マイーザ(Maysa)

Para Sempre(永遠のマイーザ)
1988(LP発売は1971)
RGE/Alpha Enterprise RGE-7

 「マイーザという歌手を聴いていると他の歌手はいったい何だろうという気持ちになってくる」「『魔性の女』という言葉は、まさに彼女のためにある言葉なのかもしれません」といった尋常ならざる記述がネット上に出ている。アル中とヤク中のため僅か37年という生涯を閉じたエリス・レジーナより多少はマシかもしれないが、同様の破滅型人生を送った歌手である。あるサイトの紹介ページや当盤解説によれば、18歳の時にカレッジを中退し(世界の十指にも入るという)大富豪の御曹司と結婚したものの、やがて(音楽活動を夫が快く思わなかったため)破局を迎えて酒浸りとなり、40歳時に自身の飲酒運転による事故で逝ってしまったとのこと。(クスリには手を出さなかったので3年長く生きられたのかもしれん。)ブックレット表紙の顔写真に死相が漂っているのはセレーナ(自身のマネージャに裏切られ、遂には射殺されてしまった悲運のメキシコ系米合衆国人女性シンガー)と同じだが、何を隠そう、東京出張時に立ち寄った渋谷のレコファンで手に取った際、カゴに入れる気にさせられたのはそのためである。
 ところで、「サウダージ」(Saudade)はブラジル音楽を論ずる際に必ずといっていいほど持ち出される単語であるが、(仏語の「エスプリ」などと同じく)他言語には翻訳不可能な単語らしい。一応「郷愁」や「望郷」といった訳語が充てられているけれども、そんな生易しい言葉では到底表せないほど強烈な故郷への回帰意識を表しているという話だ。竹村淳の「ラテン音楽パラダイス」では「サウダージ感覚」として「無理矢理アフリカからブラジルに連行されたアフリカ人が、心のなかでは至近の距離にありながら物理的な距離でははるか遠くの家族、恋人、仲間、故郷などを思う情感であり、それは胸が張り裂けんばかりの激情であり、ふつうは涙を誘う」と解説されている。植民地時代に拉致&連行された挙げ句、苛酷な労働を強いられてきた奴隷達の恨み哀しみが込められているのであれば、それも当然だろう。ポルトガルの「サウダーデ」よりも激しい感情であるとの記述を何かのサイトで目にした記憶もある。(ちなみにポルトガル人ピアニストのマリア・ジョアン・ピリシュは、インタビューにて「サウダーディ」のことを「今ここにはない何か (人とか時間とか) を強く思い、それを抱きしめるような気持ちをいうのだ」と説明していたらしい。)
 しかしながら、実際にはポルトガル音楽ほどの強烈な情念の発露は感じられないのである。時に怨念めいたものすら漂ってくる「ドロドロ音楽」のファドと比較すれば、サンバにしてもボサノヴァにしても明らかにアッサリ系であり、「サラサラ」という擬態語すら持ち出したくなる。(最近テレビの健康番組で目にすることが多いスリットを通る赤血球の映像からの連想である。ドミンゴとパヴァロッティによる同一アリアの聴き比べにも喩えられるだろう。)あちらを「ウェット」とすれば、もちろん「ドライ」となる。先に採り上げた小野リサなど、その典型といえる。だから夏に合うのである。(ただしドライ系のビールや発泡酒の類はなるべく遠慮したいところだが、って話を逸らすな!)とはいえ、「陰性」「湿性」 vs 「陽性」「乾性」といった対照的イメージを抱いてしまうのは決して私だけではないはずと想像する。(もっとも悲痛な感情であってもカラッと陽気に歌い上げるところにこそブラジル音楽の「本質」があるのかもしれないが・・・・)
 その中で、このマイーザは湿気をタップリ帯びた数少ない歌い手の一人だ。そういえば、かつてネット知人だった首都圏在住Sさんはレジーナについて「低気圧のような声」と評されていたが、その形容はマイーザの方が似合うという気もする。小野選抜によるオールスターCDの中でも彼女はナラ・レオンと並んで異彩を放っていた。Vol.2にはライヴ盤 "Maysa" 収録の "Dindi" と "Bom dia tristeza" が採用されている。そのディスク評をあるブログで見つけたが、後者を聴いてノックアウトされたというコメントが閲覧者から寄せられていた。それにも納得の大熱唱である。また前者も既に当サイトで触れたA・ジルベルトらによる英語ヴァージョンがいかに無価値であるかを教えてくれるに十分な大名唱といえる。繰り返しになるが、マイーザはブラジル人歌手としては珍しく、それも飛び切りのドロドロ系である。それゆえロドリゲスと並んで採り上げたくなったのだ。(どことなく声質や崩し方も似ているような気がする。)
 さて、このベストアルバムにはマイーザがRGEレーベルに残した録音から選ばれた22曲がほぼ年代順に収められている。先述ようにアルコール依存症に陥った彼女は急激に太り始めた(ピーク時には100kgを超えていた)らしいが、それとともにヴォーカルには深刻味を帯びるようになったそうである。さすがに晩年(とはいえ40歳前だが)には声が無惨に衰え、歌いぶりも荒れていたと解説にあるが(註1)、それらは幸か不幸か(註2)当盤には入っていない。(註1:竹村も「晩年の歌唱は痛々しくて聴きたくない」と自著に記している。註2:ただし「それがいい」というファンも一部にいるらしい。)
 何にしても歌手の経年変化も当盤の聴きどころの一つとなるはずだが、実際にはどのトラックからも強烈に伝わってくる「マイーザ節」によって些細な違いが覆い隠されてしまった。やはり圧巻というべきは上述の "Bom dia Tristeza"(トラック11)および "Dindi" (同18)で、上述のライヴとは別音源(スタジオ収録)ながら凄味は些かも減じていない。特に後者は他のミュージシャン(小野リサやQuarteto em Cyなど)で聴くと本来もう少しサラッとしているべきではないかという気もしなくはないのだが、当盤の超重量級の歌唱(やはり体格を反映?)には有無を言わせぬ説得力がある。また、これは全ての収録曲にいえることだが、重々しくはあっても決して鈍くないのが素晴らしい。身が切り刻まれるような熱唱を冷静に聴くことは極めて困難である。これで音質さえ良ければ90点代後半は優に確保できていた。(最初期から中期の音源ゆえ全てがモノラルもしくはそれに類する分離の悪い録音で占められているのが惜しい。加えてノイズや揺れにも不足はなく、ヘッドフォンでの試聴は結構辛いものがある。)1曲1点ずつ引くのは忍びないから少しオマケして80点とする。

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