O Paraíso(風薫る彼方へ)
1997
EMI 7243 8 23102 2 8 (TOCP-50326)

 かつて私はKさん主催のBBSで "O Espírito da Paz" を「天上の音楽」、当盤 "O Paraíso" を「地上の音楽」と評したはずだ。けれども、最近の私はそう単純に割り切ってしまうのは誤りではないかと考えている。ここで、またしても「4つの最後の歌」に話を飛ばしてしまう。
 あの歌曲集の第1曲「春」はまだ「地上の音楽」である。(ただし、歌が入るところで思わず寒気を覚えてしまう。)ところが第2曲「九月」のフワフワした感じの序奏(ここで2度目の寒気)は「心もはやこの世にあらず」といった風である。後半2曲はさらにその傾向が強まる。第3曲「眠りに就こうとして」は、第1節の終わりでメロディがまだ続いているのに歌詞が "Wie ein müdes Kind empfangen" でブツッと切れてしまうところが凄い。3度目の「ゾクッ」である。直後の間奏におけるヴァイオリン独奏を聴いていると、こちらの魂まで持って行かれそうで非常に危ない。終曲「夕映えの中で」に入ると、もはや背筋ゾクゾクのしっ放し。それにしても、歌詞(この曲のみヘッセではなくアイヒェンドルフの詩を採用)の最終行 "Ist dies etwa der Tod?" の "der Tod?"(死)で解決音を使わなかったのはもちろん作曲者の狙いであるが、何度聴いても不気味である。彼の魂は出ていったまま結局戻って来なかった。「こういうのを書いてしまったら、そら長いことないわな」と思わざるを得ない。ブルックナーの第9交響曲と同じく、見てはならない世界を覗き込んでしまったのだから。(実際には1年と少し生き存えたようだが。)
 ここで本題のマドレデウスに戻すと、あの "Concertino" にしても最初から「天上の音楽」という訳ではない。実際には "Destino" & "Silêncio" コンプレックス(複合体)のみである。以降の曲も"guerra"(戦争)はもちろん地上を題材とした曲は少なくない。むしろ、天上への憧れや、そこに辿り着こうとする修行者の孤独、あるいは修行の厳しさといったものを感じるようになっている。(ちなみに私は歌詞のことは一切考慮せずにこれを書いている。たぶん他の多くのアルバムも同様となるだろう。)一方、 "O Paraíso" だって決して地上一辺倒ではない。この辺りを確か「地上の音楽ながら天上とのつながりは保たれている」などと書いていたのではなかったか。が、それは措いといて、ここでは改めて両盤の音楽性を比較し、思うままに書いてみよう。
 当盤は "O Espírito..." の次に聴いた2枚目のアルバムだが、既に述べたようにディスク冒頭に置かれた "Haja o que houver" の出だしから雰囲気のあまりの変わりように仰天してしまった。Kさんのサイトに詳しいが、両盤の器楽編成には少なからぬ違いがある。前者で参加していたアコーディオンとチェロの奏者が抜け、後者にはアコースティック・ベースが加わっている(ついでながら、キーボードも結成当初のメンバーの脱退により交代)。その結果、音楽の重心がかなり上になったという印象を受ける。チェロといえばバロック音楽では通奏低音にも用いられた楽器である。それが抜けたのだから響きが軽くなって当然だ。"O Espírito..." と当盤の印象は、それこそバッハとモーツァルトほどにも違う。(もちろん音楽の充実度となれば話は全く別である。なお、この後に入手した以前のアルバム複数と聴き比べることにより、当盤では楽器のリズムを前面に押し出すような曲がすっかり影を潜め、代わってメロディの流れを重視するようになっていることに気が付いた。)それにとどまらず、サルゲイロの歌唱も明らかに変貌している。編成の変更に対応してのことか、あるいは経年変化なのかは判らない(ヴォーカルと楽器のどっちが先なのかは「ニワトリと卵」問題と一緒?)が、いずれにしてもA・Uranga(Mocedadesの初代ヴォーカル)のような劣化とはまるで異なる。格調の高さはそのままで、質が少しばかり "O Espírito..." とは違っているというだけのことだ。上手くは言えないが、とりあえず「終始あたたかさを感じる」としておけば概ね同意してもらえるだろう。
 ここで「またかよ」という声(←誰の?)を無視して、再び「4つの最後の歌」に脱線する。この曲にはシュヴァルツコップ盤と人気を二分する名盤がある。ヤノヴィッツ盤(カラヤン&ベルリン・フィル伴奏)である。(ちなみに、このディスクは歌曲集(1948)を最後に収めているのが何といっても良い。ただし現在入手可能な「オリジナルス」シリーズでは「メタモルフォーゼン(変容)」 (1944〜45) とともにカップリングされた「死と変容」(1888〜89) がマイナス。かつて出回っていた「ガレリア」シリーズでは、代わりにオーボエ協奏曲 (1944〜45) が入っており、最晩年の作品で固めているため統一性という点で抜群だったのだが・・・・2度ばかり中古を見かけたのだが見送ってしまった。)既にクラシックのページ(ブルックナー9番ショルティ盤評)で紹介したが、宇野功芳が褒めていたディスクである。(彼が嫌っているカラヤンの指揮については「無上にすばらしい」だけだが、)歌手について「人間ばなれのした美声によって、シュトラウスが描いた純粋な旋律美を器楽のようにうたっている」「洗練された一色の声でフレーズを大らかに呼吸させれば『四つの最後の歌』は最高に息づくのだ」と手放しに賞賛している。また、海老忠も「クラシックの聴き方が変わる本」でヤノヴィッツ&チェリビダッケによる同曲海賊盤について「指示に完璧に従い、ほとんど器楽的と言ってよい優れた歌唱を聴かせる」とコメントしていた。どちらの評論家も「器楽的な声」という評価が共通している(そして、それは全く正しい)が、 "O Espírito..." でのサルゲイロの歌唱もまさにそれである。これに対して当盤における「あたたかい」声はシュヴァルツコップのそれと対応するのではないか。私はそのように考えているのである。ここで改段落し、今度は水に喩えてみる。
 ヤノヴィッツや "O Espírito..." でのサルゲイロの声は純粋そのもの、いや違った、純水そのものである。それも蒸留水製造器で得られるものではない。微量分析に使う超純水である。一方、シュヴァルツコップや "O Paraíso" の彼女には僅かながら混じり気を感じる。「つまり質が落ちると言いたいのか」と早とちりしてはいけない。水に炭(木炭や竹炭)を入れると味が良くなる。溶け出したミネラル(カリウムやマグネシウムなど)を舌が美味しいと感じるからだが、それだけではない。それらカチオン(陽イオン)によって水のクラスター(分子集団)が小さくなることも原因であると考えられている。(液体の場合、水分子は単独で存在することは稀で、多くは水素結合、つまり酸素原子のマイナスと水素原子のプラスが引き付け合うことによって大きなクラスターを作っている。超音波を当てることでクラスターを小さくすることができるが、先述した炭由来のミネラル、あるいは木酢液や竹酢液(炭焼き時に煙から得られる副産物)を加えても同様の効果が表れる。)水だけでなく酒も同じらしいが、クラスター構造が細かいと口当たりがまろやかになるのである。長々脱線で恐縮だが、夾雑物も「ええ塩梅」の混じり具合ならば純度100%よりも優れた性質を示すということが言いたかったのである。
 「で、その『性質』というのは何じゃい?」と訊かれても抽象的な答えしかできなくて申し訳ないが、結局は既に何度か述べた「あたたかさ」、あるいは「人間らしさ」ということになるだろうか。サルゲイロの場合、とにかく厳しさが際立ち、時に岩のような硬さも感じることがあった "O Espírito..." での歌唱に対し、"O Paraíso" は流動性に優れており、まさに自由自在という印象だ。(しつこいようだが、クラスターが小さいことは流動性にも貢献する。)それだけが原因とは言い切れないものの、「表現の豊かさ」という点で当盤が上回っているのは確かである。ただし、終始余裕が感じられるのは事実ながら "O Espírito..." より高音域の使用を控え目にしているため、それが技術的進歩によってもたらされたのかは判らない。(最後のトラック14に収められている "O paraíso" でのE=イ短調での「ミ」が最高音と思われる。これはおそらく "O Espírito..." と同じではあるものの、当盤では意図して弱音を出しているようでもある。)また、「円熟の境地」という褒め言葉を持ち出すのもまだ早い、というより失礼という気がする。(一方、シュヴァルツコップの歌唱は「艶めかしさ」までもが感じられた。それがまさしくシュヴァルツコップの持ち味でもあるのだが、宇野功芳はまるで気に入らなかったようで、「クラシックの名曲・名盤」の「4つの最後の歌」の項では「詩を語りすぎ、音楽を平凡でこざかしい人間世界のもの、歌手の技巧のためのもの、現実的な低いものにしてしまっている」と酷評していた。あの名唱を認めようとしなかった、いや理解できなかったことは、宇野の偏狭さに留まらず、批評の相当部分を自身の好き嫌いに依存していた彼の評論家としての限界を端的に示しているといえよう。脱線ついでだが、シュヴァルツコップの声にはミネラルに留まらず有機物もほんの僅かながら含まれ、それが絶妙な味わいを醸し出しているような感じだ。実は「無機的な声」と「有機的な声」という対比でもうまくいくという予感はあったのだが、そういった言い回しをあまりにも安易に用いている評論家連中 ─もちろん宇野も含まれる─ をクラシック関係のページで散々批判してきた手前、自粛することにした。)
 閑話休題。先に「人間らしさ」と書いたけれど、実際には天上志向の "O Espírito..." よりも当盤の方が天国に近いのかもしれない。今度は宗教を持ち出してみる。浄土真宗の重要な教義の1つに「往還廻向」(おうげんえこう)がある。親鸞が主著「教行信証」で述べているが、廻向(自分自身の積み重ねた善根功徳を相手にふりむけて与えること)には「往相」と「還相」という二種があるというのである。(ちなみに我が家で毎日唱えている「正信偈」には「往還廻向由他力」という一節がある。)ここで前者は「われわれが浄土に生まれ行くすがた」「浄土に生まれて仏に成ったひとが、いろいろ姿を変えて、迷えるものを教化しすくうすがた」を指す。(往相廻向も還相廻向も阿弥陀仏の本願力=阿弥陀仏によって廻向された他力によるものであるとして、自分の力をたのんで善行功徳を行じる自力を排したのが親鸞の新しい教え、すなわち他力本願である。以上、ja.wikipedia.org他を参照した。)勘の鋭い方ならここで私が何を言おうとしているのか既にお察しだと想像するが、いったん孤高の境地に立ったマドレデウスが当盤では現世へ歩み寄ろうとしているような感じがしたのである。それゆえ "O Espírito..." が「往相」、"O Paraíso" は「還相」ではないかと考えたのだ。そうなると前者こそが「地上の音楽」、後者こそが「天上の音楽」ということになる。(ありゃま。)従来の私の認識とは全く逆になってしまった。(やれやれ。)疲れがドッと出たのでもう止めるが、先に書いたように響きがやや軽量化したのだから、この方が感じ方としては自然なのかもしれない。何にしても「慈愛に満ち溢れた音楽」という形容がこれ以上ピッタリ来るディスクを私は他に知らない。トータル約70分という長時間録音も嬉しい限りだ。
 ここで終わってしまってはあんまりなので、個々の曲についても少しだけ触れることにする。アルバム冒頭の "Haja o que houver" のメロディは冷静に考えたら「ドードードードー、ドーレードードー、ドードードードー、ドーレーレーミー(以下略)」とシンプルそのものであるが、それでいてここまで滋味溢れる音楽に仕立て上げているのはさすがだ。私が最も気に入ったのは5曲目の "Claridade" である。ただし、これを旧編成で聴きたかったという思いはある。("O Espírito..." に入っていてもおかしくない。)他の多くは優しさを感じる長調の曲、または軽快な曲のため新編成との相性もバッチリである。そういえば7曲目 "O fim da estrada" は、 "Amanhã" の連呼が "Os Dias da MadreDeus" の同名による終曲(トラック15)を彷彿させるが、これは考えすぎかもしれない。遅まきながら「出だしゆっくり→途中から軽快」といったテンポ変更の多用も当盤の特徴であると気が付いた。ラストのタイトル曲 "O paraíso" の締め括り方がどことなくモヤモヤっとしているのも連続ドラマの「つづく」みたいで面白いと思う。
 さて、いよいよお待ちかね(←自分で言うな)の総合評価と採点だが、表現に幅が出ているのは先述した通りだし安定感も抜群である。解説にも特に気に触るような記述はなし。(執筆したのは中安亜都子という聞き慣れぬライターだが、解説者に恵まれないマドレデウスのアルバムとしては及第点を付けてもいいと思う。後の作品もこの人に頼めば良かったのに。→追記:ただし中安によるメンバー名のカタカナ表記には非常に問題がある。Kさんが最近立ち上げられたページにて指摘されているが、 "Trindade"→「トリニダーデ」、"Ribeiro"→「リビエロ」、"Júdice"→「ユーディス」はどれも言語道断級である。学習したことのない言語を勝手読みするなど決して許されるものではない。これはプロ意識以前の問題=一般常識だと私は思う。"Magalhães"→「マガリャン」に至ってはもはや絶句するのみ。まさかとは思うが、自分で聞き取ったのをそのまま文字にしたのだろうか?)よって満点かといえばドッコイそうはいかない。「常識的な音楽」(90点満点)という範疇からは明らかに踏み出しているものの、全てが予定調和の範囲内に収まっていると感じられるのが不満といえば不満。これまで当盤から一度も戦慄を覚えたことがないという理由により99点とさせてもらう。ムリヤリ減点してるんじゃないかと思われるかもしれないが、このアルバムに100点を付けるのはどうも抵抗があるというのが私の偽らざる気持ちである。もしかすると品評会会長が満へぇ〜を出さないのも同じ心境=「なんとなく」なのかもしれない。(追記:少し上の加筆部分にある理由により、残念ながら国内盤としての評価を下げざるを得なくなった。1点ずつ引いて95点。)
 最後にブックレットに言及しておこう。ともに青を基調とした表紙と裏表紙に、それぞれサルゲイロの顔(目を閉じている)と空に浮かんだ雲が印刷されているが、油紙(?)を使用しているため中が透けている。これがなかなかに効果的だ。前者は "MADREDEUS O PARAÍSO 14CANÇÕES" という文字列(3行)が、後者は木が重なって見える。今になって思うのだが、裏表紙の方は天と地との結び付きを暗に示しているのではないだろうか?

おまけ
 以前にも宗教関係話を持ち出して当盤と "O Espírito..." との違いについて論った記憶がある。そこで、禁を破っていろいろ探してみたところ、Kさん主催BBSの過去ログにこんな投稿(00/11/08)のを見つけたので例によって載っけてしまう。

  彼(註:首都圏在住Sさんのこと)のレビューの最初に「悟り」という文字が
 出てきますが、そこから連想したのは仏教の世界でいう「四住期」のこと。イン
 ドでは古来、人間の一生を「学生期」(がくしょうき)、家庭を持って家族と過
 ごす「家住期」、林の中で修行する「林住期」、林から出て放浪の旅をする「遊
 行期」という4つに分け、これに従う人生こそ最も理想的な生涯教育のあり方で
 あるとされていたのだそうです。(ただし遊行期は単なる放浪ではなく、巷を歩
 いて人生の道を説くことを指します。)
  そうすると、(特にアルバム後半の曲に)厳しさを強く感じる "O Espírito da
 Paz" が孤高の境地、すなわち「林住期」の音楽であるのに対し、"O Paraíso" は
 遊び心や世俗との繋がりといったものを感じさせることから、「遊行期」の音楽
 ではないかとふと思ったのでした。

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