Obrigado
2006
EMI 0946 3 45282 2 8

 某うんこライター(←他盤評ページにて実名を挙げて糾弾しているので実は「某」になってない)の解説に対する嫌悪感により日本盤を回避した "Faluas do Tejo" とは異なり、国内発売が待ちきれなかったための輸入盤入手である。米アマゾンに出品していた業者から今年(2006年)の4月に新品を買ったが、諸経費込みで約US$20かかった。少し遅れて扱うようになった国内通販はどこもかしこも輸入盤としては異常に高い3000円以上の値を付けていたから、それでもお買い得だったのである。(2006年8月現在でも、amazon.co.jpはUK盤を約3500円で売っている。)このところのユーロ高のためだとしたら、日本盤はさらに経費がかさむためリリースの見通しは当分立たないのではないか。そう私は考えていたのだが、7月には2000円を少し切る価格で海外盤が出回るようになったし、間もなく(10月4日)東芝EMIからも発売される見通しである。定価2500円だから生協経由なら2125円で手に入る。早まったか!
 当盤を手に取って驚いたことがある。ジャケット写真のサルゲイロが巨大化している。故モンセラート・カバリエや森公美子ほどではないが、これではまるでオペラ歌手だ。一体何があったというのだろう? 夏川りみは「涙そうそう」の大ヒット以後別人のような体型になってしまったが、サルゲイロは彼女のように突然裕福になったという訳ではないから、何かのストレス太りではないかといらん心配をしてしまった。私としては発声に支障さえなければ別に構わないのだが。(この疑問をKさんのブログに書き込んだところ「ポルトガルの奇跡がそこにある」というレスが付いた。んなアホな。)
 さて、何も見ずに当盤1曲目(あまりにも長ったらしいのでタイトルは割愛)の再生を始めた私だが、迂闊にも何語で歌っているのか判らなかった。ラテン語、あるいはカタルーニャ語とかオック語(カントルーブ編「オーヴェルニュの歌」で使用)のようなローカル言語ではないかと考えたが、ブックレットを見たら何のことはない、イタリア語だった。(途中2分17秒〜の "si incamminò" を "sin camino" と聴き違いして、一瞬ながら西語と思ってしまった自分が情けない。)そこで最初から聴き直す。冒頭にコオロギのような鳴き声。虫の声をありがたがるのは(それを欧米人のように右脳=音楽脳ではなく左脳=言語脳で処理するらしい)日本人だけかと思っていたが。それはさておき、やがて始まるハープソロはどことなくケルトっぽいものの、0分27秒からのイントロは明らかにイタリアン・ポップスのそれである。(Andrea Bocelliのアルバムに入っていそうだ。)男性歌手については何も知らない。可も不可もなし。サルゲイロの方は葡語訛りなのか少々聴き取りにくいけれども(1分27秒〜の "ad alta voce...." が空耳で「あなたを」に聞こえてしまう)、彼女の伊語による歌唱が聴けるというだけでも貴重である。
 2曲目 "Sombra (Fado noturno)" は括弧内にある通りファドである。サルゲイロのファドを聴くのはおそらくこれが初めてだが、元はファド歌手だったということだから全く不安はない。実に堂々とした歌いっぷりである。そういえば、最近amazon.co.jpにて後に当サイトで採り上げる予定のディスク(Dulce Pontes "Caminhos")のカスタマーレビュー中に「ファドはこぶしを利かせて歌うため、年配の歌手が歌うと少しおどろおどろしくもなる」というコメントを目にした。私はそれゆえファドを少々苦手としているのだが、このトラックにはそういうところが全く感じられないのが嬉しい。弦楽器(ピチカート含む)を加えて少々現代風にアレンジしているのも良い。(先述したPontesのような「やりたい放題」ではないけれど。)「宇宙戦艦ヤマト」挿入歌を思い出させる(?)間奏でのヴォカリーズも彼女だろうか? 見事だ(←沖田十三口調)。締め括りで聞かれる超高音(E)には「アッパレ!」(←今度は大沢啓二口調で)を差し上げよう。3曲目は飛ばす。
 4曲目の "María Soliña" は当盤で最も気に入った曲である。歌詞の字面に(xが使われているなど)何となく見覚えがあったので、調べてみたら案の定ガリシア語だった。つまりケルト音楽である。間奏で使われるガイタ(バグパイプ)や笛の音以前に、メロディラインが完全にそうである。"soliña" の意味がよく解らないが(やっぱ国内盤発売待つんだった!)、"sola" (ひとり)と勝手に解釈して進めよう。そうなると3度出てくる "soliña quedache" は「1人残された」という意味だろう。海風を受けながらガリシア地方の大平原を歩く巡礼者の姿が目に浮かんだ。その巡礼者(修道女)とは歌手本人に他ならない。(そういえばマザー・テレサに準えたこともあったな。)私の独り合点は措くとしても、これはものすごく厳粛で深い音楽である。編曲者のCarlos Nuñesは名前だけ知っていたが、 これほどの実力者だったとは! いい仕事してますねー(←敢えて書くまでもない?)そして、こういう宗教性の漂う曲を歌わせたらサルゲイロの右に出るものは(少なくともポピュラー音楽界には)いないと言い切ってしまおう。次の "Sol nascente" はルンバだろうか? 前曲が荘重だったので息抜きとしてはちょうど良い。とはいえ、マドレデウスのリーダー格、Pedro Ayres Magalhãesが手がけただけに質は高い。ゲストのCoba(小林靖宏)のアコーディオンも上手いが、NHK教育テレビのイタリア語会話で見た程度なので、これ以上のコメントは控える。
 6曲目はお馴染み("O Paraíso" 冒頭収録)の "Haja o que houver"、共演者はご存知José Carrerasである。既にどっかに書いたはずだが、私は「三大テノール」の中で唯一この人を超一流とまでは評価していない。声がまるで美しく感じられないことが理由の全てである。この人はしばしば「真摯な表現」という言い回しによって称賛されてきたが、結局それしか取り柄がないのではないか。それを世間が過大評価しているに過ぎない。今でもそう堅く信じている。オペラ以外を歌った場合も感心できなかった。私はかつて "Passion" というアルバム(同名の国内盤中古)を買って聴いたことがある。クラシックの旋律をポピュラー風にアレンジした曲を集めたものだが、トラック1 "En Aranjuez con tu amor(邦題は「アランフェスより愛をこめて」で、元はもちろんロドリーゴ「アランフェス協奏曲」)出だしの「アランフエーース」の大袈裟な歌い方にもう嫌気がさしてしまった。以降の曲も同様で、あまりのクドさにとうとう堪忍袋の緒が切れたため中古屋へと逆送されることとなった。(他に難癖を付けたいアルバムが1枚あるが止めておく。もっとも、そういった芸風が威力を発揮することがあったのは事実で、プッチーニ「トゥーランドット」第3幕での王子カラフのアリア "Nessun dorma" (邦題「誰も寝てはならぬ」、荒川静香がトリノ五輪の自由演技で使ったため一躍有名になった) では、パヴァロッティやドミンゴとは違うスタイルながら魅力ある歌唱を聞かせている。今思い出したが、アルゼンチンの作曲家Ariel Ramírezの "Misa Criolla" での独唱も見事だった。)そんな訳で少なからぬ危惧感を抱きつつ聴いたのであるが・・・・驚いた。何とこの曲では彼の生真面目な歌い方がハマりにハマっているではないか。サルゲイロとの重唱も文句なし。ドラム等の参加によるポップ調、かつオリジナルより少々軽めの伴奏も決して悪くない。というよりこっちの方が私は好きだ。この曲に新たな生命が吹き込まれたことをここに感謝したい。続く "A Promessa" の印象は5曲目との重複が避けられないため省略。
 8曲目は "Pregão Moçárabe Mix"、こちらは "O Espírito da Paz" 収録曲のリサイクルである。そういえば以前CDを何人かに貸し出した際、好ましい反応が返ってきたほとんど唯一と言っていい人物ですら、この曲だけは「気味が悪かった」(←それが作り手の狙いだったと思われるが)と不満口調だったのを思い出した。当盤のリミックスは、そのグロテスクさをこれでもかと強調している。冒頭の弦楽器による旋律を聴いて私はタイトル中の "árabe" という文字列に初めて気が付いた。最初の4分強のエキゾティックな雰囲気は大いに気に入った私だが、後半の低音リズムは体質的に受け入れられない。所詮は好き嫌いの問題で、音楽の質が高いことは十分認めているけれど。9曲目 "Olhos negros" はアカペラ合唱団との共演。こういうのは大好きなはずだが、当盤中では印象が薄い。どうせならサルゲイロだけで聴きたかった(合唱ジャマ)というのが本音。とはいえ、コーラスから神々しいソロが浮かび上がってくるのを聴くとやはり感動する。
 10曲目 "Vozes" は異色作。重唱の相手はMaria João、そして作曲者のMário Laginhaがピアニストとして参加している。(この2人の共演盤 "Chorinho Feliz" については当サイトで紹介する予定。それにしても「マリオ」と「マリーア」のどちらにアクセント記号が要るかが西語と葡語で正反対なのは分かっちゃいるけど苛ついてしまう。)タイトルは「声」(複数形)、それが主題というか、この曲の命である。ピアノをバックに「ラララー」とソリスタが歌う。文句はコロコロ変わっているような気もするが中身はない。(当然ながらブックレットにも歌詞は掲載されていない。)要はヴォカリーズである。先攻がサルゲイロ、後攻がジョアンである。ところで後者は、上述の "Chorinho Feliz" にて超絶技巧を披露している。トラック2 "Sete facadas" は10分を超える大曲だが、快速テンポの曲に合わせてそれこそ機関銃のごとく猛烈な勢いで歌い続ける。圧巻はラストの2分弱。歌詞が全く意味を失い、声は音だけを発する打楽器となる。あれには畏れ入った。さらにトラック6 "Um choro feliz" と次の "A meninha e o piano" では最初から歌詞がなく、声がピアノやアコーディオン、あるいはフルートなどと「合奏」している。ということで、この勝負は最初からジョアンのホームグラウンドで繰り広げられているといえるのだが、アウェーであるはずのサルゲイロは全く引けを取っていない。というより、2順目の方がクセのある声なので、ようやく彼女が先だったと判明したほどだ。完全に脱帽である。そして新たな魅力が発見できたことはこの上ない喜びといえる。3巡目から重唱である。この素晴らしいアンサンブルを誉め称えるための言葉を私は持ち合わせていない。最後はピアノが退き、声だけで締め括る。ライヴ収録だったようで、割れんばかりの大歓声が上がる。ここから余談。ロッシーニ(伝)の歌曲に "Duetto buffo di due gatti"(二匹の猫の滑稽な二重唱)というのがある。ソプラノ2人が「ニャーオ」で掛け合うだけという他愛のない曲だが、それをエリーザベト・シュヴァルツコップ(今年8月3日没)とヴィクトリア・デ・ロス・アンヘレス(昨年1月15日没)がジェラルド・ムーア(史上最高のリート伴奏者の1人に数えられるピアニスト)の引退コンサート(1967年2月20日)で歌った。聴衆の大爆笑と大拍手の入ったその録音は私も何度かNHK-FMで聴いたことがあるが、今世紀にまで語り継がれるほどの歴史的名演である。脱線ばっかしで恐縮だが、サルゲイロ&ジョアンによる "Vozes" もそれに加わる資格があると言いたかったのだ。
 11曲目 "Vivo deste quase nada" のクレジットにはマドレデウスの現役メンバー(キーボードのCarlos Maria Trindade)と元メンバー(チェリストのFrancisco Ribeiro)が名を連ねている。にもかかわらず、当盤中では最も感銘を受けない曲となってしまった。ドラムの「ズンズンチャンチャン」というリズムをバックに歌われる旋律が少々単調と聞こえるが、そのせいだろうか? 続く "Ondas" もギターとパーカッションのみの伴奏で造りはいたってシンプルだが、こちらは「省略の美学」を追求しているように感じられて好ましい。男性歌手は私好みではないが。次は "My one and only love"、何とジャズではないか。ただしリズムセクションから敢えてドラムスを外し、伴奏をピアノとベースだけにしたのは声を邪魔しないようにという配慮かもしれない。英語によるサルゲイロの歌唱を聴くのも初めてである。彼女にとっても歌い慣れていないようで、音程が甘くなることが何度かあった。(2分21秒付近の "fire" など相当歌いにくそうである。)おそらく言語とメロディライン双方の経験不足が原因であろう。この曲は後半に入ってからが良い。2度目の "The very thought of "(2分43秒〜)でわざと崩すところといい、3分02秒〜の "and you come to" のやんちゃな歌い方といい、本領発揮とは言いがたいが何とも微笑ましい。・・・・とここまで書いたところで、とんでもない大ボケに気が付いた。これってマリア・ジョアンじゃないか!(同一共演者との音源の複数採用を全く考慮していなかったのが敗因である。)が、私がそう勘違いするほどにもサルゲイロは溶け込んでいた、と褒めておくことで事態の収拾を図ることにした。(書き直すのもめんどくさいし。)が、どうも逃げ切れそうにないので話を他に振ってしまおう。これまで彼女は西語では一度も歌っていないのだろうか? 単に私が知らないだけかもしれないが、少し気になるところではある。もし何か理由があって回避しているとしたら、今年来日するので私に代わってKさんに尋ねてもらいたいところだ。(お願いします。)
 やはり2度目の登場となるカレーラスとの "Manhã de carnaval" でアルバムは締め括られる。サルゲイロのブラジル音楽もこれまた初耳。"dia" を「ジア」でなく「ディア」と発音しているのはポルトガル人としての矜恃だろうか? ちなみにカレーラスもスペイン人だからこの点では同じはないかと予想していたが、1度目(2分47秒)がブラジル式、2度目(2分58秒)はポルトガル式(気味)だからいい加減なものだ。(それよりも "feliz" が「フェリース」と完全に西語式なのが気になる。もっとも、その点ではメキシコ音楽 "Granada" で "virgen" を「ヴィルジェン」とやらかしたパヴァロッティの方がはるかに上を行くが。)ところで、カレーラスは「三大テノール世紀の共演」3度目となるパリの野外コンサート(サッカー・ワールドカップ1998年フランス大会決勝前夜)でこの曲を他の2人と歌っているが、彼だけが例のクサい歌い方で雰囲気をぶち壊しているような場違い感があった。しかしながら、その2年後の録音であるサルゲイロとの共演では少しは学習したのか、相変わらずネチッこい節回しながら辟易するほどではない。遅まきながら気が付いたが、クレジットにMadredeusの名があるから、この時点でのメンバーが全員参加していると思われる。そのため伴奏はバランスもアンサンブルも申し分ない。ただリハーサル不足なのか歌手2人の合わせがやや甘いことが惜しまれる。加えて男声がちょっと出過ぎだ。なお、以前KさんのBBSで両歌手の共演が話題になったという記憶があったので、過去ログページを捜索させてもらった。そして、99年4月に私が投稿しているのを発見した。ただし、それはポルトガルで98年に開催された万博での共演について言及したものだから、当盤収録のコンサート(2000年バルセローナ)とは別音源である。ちなみに、そちらではカレーラスがサルゲイロの引き立て役を立派に演じきった(少なくとも私は英文レポートを読んでそう判断した)という話だから、彼にどういう心境の変化があったのかは知らないが、ここでの出しゃばりが残念でならない。歌姫と張り合って(共演でなく競演して)どうする!
 ということで、部分的には(というより些事末梢というべき)ケチを付けたけれども、基本的には大変満足できる内容となっている。95点。それにしても話があっちこっちしたため何と六千字を超えてしまった。当盤評がこんなに長くなるとは完全に想定外、せっかくの1日(descanso sabatical)が潰れてしまった。

2007年2月追記
 実は国内盤のライナーを既にあるルート(想像に任せる)から極秘裏に入手している。音楽愛好家の「ヒイラギフユオ」なる人物によるディスクと曲目の解説だが、これがまた酷い代物だった。日本語表現の拙劣さやサルゲイロの音楽への無理解など難を挙げていけばキリがない(軽く千字は超えてしまうだろう)ので1点だけの指摘に留める。
 4つの段落で構成された「『Obrigado』について」の3番目終盤に「国や年代、ジャンルを超えて、あちらこちらで産み落とされた曲たちが、テレーザをキーワードに初めてひとつにまとめられたといえる」という記述がある。ところが(1文措いて開始される)次段落の冒頭に置かれた文章は驚いたことに「だから、残念ながらまとまりはない」なのだ。何という支離滅裂!
 これはヒイラギ氏の健忘症ゆえではなく、おそらく「アルバム全体を貫く柱」あるいは「統一感」(もし服部のり子の薫陶を受けていれば間違いなく「コンセプト」を持ち出したはず)といった意味合いで「まとまり」を使ってしまったのだろうと推察する。要はウッカリである。(私が言うのも何だが根底にはボキャブラリー不足もあるはず。)ひょっとすると一度も推敲することなく担当者に原稿を渡してしまったのだろうか。それだけでも十分情けないが、万一読み返しても気が付かなかったのであれば物書きとして完全に落第である。彼は「音楽愛好家」という肩書に相応しくウェブサイトやブログに文章を掲載するだけで満足しているべきであった。(なお「ヒイラギフユオ」でネット検索しても他に数件出てくるに過ぎないから、これを一種のステペン (捨てハンドルネームの同属異種) と見なすべきかもしれない。)どっちにしても東芝EMIは杜撰なチェック体制への非難から免れることはできない。それにしてもこんな実質素人に執筆を依頼しなくてはならないほどにも制作費に困っていたのだな。(←半ば死に体の会社に鞭打ってどうする?)
 ふと思ったのだが、音楽評論家を免許制にしてはどうだろう? 試験に合格すれば「一級評論士」「二級評論士」などの資格が与えられ、プロとして活躍することが許される。それらを持たないアマチュアは「音楽ライター」や「音楽愛好家」などを名乗るというように整理してもらえたら私としてもいちいち毒づかずに済むので大助かりだ。「所詮ライターや愛好家が書いたんだから」と諦めが付くから。(900字程度で何とか収まったな。)

マドレデウスのページに戻る