Faluas do Tejo -LISBOA 2005-(美しき我が故郷)
2005
EMI 7 243 8 74938 2 7(TOCP-67759)

 昨年(2005年)購入したばかりだというのになぜか印象は薄い。よく考えたら再生した回数もさほど多くない。当盤の感想も何かに書いたはずだが、「先祖返り」という言葉を使ったことぐらいしか憶えていない。(追記:もう一つ思い出した。ブックレットの写真である。裏表紙のサルゲイロはピンぼけ気味でイマイチ。最後の2ページに使われているのは椅子に座った4名の伴奏者と1人前に立つサルゲイロ、この黒を背景とした写真はとてもいい。ところが真ん中の見開き写真にはドキッとした。同様に黒をバックにメンバー全員が写っている。出来自体は悪くないものの、サルゲイロの顔が折り目によって寸断されている。アイデアとしては面白いが賛否は分かれるだろう。)それは斬新さという点で希薄ということに他ならないのだが、ここでその不満を漏らすのは根本的に間違っている。マドレデウスを愛する者は、そのくらいはわかっていなくてはだめだ。(←宇野功芳口調)
 当盤には「美しき我が故郷」という邦題が付いている。月並みだが的はちゃんと射ている。やはりマドレデウスはここいらで原点("Os Dias da MadreDeus" の頃)に立ち戻ろうとしたのである。だから「先祖返り」と私が聞いたのは正しい。とはいえ、単なる以前のスタイルへの回帰とは違う。過去作品の焼き直しでもない。このグループがそんな手抜きをするはずがない。マドレデウスを(以下、前段落の終わりと同様なので省略)
 とにかく当盤から感じられる「郷愁」は並大抵のものではない。この言葉は本来ローカルなはずである。ところが、マドレデウスがそれを極めるとグローバルになる。つまり、リスボンやテージョ川といった特定の場所を対象としているにもかかわらず、どこの誰が聞いても故郷への想いが湧き起こってくる。これが彼らの凄いところである。(なお、前作にも「懐かしさ」を感じたことはあちらのページに記したが、それは déjà vu に起因するものだから全く別種である。)
 1曲目 "Lisboa, rainha do mar" でサルゲイロの声域がかなり低めに設定されていることが私の耳を引いた。以後の曲でも超高音は出てこない。また器楽にも扇情的なところは皆無である。このため安定感には比類がない。まさに「円熟の境地」というべきである。録音時期が1年しか隔たっていないこともあり、これまで私は当盤と "Um Amor Infinito" について「似たり寄ったり」という認識しか持っていなかったが、ディスク評執筆のため2作を通して聴いてみると、両者の性格が随分と異なっていることに気付かされた。(とはいえ、"-LISBOA 2004-" および "-LISBOA 2005-" というサブタイトルを根拠に、両盤を連作と位置づけることは極めて妥当といえる。さらに、ブックレット表紙やレーベル面のデザインの類似性により、"Movimento" & "Um Amor Infinito" & "Faluas do Tejo" で三部作と考えている人も少なくないだろう。)陳腐な言い回しとは知りつつ当盤を「古くて新しい音楽」と評したくもなってくる。
 ただし、終わりの3曲は少々毛色が異なる。8曲目 "Na estrada de Santiago" ではサルゲイロによる詩の朗読のバックに彼女自身の歌が流れている。新しい試みとして評価する人も少なくないだろうが、ぼくはとらない。これが実際と逆、つまり歌が主で朗読が従であったなら話は違っていたかもしれないが・・・・9曲目 "Na estrada de Santiago" と 最後の "O canto da saudade" はそれぞれファド風、ボサ・ノヴァ風である。つまり当盤の「ローカルながらグローバル」という基本方針(←勝手に決めるな)からは外れているのだが、マドレデウスが既存のスタイルをそのまま使ったというケースはほとんど記憶がないため、これら2曲の録音は実に貴重であるといえよう。前者におけるサルゲイロの巻き舌についても同様。
 さてさて、いったん巣に帰ったマドレデウスであるが、次作でガラッとスタイルを変えてくると私は予想している。そして、変貌の度にスケールの拡大と音楽の深化を実現させてきた彼らのことだから、必ずや大きく羽ばたいてくれるに違いない。よって当盤は期待料込み(←プロ野球選手の契約更改かい)で90点としておこう。
 そういえば、Kさんは最近「マドレデウスの法則」を発見(&ご自身のBBSにて発表)された。その業績に敬意を表して早速引かせていただくと、「3作ごとに緊張の極みのようなアルバムを作っている」という規則性のことである。

 Os Dias da MadreDeus → Existir → O Espírito da Paz
 Ainda → O Paraíso → Movimento
 Um Amor Infinito → Faluas do Tejo → ?

確かにそうだ。ならば次は・・・・ということになる。ふと上を眺めていたら、各段とも2番目に置かれている作品が大飛躍に必要な力を溜めるためではないかと思われてきた。あるいは「マドレデウス三段跳びの法則」というのも成立するかもしれない。って、向こうを張ってどうする?(ちなみに、米合衆国人のエドワーズが1995年に18.29mの世界記録を出した時は、ホップが6.23m、ステップが5.48m、ジャンプが6.58mだったそうである。跳躍間の差が最大でも1.1mしかないのは意外だった。)
 最後に余談。それしか選択肢がない "Os Dias da MadreDeus" を除き、当盤はマドレデウスのアルバムとして初めて買った輸入盤であるが、1つ驚いたことがある。日本語解説書や "All rights..." 云々の英語を別にすれば、この音楽集団のCDやライナー等に印刷されているのは専らポルトガル語だったはずである。ところが、当盤のブックレット裏表紙下にある著作権遵守のお願いは "Gracias por..." で始まっている! どういう訳かスペイン語(オンリー)だったのである。しばらく考え込んだ。そして、レーベル面外周の小さい文字を読んでようやく合点がいった。"Industria Argentina" だったのだ。それだけの(本当にどーでもいい)話。

おまけ
 マドレデウスが性格の大きく異なるアルバムを時を措いて(周期的に?)発表していることについて、私はかつて(99/03/03)Kさん主催のBBSにこんな投稿をしていた。

 大江健三郎氏と1996年に亡くなった世界的大作曲家(日本ではあまりにも
 知名度が低いが)武満徹氏の対談集「オペラを作る」の中から抜粋します。
 大江氏はアイルランドの詩人、イェーツがインスピレーションを受けて(イ
 ェーツ自身は“ヴィジョン”を見たと言った)書いた詩について説明します。
 
  ・・・・・一本の木があって、それはいちばん上の枝から下までずっと、
 半分はギラギラ光る炎で包まれているが、半分は露で濡れた葉の密生した葉
 叢(ようそう)がある。この木の半分は炎、半分は緑で、それが全体をなし
 ている。そしてどうもこれが人間というものを表している、この世界も表し
 ているという詩です。
  この詩について、イェーツがガールフレンドのシェイクスピア夫人という
 人に手紙を書いている。自分がある日歩いていたら暗い森の中でバラの匂い
 などがしている、その瞬間にずっと前から考えてきたことが一挙にヴィジョ
 ンとなって目に見えたというのです。それは片方は炎で片方は露に濡れてい
 る緑の木であった。
  炎のほうは、天上に向かう思考とか、精神とか、魂とか、形而上学とか、
 救いというものを表していて、緑の方は僕たちが現世に生きていること、欲
 望とか、肉体とか、愛とか、女性とかいうものを表している。それが一緒に
 なってひとりの人間を表しているし、現世をも表している。世界というのは
 そういうものなのだということを、自分ははっきりヴィジョンとして見たと
 いうのです。
 
  マドレデウスのアルバムは、まさにこの炎と緑を行ったり来たりしている
 感じですね。(結局これが言いたかった。)次はどっちかな?

2006年11月追記
 先月16日にマドレデウス解散という世界を震撼させるニュースが飛び交った。どうやら彼らをスペインに招聘したSyntoramaという音楽事務所が発信元のようである。それが間もなくBlog Latina(「月刊ラティーナ」を発行する株式会社の情報発信用ブログ)に載り、それを目にされたKさんが20日にご自身のブログに書き込まれ、さらにそれを私が見ることになったという次第である。(ややこしくてスマン。ただし、グループの解散は決して音楽家としての廃業を意味しないため、比較的冷静に受け止められていたことは確かである。Kさんも同様の心境だったらしい。)ところが、直後にリーダーのPedro Ayres Magalhãesが「解散」ではなくて「休止」に過ぎないとして否定した。Blog Latinaも訂正記事を掲載。結局は「ガセ」だった訳だ。ウソつき!(ちなみに、Syntoramaは早とちりしたことに関し自社サイトにて潔く謝罪の意を表明した。が、わざわざ「情報操作を意図したものでは断じてない」などとあると、解散の噂を流しつつ「これが最後ですよ」とファンを煽ることで一儲けを企んでいたんじゃないかと勘ぐってしまう。何にせよ人騒がせな連中だ。)
 とはいえ、2007年いっぱいはコンサートの数を減らすというのは事実らしい。(Magalhãesによると、1992年以来ずっと年間50〜70回もの公演を行ってきたというから驚きだ。)お騒がせサイトにあった休止の目的「グループ活動の再構築を行うため」にはイマイチ具体性が感じられないけれども、次のアルバムのコンセプト、いや構想を練ることも最重要課題の1つに加えられているに違いない。ならば1年間といわず納得いくまで(一切妥協のない作品に仕上がるまで)練りに練り、煮詰めに煮詰めてもらいたい。次作に対する期待は否が応でも高まろうというものだ。

2007年2月追記
 本文中に記した「先祖返り」云々が実は前作 "Um Amor Infinito" を聴いての印象であったと先頃判明した。要は完全無欠なる錯覚をしていたということだが、結果として当盤評の多くが的を大きく外れてしまったことを認めない訳にはいかない。我ながら情けない。が、直すのは面倒なので放置することにした。なお、当盤購入直後の感想はKさんのサイトに設けられていた旧掲示板に書き込んだだけのはずだから、発掘される可能性はほとんどないと思われる。

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