Movimento(ムーヴメント)
2001
EMI 7243 5 31590 2 3(TOCP-65691)

 オリジナルアルバムとしては4年ぶりゆえ、そして前作 "O Paraíso" のラストが何やら思わせぶりだったため、当盤は大学生協に予約注文して発売日に入手し、大いに期待しつつ試聴に臨んだのであるが・・・・
 トラック1 "Anseio (Fuga Apressada)" のギターとシンセによるイントロにいきなり驚かされてしまった。何とも不気味である。爪で弦をはじく生々しい音もそれに輪をかける。やがてサルゲイロのヴォーカルが入ってくるが、やはり胸騒ぎを覚えずにはいられないような歌い方である。こういった快速テンポによる激しい曲は以前にも耳にしたことはあったが、それをアルバムの冒頭に置くということはなかったはずである。聴き手をいきなり奈落の底に突き落とそうとしているのか? 呆然としているうちにギターの「ジャジャン」で音楽は断ち切られる。これには思わず戦慄が走った。「この先どうなってしまうのか?」まるで長い年月をかけて築き上げてきた音楽を自分たちの手で叩き壊そうとしているような印象すら受けてしまう。
 それは続く "Ecos na catedral" を聴いても変わることがない。単純音型の繰り返しによる器楽の伴奏には落ち着きが感じられないこともないが、それに乗っているサルゲイロのヴォーカルが聴き手の不安を煽るかのように揺れうごめいているためである。(なお「カテドラル(大聖堂)」をタイトルに入れたこの曲の出だしは、 "Os Dias da MadreDeus" の2曲目 "A Sombra" のイントロとどことなく似ている。マドレデウスの音楽活動の出発点が旧修道院の建物だったことの追憶として同じ音型を用いたというのは考えすぎだろうか?)ここでの彼女は初めは低音主体で歌っているが、サビで一気に高音域に駆け上がる。同じ曲の中でここまで声域を広く使った曲というのは記憶がない。3曲目 "Afinal - A minha canção" の出だしには愕然とした。これまでのサルゲイロからは一度も聴かれなかった超低温、いや超低音である。全然美しくない。が、ここまでやられると何か意図があってのことだというのが朧気ながらわかってくる。従来のスタイルを踏襲していれば聴き手は満足し、それなりに高い評価も得られる。が、彼らは安住を良しとはしなかった。音楽の崩壊をも恐れず、敢えて冒険を挑んだのである。(賞金王にまで登り詰めたプロゴルファーがさらに上を目指してスイング改造に取り組むようなものだ。それが上手くいかずスランプに陥り、結局シード権を失ってしまった選手も少なくない。)その勇気と志の高さに拍手を送りたい。
 4曲目 "O labirinto parado" も立ち上がりはザワザワしている。(今気が付いたが、ここまでずーっと短調で書かれている。)ところが長調による短い間奏の後の歌でやられた。グウの音も出ないほどに打ちのめされた。不安定な状態が長く続いていたからこそ、この囁くような歌い方が生きるのである。これはまさに地獄の底でもがき苦しんでいる者に差し伸べられた救いの手である。それも蜘蛛の糸のごとく脆いものでは全くない。5曲目の "O olhar" はイントロなしで歌が始まる。胸にグサッと来た。そして泣けてきた。決して「お涙頂戴」の音楽ではない。哲学とか宗教とも無縁である。"Destino"("O Espírito da Paz" 収録)のように超高音を使っている訳でもない。サラッと歌い上げてここまで深い世界を表現してしまうのである。(続く "A lira-solidão no oceano" の熱唱よりも感動したりする。この曲は残り約1分での歌い方が私的には「やりすぎ」である。)一皮剥けて大きくなっていることは明らかである。賭は吉と出た! 当盤購入直後のKさんへの私信には、たしか「当時のマドレデウスのポテンシャルを最大限に発揮したのが "O Espírito...." であるのに対し、彼らのポテンシャルには底が知れないということを見せつけたのが "Movimento" である」といった感想を述べたはずである。まったくもって末恐ろしい音楽集団だ。
 以後の曲も従来より深みというか奥行き感が増しているようで私は大いに堪能した。例えば14曲目 "Ergue-te ao sol" は前作中で最も好きだった "Claridade" と曲想がやや似ているが、短調を織り交ぜることが落差あるいはコントラストの効果を発揮し、長調部分から感じる暖かみが一桁ぐらい上回ってくる。圧巻というべきは次の "Vozes no mar"、何という格調の高さ! こういうのを「至高の芸術」と呼ぶことに私は何のためらいもない。まるで天国への階段を一歩一歩上っているような、そして高みを目指して歩み続けているマドレデウスそのものを描いたような音楽である。
 「これだけ高評価したのだから採点も当然・・・・」と思われるかもしれないが、そうは問屋が卸さない。13曲目 "Palpitação" のためである。(そういえば、かつてKさんのサイトに併設されていたチャットを覗いたところ、首都圏在住のSさんがこの曲でノックアウトされたという旨のログが残っていて意外に思ったことがある。)イ短調によるイントロが1分45秒続く。(この長さに文句を付けようとしているのではない。)その後いきなりサルゲイロの歌がイ長調で飛び込んでくるのである。イントロ終わりに数秒間続く反復音型「ラミラミラミラミ・・・・」は長調の「ドソドソドソドソ・・・・」と実質的に同じだとはいっても、これはあまりにも唐突である。ちなみに私のパラグアイ音楽のコレクションにヘ長調による明るい(というより脳天気な)イントロを長々と奏でた後、たった1小節のアルパ(ハープ)による「ジャララララン」というアルペジオで転調し、ヘ短調の歌が始まるという「と」としか言いようのない曲がある。それと逆パターンながら、私に同じような違和感を抱かせたのは痛すぎである。もし自分が作曲者だったとしたら、歌の出だしは「ミミミーミミファーミレレドドレミッレッミ」という同じ旋律でも短音階を維持していただろう(つまり低いまま進行)。以後は「ミミミーミミファーミレレドドレドッシッラ」「ミミミーミミファーミレレドドレミッレッミ」と続け、そして「ミミミーミミファーミファソーファソラ」と上げる。あるいは思い切ってここから「ミミミーミミファ#ーミファ#ソ#ーファ#ソ#ラ」(つまり長音階で「ソソソーソソラーソラシーラシド」)とするかもしれない。いずれにしても、その後に本来の音型を接続する。これで音楽の流れは格段にスムーズになる。
 などとアホな仮定に基づいて好きなように書かせてもらったが、この曲が私的には「サムソンの毛髪」となったのは事実だから99点とする。結局のところ、ここでも満点を出し惜しみした格好であるが、いつの日か200点を付けたくなるようなアルバムを手に取る日が必ずや訪れることを私は信じて疑わない。なお、国内盤は以下に記した難点により評価の大幅下落が避けられない情勢だが、敢えて採点は行わないこととした。(各自でご判断を。)

おまけ(暴走必至)
 Kさんのみならず私も腑が煮えくりかえるような思いをさせられている当盤の解説執筆者、服部のり子への怒りをぶちまけることにした。
 最初の段落に「初めてこの曲をTV-CMで聴いた時、ショックだった」とある。話し言葉なら辛うじて許されるかもしれないが、書き言葉としては小学生の感想文レベルである。それをプロの手になるはずのCDのライナーで目にしたのだからショックだった。この人の文章にはとかく読点が多い。それも原則(自分のスタイル)を持っているのではなく、とりあえず切れ目ごとに打っているという感じだ。(悪い意味での「適当」、つまりデタラメである。)だから流れが非常に悪い。ダメ学生のレポートを読まされているような気分になる。何ら必然性のない外来語(大部分が英語)の頻用も特徴の1つに挙げられるだろう。当盤解説では「センチメンタリズム」「コンセプト」「インスピレーション」「イマジネーション」といったカタカナ語が、それもさほど間を置かずに2度ずつ使われている。この時点で「日本語が不自由」という烙印を押しても決して罰は当たらないだろう。ついでながら、第4段落に「深い哀しみの郷愁がDNAに組み込まれ、脈々と受け継がれているような、そんな深層で反応するセンチメンタリズム」という一文がある。鈴木淳史(クラシック音楽評論家)のページにて、「DNA」やら「遺伝子」を安易に持ち出し、それで片付けようとする行為を非難した私ゆえ、これも看過できない。また、郷愁には「哀しみ」の感情以外も含まれているだろうし(それに限定するような文章でもあれば解るが皆無)、「深層」が何を指しているのか、「反応する」の主語は何なのか等々、とにかく訳のわからんことだらけである。クラシック関係でもお粗末な解説に出くわすことがままあるけれど、ここまで質の悪い代物はさすがに見当たらない。
 「コンセプト」についてはさらに毒づかずにはいられない。次作 "Um Amor Infinito"(邦題「無限の愛」)にも服部は性懲りもなく寄稿しているが、その第1段落では当盤について触れている。(実は次作の解説は輪をかけて酷い出来なのだが、向こうのページでも悪態を吐くのは嫌なので、ここにまとめてしまうことにした。)

 その前作は、彼らが常にツアーを行い、世界中を動き回っているということ。
 さらにヨーロッパの室内楽にポピュラー・ミュージックとポルトガルの民族
 音楽の要素を融合させる、という基本コンセプトを持ちつつも、常に新しい
 ことにもチャレンジし、さまざまなタイプの楽曲を演奏している、という意
 味での動き。それらがコンセプトとなり、作られた作品だった。

難を挙げようとすれば両手の指の数でも足りないような悪文だが、少なくとも上の3行目で「コンセプト」を使ったのであれば、最終行では違う単語を充てなければどうにもならないことは明白である。(それが判らないほどにも言語感覚が鈍いのなら廃業&転職をお勧めする。)しばらく後にも「そのなかでマドレデウスは、前述したようにヨーロッパの室内楽にポピュラー・ミュージックとポルトガルの民族音楽の要素を融合させる、という全く新しいコンセプトをもとに作られた」という文章がある。「前述」によって使い回しの非難をかわそうとしているが、ほとんど同じというのも何だかなあ、と言いたくなる。また「マドレデウスは・・・・・作られた」という主語と述語の対応にも違和感を覚える。それはともかく、「コンセプト」という単語がよっぽど好きなんだなあ、この人。後半にもう1回出てくるが、もはや開いた口が塞がらない。文句を付ける気も失せてしまった。

  これまでもマドレデウスは、メンバーが持ち寄った新曲をもとに、そのな
 かでコンセプトを模索し、アルバムというカタチにそれらを昇華させるとい
 う方法でレコーディングしてきた。

このように計4度も出てきた「コンセプト」であるが、そのあまりにも無神経な濫用のため、結局不快感を抱いたままに "Um Amor Infinito" のライナーを読み終えることとなった。(私なら「方針」「構想」「理念」「動機」「思想」「着想」など頭に浮かんだ候補群から最も相応しいと思われる単語に絞り、少なくとも3種類を使い分けるだろう。)もう二度とお目にかかりたくないと思わせた数少ないライターの1人である。ついでに紹介しておくと、Kさんの服部解説に対する最大の不満は、彼女がいつまでも「海と旋律」のイメージにしがみついていることであるが、"Um Amor Infinito" のライナーにおける「前作『ムーヴメント』でメンバー交代が行われ」という出鱈目さにも「嘘つけ!」といたくご立腹の様子であった。

おまけ2(さらに暴走必至)
 外来語(カタカナ語)を使うのは異常に好きなクセに、服部はポルトガル語の日本語表記についてはまるで無頓着のようである。真っ先に糾弾すべきはヴォーカル名の「テレーザ・セルゲイロ」(←ロシア人と勘違いしとらんか?)であるが、他にも目白押しだ。以下に列挙してみる。

 テレーザ・セルゲイロ(Teresa Salgueiro)
 カルロス・マリア・トリンダード(Carlos Maria Trindade)
 カーボ・ベルテ(Cabo Verde)
 サウダード(saudade)

 最初と3番目は言語道断。一方、2番目と4番目だが、"・・・do" ならともかく "・・・de" で終わっているのだから、やはり「デ」もしくは「ジ」(または「ヂ」)と表記すべきであろう。(蛇足ながら、私が所有する葡日辞典には "saudado/a" という形容詞は掲載されていない。)何より腹立たしいのはメンバー2名の誤表記が "Movimento" から "Um Amor Infinito" にそのまま継承されていることだ。東芝EMIには校正できる人間がおらんのか? まったく杜撰なライターが杜撰なレーベルと手を組めば最強、いや最凶としか言いようがない。ちなみに(そのうち修正されると信じたいが)各種音楽サイトの「オブリガード」発売情報ページでは「テレーザ・セルゲイロ」が堂々と使われてしまっている。奴等のせいだとしたら罪は重い。

おまけ3(疲れてきたけどもう少し頑張ってみる)
 上で触れた「融合」であるが、それは既に当盤解説の最終段落でも言及されていた。出だしの2文を転載する。

  サウンド面でも、マドレデウスはクラシックとポピュラー・ミュージック
 を融合させたものをベースとしている。ポピュラー・ミュージックの中には
 ファドやジプシーといった、ヨーロッパの民族音楽も含まれている。

 (そういう音楽ジャンルがあるなら別だが)「ジプシー」を「ファド」と並列させてもいいのかのかという疑問はさておき、「ポピュラー・ミュージック」と「民族音楽」の関係をコロコロ変えてしまっている。服部は国語のみならず数学(集合)も全然ダメだったんだろうな、と思わざるを得ない。ちなみに、金沢英子は "O Espírito...." の解説に「ここから聴こえてくるのは、ファドでも、ファドとクラシックの融合でもない」と服部とは正反対のことを書いていた。しかしながら、私はどちらも三文ライターとしか思っていないから、この見解の相違についても「どーでもいいですよ」とだいたひかる口調で言いたい気分だ。
 ついでながら、CDデータベースのCupiDに掲載されている"O Paraíso" のコメントはこうである。

 19世紀に生まれた哀愁に満ちたポルトガルの民族歌謡“ファド”のエッセンス
 を現代の音楽シーンに蘇らせたマドレデウス。本作は、彼らの魂の音楽である
 ファドの精神はそのままに、世界へと飛翔したその音楽経験が微妙に現代性を
 付加する。

 誰が書いたのかは知らないが、やはりファドとの関連性を論じたくて仕方がないようである。血統や交雑過程にこだわる育種家のようだ。音楽の素晴らしさに変わりはないんだから由来がどうであろうと関係ない。私はそう思うんだけどね。

追記(激しく暴走)
 Kさんがご自身のBBSに「サーチエンジンで『服部のり子 コンセプト』で検索すると笑えます」と書かれていたので実際にやってみた。確かに・・・・と同時に呆れ果ててしまった。どうやら服部は「コンセプト」とやらが判らないことには1文字たりとも執筆できない、あるいはそれを聞き出さないことには仕事をしたことにならないといった強迫観念に取り憑かれているとしか私には思えない。それについては「お気の毒に」で終わりだが、もし「コンセプトを知ること」=「音楽を理解すること」などと思い込んでいるとしたら救いようのない愚か者である。例えば第5交響曲第1楽章冒頭の動機(いわゆる「ジャジャジャジャーン」)がいったい何を表しているかと訊かれたベートーヴェンは「運命が来たりて扉を叩く」と答えたが、実はどっかのアホに早く帰ってもらいたかったから尤もらしい説明をしただけというのが定説になっている。ひたすら霊感の赴くままに作曲したというのが本当のところだから、「運命」は表題として極めて不適切であるのはもちろん、この大傑作の「コンセプト」ですらない。音楽を鑑賞するための何の手掛かりにもなり得ない。次の第6交響曲にしたところで、作曲家が自筆譜に残した「シンフォニア・パストラーレ(田園交響曲)、あるいは田舎の生活の思い出、絵画というより、むしろ感情の表現」という言葉、および5つの楽章それぞれに付けられた表題がちょっとは参考になるかなという程度であろう。
 雑誌等のインタビューならば作り手のメッセージを読者に伝えることの意義を一概に否定したりしないけれど、ディスクの解説ともなれば何よりもまず「自分がその音楽を聴いてどう感じたか」を文字にしなければ話になるまい。音楽について語るということは本来そういう行為に他ならないはずだ。ここで思い出したが、服部にはある評論家が講演で語ったという次の言葉を贈りたい。(どうせ知らないに違いないから。ちなみに今でも新潮文庫などで読めるはずだ。もちろん私とて肝に銘じなければならぬ名言である。)

 音楽はただ聞こえてくるものではない、聞こうと努めるものだ。と言うのは、
 作者の表現せんとする意志に近づいてゆく喜びなのです。どういうふうに近
 づいてゆくか。これは耳を澄ますよりほかはない。耳の修練であって、頭で
 はどうにもならぬことであります。

 音楽の美しさに驚嘆するとは、自分の耳の能力に驚嘆することだ、そしてそ
 れは自分の精神の力にいまさらのように驚くことだ。空想的な、不安な、偶
 然な日常の自我が捨てられ、音楽の必然性に応ずるもう一つの自我を信ずる
 ように、私たちは誘われるのです。これは音楽家が表現しようとする意志を
 あるいは行為を模倣することである。音楽を聞いて踊る子供は、音楽の凡庸
 な解説者よりはるかに正しいのであります。

そもそも作者の手をいったん放れたが最後、どのように理解されようとも為す術がないというのが芸術の宿命である。「作り手の意図とは全く異なる形で受け入れられてしまうこともある」という可能性を考慮に入れているならば、「この作品のコンセプトはこれこれしかじかです。ハイおしまい。」で済ませて平然としていられる訳がないし、そんな怠惰ライターの手にかかったアーティストは不運としか言いようがない。これは断じて「ありもしない仮定による批判」(反則行為)ではない。「マドレデウスの音楽は、言葉で説明されるようなものではなく、それぞれの深いエモーションに訴えかけるものなので、まずはアルバムを楽しまれるのが一番だと思う」で逃げるくらいなら最初から執筆依頼など受けるべきではなかったのだ! 改めて怒りがこみ上げてくると同時に私はマドレデウスが不憫でならなかった。
 暴走はこの位にするが、いつか服部に会うことがあるとしたら(実現の可能性ほとんどゼロだろうが)このように問うてみたい。「あんたはどういうコンセプトに基づいてこの仕事を続けているのか?」と。(まだやっていた。それも「コンセプト」依存症(中毒)から立ち直ることなしに。これは私にとって大きな驚きであった。)おそらく「自分は『コンセプトの探求』をコンセプトとしている」で返り討ちにされることになるだろうが・・・・ならば(←それこそ「ありもしない仮定」だっつーの)「耳の修練の方が先やで」と捨て台詞を吐いて立ち去るとしよう。

さらに追記(例によってひつこい)
 戻って来た。この際だから膿は出し切ってしまおう。当盤解説を再読しても気に障る記述や表現のオンパレードであるという印象は全く変わらなかったが、その最たるものは終盤になって唐突に登場する「普遍性」である。何でも最近の音楽はメッセージ性のあるリアルな表現に傾いているが、それゆえに限界を感じてしまうのに対し、マドレデウスからは普遍性が見えてくるのだという。この主張に私は「???」だったが(後述)、筋さえちゃんと通っているなら特に文句は付けない。
 ところがである。ではその「普遍性」とは一体どういう意味なのかと思いつつ読み進めても、何が何やらサッパリ解らないのだ。(言うまでもなく「ポエティカルで、美しい」とか「イマジネーションを刺激する」のような歌詞に関するコメントは「普遍性」とは全く関係がない。)最終段落にも「音楽を消耗品化させてしまっている時代だからこそ、普遍性というのは、可能性や将来性でもあると思う」とあるだけで、結局「普遍性」の具体的説明は一切ないままに終了。もう最悪。いかにも「うんこライター」に相応しい言葉の垂れ流しである。
 そもそもマドレデウスを評するにあたって「普遍性」という単語を持ち出すこと自体、私は大いに疑問を感じる。何といっても数多のアーティストが束になっても敵わないほどの実力を備えた音楽集団である。むしろ用いるべきは、そして真に解説するに値するマドレデウスの特徴は「非凡さ」「特殊性」に属するものだと思う。(そういう認識で私は拙サイトのディスク評ページを作成してきた。)服部にしたところで、初めて "O pastor" をTV-CMで聴いた時に「ショックだった」とか「画面に向かって、この音楽は何!?誰!?、と叫んでしまった」と書いているではないか。それは決して「普遍性」ゆえではないはずだ。ということで、やはり原稿の余白を埋めるため場当たり的に使っただけと考えた方が良さそうである。
 もう一つ別の可能性が今頭に浮かんだ。奴が耳掃除をもう長いことやってないというものである。ある専門医によると耳垢取りは半年に1度程度でも十分なんだそうだが、さすがに何年も怠れば外耳道はすっかり塞がってしまってしまうだろう。ならば "Existir" 以降のアルバムがまともに聴けていないとしても何の不思議もない。

またまた追記
 森毅の「ゆきあったりばったり文学談義」を先日読了した。その第III章「書評にも芸は必要なんよ」にこんな話が出てくる。自分が評を記した本の著者に「ああ、私の本をこういうところ(視点)で読んでもらったか」と思ってもらえるのが一番嬉しいと森は述べ、さらにこう続ける。

 本人の意図をそのまま受け取ったというんじゃなく、本人の意図を
 超えて、拡がりを持たせてもらえたというのが嬉しいのです。本来、
 批評とはそういうものではないでしょうか。作品というものをいか
 に拡げるかというところに批評はあると思うのです。

改段落の後、彼はそういうことをした最初の人として小林秀雄を挙げていた。ならば「モオツァルト」に対してピアニスト兼作曲家のTが「トーシローが解ったようなことを書くな」的イチャモンを付けたのはまさに野暮の極みといえる。さてさて、そうなると本ページで散々叩きまくってきた例の「コンセプト」女史は完全に落第だが、所詮「音楽ライター」は「音楽評論家」とは別業種、そもそも批評を求めること自体に無理があったのかもしれん。

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