のエリゼッチ・カルドーゾの来日公演から尋常ではない感銘を受けたことを自著「ラテン音楽パラダイス」で紹介している。それが心の中でさほど大きな位置を占めていなかったブラジル音楽に傾倒する切っ掛けとなったそうで、「一つの歌との出会いでその後の人生が変わることがある」とまで書いていた。(ちなみに、この本は「ぼくを決定的にラテン音楽の世界に引っ張り込んだ二人の故人」という理由で見砂直照 (国産ラテン音楽集団「東京キューバン・ボーイズ」の創始者&リーダーらしい) と共にカルドーゾに捧げられている。)
 さて、「人の生き様に重大な影響を及ぼすほどの力を持った音楽なら是非とも聴かなければ」と思ったことがカルドーゾのディスクを求めるに至った動機である。(もちろん、しょーもないと思っている人間が書いていたのなら無視した。)そこで最もお買い得と映った2枚組の "Cantadeira do amor" (テイクオフの国内盤「愛を歌う」はなぜか1枚もの)を通販に注文していたのだが一向に入荷せず。しびれが切れたのでネットオークションで見つけた当盤に入札し、めでたく無競争落札した。(ちなみに竹村はCyro Monteiro (シロ・モンテイロ) との共演を1枚にまとめた「ボサ・エテルナ」を自著で推していたが、私は男性歌手の歌唱が凡庸だと興が削がれると危惧したため敬遠した。ちなみに、"A Bossa Eterna" は66年と69年の録音がそれぞれ "Vol.1" および "Vol.2" として発売されたが、それらオリジナル盤と同じ曲目のCDについても国内盤あるいは輸入盤が入手可能である。)
 当盤はカルドーゾ(70歳を目前にして1990年に死去)の追悼盤であるが、帯には「コパカバーナ(註:彼女が3番目に、そして23年間在籍したレーベル)時代から、特に名唱中の名唱を厳選収録」とある。さらにブックレットには「エリゼッチという偉大な歌手を知る上で、ともかく一度は聴かなければお話しにならない名唱ばかり」と記されている。その16曲の選定を行ったのは竹村その人であり、解説も彼自身が手がけている。(歌手への思い入れが執筆の原動力となったようで相当な力作である。その一部を上記「ラテン音楽パラダイス」にも転用しているが、単なる使い回しで逃げていないのは偉い。)そこに「フランスにエディット・ピアフが、アメリカ(註:米合衆国のこと)にビリー・ホリデイやサラ・ヴォーンが、そしてブラジルにエリゼッチ・カルドーゾがいたとでも言えば、多少なりとも彼女のすごさを想像していただけるかも知れない」という一文があった。(ついでながら、それほどの歌手にだったにもかかわらずブラジルの複数レーベルに残した膨大な録音のうち、国内盤として手に入るアルバムが先述の「ボサ・エテルナ」のみであることについて不満の意を表明していた。その後に販売数が増えたのは竹村の尽力によるところが大きいと思われる。ただし現在でも容易に入手可能な品はさほど多くなさそうである。)私はピアフはラジオで少し聴いた程度なのでコメントできる立場にないし、ホリデイについては全然知らない。(オペレッタで活躍するメラニーの方なら何度か聴いたことがあるが。)ヴォーンはあの力強い声による「ラヴァーズ・コンチェルト」を聴いて相当な実力者である(決して「凡」ではない)とは思ったけれども、とにかく美声系を好む性癖ゆえ心動かされるということはなかった。
 ということで竹村の比喩ももう一つピンとこなかった私だが、当盤トラック1 "Nossos momentos" をしばらく聴いて「これは紛れもなく大歌手の歌だ」と直観した。NHK-FMでアマリア・ロドリゲスのファドを初めて耳にした時と同じである。声や技量の素晴らしさに感動するのとは違う。存在感というか迫力というか凄味というか、とにかく伝わってくるものが並大抵ではない。質が高いとか低いとか考える以前に量で圧倒されてしまったような感じである。エレクトーン、ベース、マラカスなどによる伴奏も非常に格調が高い。
 トラック2は "Apelo"、実は竹村にとっての「一つの歌」とはこれを指す。彼はカルドーゾの生歌唱を耳にして「とめどもなく流れる涙を拭かずにいた」そうだが、さすがに私は泣けなかった。そういえば音楽評論家の許光俊は「クラシックの聴き方が変わる本」(洋泉社)でメンゲルベルクによる名高い(バッハの「マタイ受難曲」と並ぶ大名盤とされる)チャイコフスキー「悲愴」交響曲のライヴ盤に触れた際、「生で聴くならともかく、録音で聴くと、泣くなら泣けよ、死ぬなら死ねよ、と意地悪を言いたくなってしまう。こういうタイプの演奏こそ、ライブの方が生命感を伝えることができる。目の前で女が泣き叫んでいたら、理由がどんなにアホらしくてもとりあえず驚くし、心が動かされるようなもの」と書いていたが、それと同類かもしれない。とはいえスタジオで録音されたと思しき当盤のトラック2を聴いても大変な名曲そして名唱であるとは解る。冒頭のフレーズ "Ah, meu amor não vas embora" を聴いただけで一気に引き込まれてしまったから。ここでもピアノ、ドラムス、ベースというリズムセクションによる伴奏が歌手を立てているのが良い。(以降のトラックも多くはアコースティック楽器のみのジャズ的編成ゆえ落ち着いて聴けるのが大変嬉しい。)
 圧巻は4曲目 "Canção de amor" である。2度目のサビの "meu sonho"(2分40秒頃)で不覚ながら涙が出た、ということはなかったが背筋がゾクッとした。細かい(ただしあくまで自然な)ビブラートが絶妙な塩梅で加えられている。また音割れ予防策としてエンジニアがレベルを下げたのか歌手がマイクから離れたのかは不明だが、サビで急に音が少し遠くなるのも妙に効果的である。これや "Nossos momentos" を筆頭に私は当盤中では高音域を使用する長調の曲がとりわけ気に入った。とはいえ、次曲 "Canção de manha feliz" などで聴けるドスの利いた歌い回しも迫力満点である。(この点、後に持ち出すことになるであろう美空ひばりとも共通している。)
 短調曲からもう1つ挙げておこう。10曲目のショーロ "Barracão" は、解説に「エリゼッチを代表する名唱として知られる名曲」とある。最初の一節の直後に盛大な拍手が入るが、これはカルドーゾの日本初公演(←結局は流れた)を控えた1968年2月19日にJoão Caetano劇場で催された送別コンサートでの演奏である。(ちなみに竹村は「ラテン音楽パラダイス」にて、その実況盤2枚組「ジョアン=カエターノ劇場のエリゼッチ=カルドーゾ」を彼女の数多い録音中の最高傑作に挙げている。)曲調はカヴォ・ヴェルデ(大西洋上の島国)のベテラン歌手Cesaria Evora(セザリア・エヴォラ)のアルバム "Miss Perfumado"(邦題「香しき乙女」)の冒頭に収められていた "Sodade"(同「ノスタルジー」)とよく似ており、彼の国の伝統音楽モルナ(Morna、島唄)とショーロが根っこでは繋がっている(同じ祖先としてモジーニャを持っている?)という音楽の進化過程を理解するには格好の教材といえる。それはともかく、エヴォラの方は5分弱ながら最後は飽きてしまったのに対し、当盤は7分を超えるという長大なトラック(しかも伴奏は終始一貫して弦楽器2本のみ)にもかかわらずダレることが全くない。(ちなみにライナーによるとLPでは約4分のみだったが、CD化にあたって冒頭から最後の十数秒の拍手まで完全収録しているとのことである。)ただし、これは歌手の力量差とは関係ない。あちらは同じ旋律を延々と繰り返していたのが災いしていた。当盤では数種の主題が入れ替わりで登場するし、カルドーゾもギター奏者も大胆に抑揚を付けている。のみならず趣向を他にも凝らしている。途中で歌手は観客に一緒に歌うよう依頼しているが、さらに5分20秒からしばらくの間は完全に委ねてしまう。微かに聞こえてくる合唱はなかなかに味わい深い。それが終わった後に男性が大声で "Bravo!" と叫ぶのもたいへん感動的だ。ライナーによれば、それを発したのは伴奏者の1人、かつカルドーゾが世に出る切っ掛けを作った恩人Jacob do Bandolim(ジャコー・ド・バンドリン)である。(15歳だった彼女の歌を聴いて高く評価し、ラジオ局のテストが受けられるよう便宜を図ったらしい。とはいえ、そのエピソードを知らなければ「アホ観客のブラヴォーが興を削いでいるのが残念」などと書いたかもしれない。我ながら勝手なものだ。)ただし私は何度となく歌われる "barracão"(「あばら屋」の意)がグアラニ語の "mbaraka"(ギター)に聞こえてしまうという奇妙な違和感からどうしても逃れられないでいる。(最初の子音が明らかに異なっているし、グアラニ語に巻き舌のr音がないことも承知してはいるのだが・・・・)
 以後はすっ飛ばして採点に入る。ディスク終盤はテンポの速いサンバで固められている。私がさほど好きではないジャンルゆえ印象は落ちる。けれども質は決して低くない。それよりも問題なのが音質だ。古い音源が多く、大部分がモノラルなのはまだ我慢できるとしても、テープの保存が悪いトラックは欠落が耳に付くし、左右に音揺れするため特にヘッドフォンで聴くのは辛い。(だからオビの「・・・・リマスターし、最良の音質で・・・・」云々が「ベストは尽くした」の意味であることは理解できるものの異を唱えたくなる。)結局それだけを減点対象として88点を付ける。(ステレオ録音でノイズも気にならないトラックは4つのみで、残る12曲について1点ずつ引いた。)録音年代(1956〜79年)からすると、良好な音源の比率がもう少し高くてもいいように思われるが、ブラジルではステレオ録音機の普及が相当に遅れていたのだろう。惜しいけれども仕方がない。(この点ではソヴィエト時代に活躍した大指揮者のエフゲニー・ムラヴィンスキーと重なってくる。)

註:下記のディスクを新規入手したことに伴い、これまで本ページに「おまけ」として掲載していた長文を隔離することとした。

A Bossa Eterna de Elizeth e Cyro(エリゼッチ&シロ“ボサ・エテルナ”)
1990
TAKE-OFF(Copacabana) TKF-3802

 1週間前の更新記録に括弧書きで「今月はブラジル音楽特集とする」と記した私だが、実は今日(2007年12月8日)から12日間ブラジルに出張することになっていたのである(ところが土壇場で中止)。目的は未だ知られざるミュージシャンの発掘、ではもちろんなく、ダイズの新たな多収技術開発のための調査研究であった。(あーあ。今この段落を過去形に書き直しているところだが何とも虚しい。だが「転んでもただでは起きない」が私のモットーである。この際だから、手持ちのブラジル音楽CDのレビューを今年中に片付けてしまうとするか。)ちなみに用務先はマットグロッソ(Mato Grosso)の州都クイアバにある連邦大学で、市内を流れるクイアバ河を下っていけばパンタナール(世界遺産に指定された大湿地帯)を経てパラグアイまで出ることも可能。さらに行けばパラグアイ川はパラナ川→ラプラタ川と名前が変わり、最終的にはブエノスアイレスに至る。もちろん許されるはずもなかったが・・・・これで無関係枕は終了。
 竹村淳の推薦盤であるに留まらず、一部ネット上でも評価が高いのを知って聴いてみたくなった。ある日ヤフオクにて2100円の出品を発見。商品情報ページ掲載の画像(帯とケース裏)に記された「3800円(税込定価)」という文字列が目を引いたけれど、既に上で述べた通りこの国内仕様盤はオリジナルのLP("Vol.1" と "Vol.2")分の内容なのだから、このような高価格設定もアリだろう。そう割り切って入札に踏み切り、今回も首尾よく無競争で落札できた。ところが届いてみれば(予想していた2枚組ではなく)全18トラックが(トータルタイム61分ちょっとだから)余裕で1枚に収まってしまっている。となれば、いくらCDの普及途上にあった90年とはいえ高杉開発(関西限定駄洒落)ではないかと文句を付けたくなる。とはいえ、当盤は今や廃盤であり、オフィス・サンビーニャが扱うオビ/解説付輸入盤が入手可能とはいいながら、第1集と第2集がそれぞれ定価2520円(税込)という話だから、まあ良しとしなければならないだろう。なお当盤帯によるとブラジル本国から取り寄せた "Vol.1" のマスターテープの音源に聞き苦しい箇所がある( "Vol.2" は一切問題なし)とのことだったが、さらにブックレット表紙裏には劣化の著しい1曲をやむなくカットしたという断り書きがあった。ついでながら、音質良好のため敢えて前(トラック1〜11)に置かれた "Vol.2" の原盤ジャケットが表紙、そして "Vol.1" のそれが裏表紙に採用されている。
 さて、上述のように「共演者が凡庸だと興が削がれる」という懸念によりデュエットのアルバムを敬遠していた私だが、少し前に聴いたクララ・ヌネスの "ComVida" と同様、当盤でも嫌な予感が的中してしまったと言わざるを得ない。トラック(1、7、11、14&15)が収録された "Pout-pourri "(メドレー)、および6曲目の "Quando penso na bahia" がデュエットであり、残る12トラックはカルドーゾとモンテイロがほぼ交互に登場するという構成になっている。まずはデュエット曲であるが、序奏や間奏での2人のやり取り(会話)が何ともいえず楽しい。そして歌唱中の掛け合いも同様だから気分は和む。だが、超実力者の女性歌手が共演者のレベルに合わせていると聞こえることには困惑させられた。(モンテイロのファンには申し訳ないけれど、私には彼がカルドーゾに匹敵する歌い手であるとはどうしても思われなかった。)それがソロのトラックにまで波及しているように感じられるのだから余計始末が悪い。すなわち、モンテイロの独唱曲はもちろん、カルドーゾの方もアルバム全体のバランスを損なわないようにという配慮から、超絶的歌唱を封印したため彼女としては随分と平凡な出来に終始してしまった。これが私の推察(たぶん邪推)である。結局のところ "Elizethiana" から感じられた気高さが伝わってこないという不満が残った訳であるが、そもそもサンバのアルバムにそういうものを求めてはいけないということかもしれない。もっと言えば私がこのジャンルの聴き手としての適性を全く備えていないということに尽きるのだろう。良さが解らないものを論っても仕方がないので採点は辞退。(ホンマ投げ遣りな奴っちゃなぁ。)
 なお全てのトラックがモノラル、加えて後半(トラック12〜18)収録の "Vol.1" にはヒス&ジリパチノイズ、音割れに歪みに欠落といった様々な音質上の問題を抱えてはいるが、ヘッドフォンで聴きさえしなければ何とか我慢できるだろう。最後にライナー執筆者について。竹村が十中八九書いているだろうと思っていたら大ハズレ。「田中勝則」に何となく見覚えがあったので調べてみたら、驚いたことにFilipa Paisの "A Porta do Mundo" 評ページにて叩きまくった御仁であった。あちらとは打って変わって非常に中身の濃い4ページの解説。(なお、カルドーゾの経歴紹介の中に「まだまだ現役で、コンサートを中心にバリバリに活躍している」という記述があるが、実際には当盤発売年の5月に歌手は満70歳を目前にしながら世を去っている。しかしながら、これは決して責められるような失態ではなく、それほどの急逝だったと解釈すべきだろう。)それ以上に12ページにも及ぶ「曲目について」(一部対訳付き)の充実ぶりが素晴らしく、私としても大変感謝している(と一応フォロー)が、同時に首を傾げざるを得なかった。まさか同姓同名の別人28号ではないだろうから、当盤発売から「世界への扉」(国内盤)リリースまでの約14年間に何か大きな出来事でもあったのかもしれない。ちなみに田中は現在オフィス・サンビーニャの代表(運営統括責任者)の座に就いているらしい。

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