Os Dias da MadreDeus
1987
METRO BLUE 0777 7 48776 2 6

 現在に至るまで国内盤は発売されていない。にもかかわらず当盤は「マドレデウスの日々」という邦題で知られている。この呼び名を最初に使ったのは誰だろう?
 この音楽集団が自らのスタイルを確立すべく研鑽を積んでいた場所がファーストアルバムのタイトルに選ばれ、さらにグループ名として定着したことは既に他盤評ページでも紹介した。その修業時代こそが "Os Dias da MadreDeus" に他ならないのであるが、ブックレット掲載の解説では "THE DAYS OF MADREDEUS" とそっくり英語に移し替えられ、3度も使用されている。それがそのまま「マドレデウスの日々」にもなったという次第である。が、ここで直訳を採用したのは決して悪くない。というより名タイトルではないかと思う。(「マドレデウスでの日々」としなかったことにより、「彼の地での日々」と「彼等の (修行の) 日々」という2つのニュアンスを同時に備えることにもなったから。私は勝手にそう思っているのだが、もしかすると元々それを狙ったネーミングだったのかもしれない。その点、 "at" と "of" を使い分けなければならない英語には限界を感じてしまう。)むしろ「下手の考え休むに似たり」で、変に趣向を凝らして原題に込められた作り手のメッセージをないがしろにしたような邦題を見ると腹が立ってくる。(とはいえ、仮に私が引き受けたとしても悪乗りして「幸福な修業時代」などと薄っぺらい名前を付けてしてしまったかもしれない。ちなみに、これはガルシア=マルケスの雑誌記者時代のルポルタージュをまとめた「幸福な無名時代」のパクリである。念のため。)その最たるものが次作のアルバム名とトラック2の曲名に共通して用いられている日本語で、私は常日頃から大いに疑問を感じている。あちらのページにて難癖を付けるつもりだ。
 それでは中身の音楽について語ろう。トラック1の "As montanhas" (アコーディオン独奏曲)は飛ばして次の "A Sombra" から始める。静謐さを湛えたイントロに耳を惹き付けられ、1分19秒から入ってくるサルゲイロの大らかなヴォーカルに心を奪われる。まだ神懸かったところはない。大地にどっしりと根を下ろしているという感じだ。以後の曲もそうだが、音程に危なっかしさを感じる箇所なきにしもあらず。だが、破綻を恐れず伸び伸び歌っている。(←これってKさんのコメントだったっけ?)自分の歌を世に送り出せることが嬉しくて仕方がないといった感じなので、聴いている私も心地よくなってくる。使い古されたフレーズながら心が洗われる思いだ。(ふと Violeta Parra の"Cantos de Chile"「チリ民謡集」 を思い出した。近所のおばちゃんみたいな平凡な歌唱だけれど人生を謳歌していることがまざまざと伝わってくる好アルバムである。それが "Las últimas composiciones"「最後の、そして永遠の作品集」になると生への執着がすっかり薄れ、この世との別れを淡々と歌っている。ピストル自殺の前年発表だから当然なのだが。彼女については、それらディスク評に改めて綴ろう。)2分34秒から曲調が変わる。アコーディオンやギターのリズムが前に出てくるのに同調してサルゲイロの歌にも熱がこもってくる。中でも繰り返される「ララーラーラララララララ」(ハ長調で「レミーレードシドシラソファ」)のフレーズが良い。ニ長調に転調してからの「ラララーラーラララーラ、ララーラーラララー」(「ミミファーミーレドミー、ミミファーミーレドミ♭ー)はさらに良い。後の作品で聞かれる彼女の神々しさを一瞬ながら垣間見たような思いだ。この新興音楽集団の並々ならぬ実力を知るにはこれで十分であろう。こんなペースで字数を費やしていたらトータルでは大変な分量になることは必至である。なので、ここから先は少し端折る。
 特に印象に残った曲といえばトラック5の "Adeus ....E nem voltei" である。"Adeus, dissemos" の音型(ヘ短調で「ミーファーミレーシー」)を聴いてハッとした。長音階にして移調すれば、後の超名曲 "Destino" ("O Espítiro da Paz" 冒頭収録 "Concertino" の第3曲)の歌の出だし「ドーレードシーソー」(イ長調)とピッタリ重なるからである。とはいえ、他に以降のアルバムから感じられる深い境地を予期させるような要素は少ない。また、メジャーになってからのマドレデウスを評する際にしばしば引き合いに出されることになるミニマル・ミュージック手法は純器楽曲に限定され、それも控え目であるように思う。(顕著なのはトラック9 "As ilhas dos açores" ぐらいか。)後年の彼らはサルゲイロのヴォーカルを最大限に引き立たせるため、声楽曲では時に極限まで楽器の音を削ぎ落とすようになるのだが、当盤では器楽と声楽が対等の関係にあると私には聞こえる。ということで、この時代の彼らはまだ暗中模索の状態にあったということになるだろう。
 また、ともにヘ長調で書かれたトラック12 "A andorinha"(器楽曲)から次の "O Brasil" (ヴォカリーズ)への流れは絶妙である。ここでもサルゲイロが気持ち良さそうに歌っているが、それがこちらにも伝染してくる。そういえば、かつて私はかつてKさんのBBSにサルゲイロによるクラシック曲のヴォカリーズを聴いてみたいと書き込んだことがあった。ラフマニノフの同名曲やヴィラ=ロボスのブラジル・バッハ第5番第1曲のアリアが有名だが、オペラ歌手のベルカント唱法だと少々もたれるのである。バーバラ・ヘンドリックスですらビブラートが時に気に障る。なので私はキャスリーン・バトルのディスクを愛聴しているが、それでも体調によっては辟易することがある。比類なき透明感を備えたサルゲイロの声は最適だと思う。
 何だかんだ言ってもデビューアルバムというのが信じられないほどに当盤の完成度は高い。基準点(90点)から音程が不安定である分だけ引いておこう(─2点)。
 最後に録音についても触れておく。かなりデッド気味であるため音が痩せているという印象は否めない。以前の私だったら間違いなく減点対象としたところだが、下手にこねくり回していないため臨場感はマドレデウスのアルバム中で抜きん出ており、サルゲイロの肉声を堪能するという目的にはピッタリである。ゆえにプラマイゼロ(88点のまま)とする。ただし音量レベルが異様なまでに低いため、当盤に続けて他のCDを再生する際には十分注意しなければならない。

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