私は某巨大掲示板サイト(←伏せるまでもないか?)のクラシック関係の掲示板(いわゆる「クラ板」)をよく訪れる。有益な情報、例えば表のメディアでは扱えない海賊盤の情報などが入手できるのでとても重宝している。また、新譜に対する評価は、御用評論家や八方美人評論家連中が書いたと思われるものよりよっぽど信頼できると考えている。(ただし、真偽は定かではないが、輸入盤販売店の店員が書き込んでいるという噂もあるにはある。)クラ板には「作曲家1人につき1スレッド」のルールを無視して常に複数のブルックナー関係のスレッドが立てられ、その度に荒れる。(今も乱立している。)
ところで、それらスレッドの中でよく使われる単語に「ブルヲタ」がある。言うまでもなく「ブル」はブルックナー、「ヲタ」はオタクの略である。(なぜ「オタ」でなく「ヲタ」なのかは知らない。)「ブルヲタ」は「クラヲタ」(クラシック・オタク)の中でも最悪の部類に属する人種であるため、世間はもとより「クラ板」内でも何かと目の敵にされているという話である。いつぞやは、「ブルヲタ」は単なる「ブルックナー・ファン」とは違うというテーマで激論が交わされていた。私にはよくわからないが、どうやら「ブルックナー・マニア」とも違うらしい。「ファンとマニアとオタク」の違いが真剣に論じられていて興味深かった。そこでは「ブルヲタ」の定義だったか条件というのがいくつか紹介され、最後にはこんなのが挙げられていた。「自分だけはブルヲタではないと思っている。」(註)
ならばアッサリと認めてしまうことにする。「はい、わたくしはブルヲタですよ」と。
註:お気づきであろうが、上の定義は自己矛盾を抱えている。 例えば「自分の占いは当たらない」と出てしまった占い師、 あるいは「死刑囚が最後に言ったことが本当なら打ち首、嘘なら縛り首」という状況での「私は縛り首になるだろう」という発言と同じく。これはズルイのであって、どっちにしても「ブルヲタ」にされてしまうのであるが、まあ良しとしよう。
2005年12月追記
先日、某掲示板の「ブルックナー総合スレッド」が第3楽章(パート3)に入ったが、程なく書き込まれた「ブラインドテストでわかるブル度」は以下の通りである。(前スレ終盤に作成されたらしいが私は見ていなかった。)
(初心者)放送で流れてきた音楽がブルックナーの作品であると知った。
(入門者)自発的に、ブルックナーのCDを買った、あるいはコンサートへ行った。
(ブル好き)全部の交響曲を聴いて、自分がどれが特に好きかを答えられる。
(ブルファン初級)どの交響曲の何楽章かが答えられる。
(ブルファン中級)ある程度稿の違いを聴き分けられる。
(ブルファン上級)全交響曲だけでなく、管弦楽曲・室内楽・全ミサ曲・合唱曲
などにも親しむことが出来る。
(ブルファン特級)普段演奏される作品のスコアはほとんど持っている。
(ブルマニア)ブルックナーのCDを500枚以上持っている。
(ブルヲタ)全交響曲の版・稿について詳しく説明できる。
(ブル魔人)ブルックナーのCDを全て集めた。
(ブル神)ブルックナーの楽譜の出版物を全て集めた。
これに対し作成者自身も賛否両論あることを認め、「マニア以上は演奏・出版に携わっているべきである」という方向で考え直したという修正案を提出したがとても付いていけん。(よって割愛する。)そもそも上の原案にしたところで、「マニア」の条件こそ私は辛うじてクリアしている(2枚に分かれている一部の音源を律儀にカウントすれば既に超えているし、「500種類」と解釈しても遅かれ早かれ到達するのは間違いない)ものの、「ファン特級」となると全然ダメである(初心者〜上級まではOK)。楽譜のほとんど読めない私にとって「スコア」(総譜)というハードルはあまりにも高すぎる。当然ながら1種類とて所持していない。さらに、「プロを含めるか含めないか」「演奏会に足を運ぶ回数も考慮すべき」など議論は盛り上がったけれども私は完全に蚊帳の外である。(演奏活動に関わるのは絶対不可能である。また、地元の彦根や長浜でブルックナーのコンサートが開催されることはまずありえないだろうから、スーパー出不精の私は下手をすると一度も生演奏を聴くことなく生涯を閉じることにもなりかねない。)「せめて、クラ板一般で言われる「ブルヲタ」には手が届くくらいの難易度にして欲しいなあw」というレスは私の気持ちを代弁している。思うに、音楽のプロと素人に同じ物差しを適用するというのはいくら何でも無理がある。現に囲碁や将棋の世界では段および級位の基準がプロとアマでは全く違う。(将棋のプロ養成機関である奨励会は通常6級からスタートするが、入会試験に合格するには最低でもアマの4〜5段の実力が必要である。)ゆえに、ブルヲタか否かの判定についても2通りの線引きが必要ではないかと思う。あるいは各階級の基準をいくつか設定し、それらの内どれか1つでも満たせば良し(要件を and でなく or にする)という方式を採用してもらえるとありがたい。頂上に登り詰めるためのルートは複数あって然るべきだ。結構強引だな。ま、他人に認定してもらうような資格の類ではないから別にどーでもいいんだけど。(もうすぐ取りかかる予定だが、要は「ブルックナー・ファン」同様に「名乗ったモン勝ち」だと思う。これにて追記終わり。)
それにしても、日本人はなにゆえにブルックナーが好きなのだろう。前世紀末には朝比奈、チェリビダッケ、ヴァントといった長老指揮者の振るブルックナーが(ファン層は必ずしも一致しなかったが)熱狂的な支持を受け、彼らは「巨匠」と呼ばれた。また、来日こそしなかったが、アイヒホルンやティントナーのような高齢指揮者のディスクは高く評価されていた。彼らが相次いで世を去ったいま、新たな「巨匠」の登場が待たれている。 (その候補の1人として真っ先にミスターSことスクロヴァチェフスキが挙げられるのだろうが、彼がむしろブルックナー以外の作品で真価を発揮しているように思っているのは私だけだろうか?) というより、いまや「ブルックナー指揮者に非ずは巨匠に非ず」といった風潮すらある。(このような文章なら私のよりもはるかに優れたものが巷に溢れている、と考えたら続けるのがイヤになってきたのでもう止める。)
さて、ブルックナーは敬虔なカトリック教徒だったということだが、私は最後の第9番を除いて、彼の交響曲を聴いていても創造者あるいは絶対者(つまりキリスト教でいう父なる神)の存在をあまり感じない。ところで、宇野功芳は「クラシックの名曲・名盤」でこんなことを書いていた。
ブルックナーの交響曲には人間的なドラマとか、いわゆる心の葛藤などが
まるでなく、大自然そのもの、大宇宙そのものだからだ。
乱暴な言い方だが、ことによるとブルックナーの作品は音楽ではないのかも
知れない。芸術でもないのかも知れない。
乱暴な言い方だが、私はこの評論家はハッキリ言って好きではない。が、このような非常にいいことを書くことが少なくないのも事実である。繰り返しになるが、ブルックナーの音楽から感じられるのは「たったひとりの神様」よりは、むしろ「万物のなかにあまねく存在するカミ」に近い(註1)。つまり、(縄文時代から現在まで変わることなく)日本人の精神の拠り所であり続けているアニミズム=自然崇拝(註2)と何か通ずるものがあるということではないだろうか。私たちがブルックナーに共感を覚える理由はきっとそこにあるのだ、と私はこんな風に考えているのである。
註1:これにはたぶん異論があろう。冒頭で触れた掲示板サイトでも「ブルックナーは一神教的自然観、シベリウスは汎神論的自然観ってイメージがするんだよね。これが似てるけど決定的な違いかなって気がする。」という書き込みを見たことがある。
註2:この辺は小林秀雄や梅原猛、亀井勝一郎などの著作に詳しい。私は詳しくない。
さてさて、その是非は措くとしても、この国にはブルックナーのウェブサイト(ファンサイト)が非常に多い。他の作曲家と比較しても際立っているように思う。(生誕地ドイツと比べてもいい勝負をしているのではないか? 悪くとも世界第2位ではないかと私は考えているのだが。もし調べた人がここを見ていたら教えてほしい。)まず質量ともに圧倒的な総合サイト1つ、録音専門の大サイト1つについては、私はかなり前から存在を知っていた。(ただし、老舗ともいうべき前者は最近バッタリと更新が途絶え、後者も朝比奈の死後は表紙だけになってしまった。)他にも専門サイト、あるいは独立したブルックナーのコーナーを設けているサイトが多数あり、中身も充実している。さらには初期交響曲(00番、0番、1番、2番)、5番(←どこ行った?)、6番、7番、8番、9番に特化したサイトまである。このような状況の中で、私が新たにブルックナーのサイトを立ち上げる意義は一体どこにあるのだろうか?
ハッキリ言って、ない。
そうなのである。これは私の、私による、私のためのサイトなのだ。日記のようなものだと考えていただいても構わない。であるから、リンクを貼ってもらうなどして世間に存在を知らしめようとは夢にも思っていない。(ごく一部のネット知人には感想を求めることになるかもしれないが・・・・)
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