クリスティーナとウーゴ(Cristina y Hugo)
BEST OF CRISTINA Y HUGO(太陽への讃歌〜ベスト・オブ・クリスティーナとウーゴ)
1996
PHILIPS PHCA-4124
既にコンドルカンキの紹介ページに記したようにH氏から借りた当盤(おそらく91年初発のPHCA−3040)によってこのアルゼンチン人デュオの存在を知った。後天的つながりのコンビ(つまり夫婦)であるのみならず(1986年の交通事故によって)2人同時に逝ってしまった点が先日アップしたカーペンターズ(兄妹)とは異なるが、片方のみが残されなかったのは良かったのか悪かったのか? (なお当盤ブックレットでは、1973年2月14日に当時NHKの人気番組だった「世界の音楽」が彼らを紹介し、それが日本でのフォルクローレ人気沸騰の切っ掛けになったと述べられている。それを読むまで私はてっきりブームの火付け役がロス・カルカスだと思い込んでいた。ちなみに下記EMI盤のライナーにも同様の記載がある。)
何はともあれ、コピーしたテープがそれなりに気に入っていたので、郷里に戻ってからCDを買い直した。全20曲で約65分収録だからコスト・パフォーマンスも悪くない。(なお2002年再発のUICY-8034では「コンドルは飛んで行く〜クリスティーナとウーゴ・ベスト・セレクション」というタイトルに改められているものの中身は同じである。)ただし今改めてジックリ聴けば不満が全くない訳ではない。トラック1の "El cóndor pasa"(コンドルは飛んでゆく)に対する印象によって具体的に指摘する。
冒頭は申し分ない。ギターと笛、打楽器によるイントロは味わい深い。それを受けてのクリスティーナの歌唱 "En el imperio Incaico el indio está" も素晴らしい。初めて聴いた時、私は直ちに魅了された。高音部の "sin luz, solo está" では裏声を使っているが、これはまあ緊急避難としてやむを得なかったのだろう。以降も同様だが、ここで問題にしたいのは本来なら器楽のみで奏でられるはずの部分である。1分53秒から女性歌手はクラシックのソプラノのような声でメロディと同じ音を出している。「魔笛」(モーツァルト)の「夜の女王のアリア」などが代表格だが、オペラの用語を持ち出せばコロラトゥーラ(coloratura、技巧的で華やかに装飾された旋律)ということになる。これが私には非常に面白くない。1曲措いた "Himno al sol"(太陽への賛歌)の間奏部など、その後も技巧ひけらかしのように聞こえた箇所は幾度となくあったが、そういうのは本場の歌手に任せておけばいいのだ。アリア集のCDを何枚も持っている私には、超絶技巧の持ち主がゴロゴロしている向こうの土俵に上がったところで関取への昇進(十両入り)も覚束ないと思われて仕方がない。そういえばKさん主催のマドレデウスBBSにこんな書き込みをしたことがある。(あの女性歌手はやはり別格である。)
テレーザの歌でいつも感心するのは、どんなに高い音でも裏声で逃げない
こと。フォルクローレの女性歌手にも美声で上手い人がいますが、最高音
でソプラノ歌手のような歌い方に変わってしまいます。解説で「オペラ唱
法も取り入れて」といった褒め言葉が使われても僕は評価できません。低
音から高音まで同じ声で歌うことは確かに難しいけれども、そうしてこそ
聴いていても不自然さがなく、感動もより大きくなるからです。
ということで、実は上の投稿で槍玉に挙げたのが他ならぬクリスティーナなのだが、ここから思い切って脱線する。
少し前から「○○かわいい」という訳の解らん形容詞が若者の間で使われているらしい。(差別的表現に該当するかもしれないので伏せ字にする。)そういえば、「○○の瞳に恋してる」というドラマも結構ヒットしたようだ。以前は見向きもされなかった「○○」が、条件次第では持てはやされる時代になったということであろう。少し前の朝日新聞にこの問題についての特集記事が掲載されたが、そこではこんな見解が提出されていた。平均的な顔立ちが「美人」、顔の一部分だけが際立っているのが「○○」である。ゆえに「美人」はどれも似通っているのに対し、「○○」はまさに十人十色、千差万別ということになる。(ここでお笑い芸人を持ち出してみると、村○○子や山○○子などは私の目には全然「○○」とは映らない。上とは別のドラマに出演していた大○○幸も巷に言われているほどではないと思った。また、昨年あたりから人気が出てきた2人組に関する「○○の時代の到来告げる女芸人ハリセンボンの大ブレイク」という記事が週刊新潮に載ったようだが、少なくとも「死神」、つまりアンガールズの山根っぽい方は私的には全く該当しない。やはり南米滞在中に感覚が破壊されてしまったのだろうか? とはいえ光○○子のように嫌悪感を抑えられないタレントがいるのも事実である。あのヒステリックな声と話し方には反射的に虫酸が走るから、少なくとも顔の表面構造だけで説明が付かないのは確かなようだ。)
こんな話題をなぜ振ったかといえば、声も少しばかり事情が似ていると考えているからである。オペラ歌手、特にソプラノの高い声を聞き分けることはなかなか容易ではない。(マリア・カラスやエリーザベト・シュヴァルツコップなどよほど傑出していれば別だが・・・・それ以前にカラスは美声というより悪声に近いという意見はしょっちゅう耳にする。)そして、最高音に達しても決して破綻することがないのはもちろん、美しいには美しいのだが、みんな同じに聞こえてしまうのは何としても物足りない。(それゆえ先述の2人以外では、美声系の最高峰としてミレッラ・フレーニのディスクだけあれば十分と考えているほどだ。あと線は細いけれども可憐なキャスリーン・バトルは持っていても悪くない。)一方、しゃがれ声やだみ声は特定が比較的容易である。
そんな訳で(全然まとめになっていないような気もするが)、私だって美声はもちろん嫌いではないけれど、没個性的な声にはまるで魅力を感じない。むしろ多少難があっても明確な個性が感じられる方を圧倒的に好む。(アナ・ガブリエルはその典型だ。)だから、「クリスティーナは何が嬉しくてあんな歌い方に走りたがるのだろう?」と理解に苦しむのだ。それどころか「自ら進んでフォルクローレ界の第一人者から凡庸なオペラ歌手に身を落とすこともなかろうに」とまで言いたくなる。イタリア人歌手のページで詳しく書くつもりだが、もし彼女が地声の美しさというものをちゃんと理解していれば、このジャンル独特の唱法を極めることによって非凡なる才能を完全に開花させることができたのではないかと惜しまれてならない。
もう一つの難点はライヴ収録によるトラック10 "Condorkanki"(コンドルカンキ)である。(同じような雰囲気の漂う2曲目 "El humahuaqueño" (花祭り) の間奏で女性歌手が "Motto, motto" と観客を煽っているから来日公演かもしれない。)客席の盛り上がりは大変なもので、それは別に構わない。が、ギターやボンゴ(?)のリズムが慌ただしすぎて歌に浸る余裕を全く与えてくれない。ピアノやドラムスも興を削ぐことにしか貢献していない。(出だしのドラ息子による「ダカダカダカダカ・・・・」の下降音型を聴いただけで萎える。)だから何度聴いても曲の良さを台無しにしている「駄演」としか思えない。まあ凡庸な演奏を耳にして曲自体をも「つまらない」と認識してしまう(逆に名演によって「こんなに素晴らしい曲だったのか!」と開眼する)ことはクラシックでは日常茶飯事なのだが・・・・
しかしながら、当盤の多くは少し低い声域による地声主体の歌唱、およびギターや笛などによる落ち着いた伴奏によるトラックが占めており、それらの水準は極めて高い。要するに欠点ばかりを論ってきたようでいて、実際には「重箱の隅」ということである。夫ウーゴにしても決して並外れた美声や歌唱力の持ち主ではないが、実直なソロには好感が持てる。重唱におけるバランスも呼吸もピッタリである。したがって、少なからず耳&気に触ったトラックから程度に応じて減点し、平均を出してみたら92点(91.5の小数部を切り上げ)になった。
BEST NOW/クリスティーナとウーゴ
1991
EMI TOCP-9114
75種が同時発売された上記シリーズの1枚で、上記PHILIPS盤と同じくベスト集である。名古屋の中古屋巡りをしていた時に偶然見つけたが、先述のコピーテープとは重複曲がほとんどなかったのでレジに持って行った。音質劣化の心配のない媒体で所有していたかったということもある。とにかく彼らのディスクとして最初に買った品である。
各種通販サイトで検索したところ、初発は1987年のCP32-5415らしい。その4年後に同内容の当盤がリリースされたものの、それ以降は再発された形跡が見当たらない。契約の問題によりCD発売の権利を失ったのかもしれない。何にしてもPHILIPS盤に録音年が記載されていないため断言はできないが、そして芸風にも大きな違いは認められないけれども、1976年発表のアルバム「禁じられた遊び」およびデビューアルバム(1969年?)からピックアップされた10曲ずつを前半と後半に配した当盤の方が年代的に前であると考えても差し支えないだろう。
弦楽を採用していることもあり伴奏には気品が感じられるし、ここでも女性歌手が間奏部で裏声を張り上げているのが気にはなるものの、まだ二流オペラ歌手的唱法は控え目だから私の好みに断然近いといえる。当盤にも"Condorkanki" がトラック2に収められており、例によって「ジャンジャカジャンジャカジャン・・・・」のリズムこそ耳に付くが、ギターが担当しているため打楽器ほど喧しくないのがありがたい(最終トラックのメドレー "Selección de carnavalitos" で歌われる "El humahuaqueño" も同様)。これならば私も名曲&名唱と認定するに吝かではない。少し飛ばして10曲目の "Quiero" には「禁じられた遊び」の邦題が付いている。たぶん他ページでも触れているはずだが、要は映画「禁じられた遊び」で使われた作曲者不明の伝承曲である。私は加湿器、いや歌詞付きヴァージョンをNHK教育テレビのスペイン語会話の初めて耳にした(山崎真次&Merche Sánchez時代、つまりパラグアイからの帰国直後だったはず)。「今月の歌」コーナーでの紹介だったから少なくとも4回聴いたと思うが、その内にすっかり気に入ってしまった。そこで、それを歌っていたフリオ・イグレシアスのが欲しくなったのだが、私が後に購入した数点にはあいにく入っていなかった。しかしながら、当盤でクリスティーナの落ち着いた歌唱を聴いたらこれで十分という気になった。(余談ながら、同じくスペイン語の詞を付けたものとしては、ロドリーゴ作曲による超有名ギター協奏曲の第2楽章も「恋のアランフェス」などの邦題で数多く出回っているようだが、私的にはことごとくペケである。スローな音楽に歯切れの良い西語歌詞がうまく乗らないのが原因だろうか? これまで最も出来が良いと聞こえたのはアマリア・ロドリゲスによる仏語版である。)
ということで、先述したように音楽の質自体はPHILIPS盤よりも圧倒的に上回っているのだが、当盤に収録されているのは地味な、もっと言ってしまえばパッとしない曲が多く、その分印象は落ちる。(クリスティーナが希有な実力の持ち主ゆえ華やかな曲をもう少し混ぜても良かったのではないかという気もするが、当盤ではウーゴの登場する比率が結構高いから、そちらに合わせたのかもしれない。)実のところ、曲目一覧には眺めているだけで陰鬱な気分になるようなタイトルが片手の指の数ほど混じっている。そこで相殺ということにして同じ点を付けておこう(92点)。とはいえ、これらアルバム2枚の持ち味が少なからず異なっているだけに、どちらか一方だけあればそれで良しということには決してならない。共にCDラックの取り出しやすい位置に収めて今後も愛聴することになるだろう。
最後に余談。通販サイトのコメント中に「グラシェラ・スサーナの実姉と知れば親しみが一段と湧く」という一文を見つけた。その名は耳にしたことがあるし、少々気になったのでアマゾンにて試聴してみた。が、あまりにも大仰な歌い方に辟易しただけ。とても親しみが湧くどころではない。
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