おまけ(歌詞理解の必要性についての考察など)
 竹村淳はカルドーゾの「アペーロ」を聴いて「切々と歌うエリゼッチに心を奪われて、涙を拭こうという気さえ起こらなかった」そうだ。さらに少し引く。

  その頃のぼくはポルトガル語の心得もなく、エリゼッチの唄う歌詞が
 わかったわけではなかったのに、まるで美空ひばりの「悲しい酒」を聴
 いている時のように、言葉の壁などは少しも感じずに彼女の歌に酔った。
  不思議な力が働いていたとしか思えない。

歌に酔いしれながら「なんとしてもブラジルに行かなくては!」と思い始めていたということだが、結局はそのまま音楽評論家への道を突き進んでしまう。
 さて、2度目のブラジル旅行の際に彼はリオ・デ・ジャネイロのカルドーゾの自宅を訪れ、「唄う時にどんなことをいちばん心懸けていますか」と尋ねた。答えはこう。

 心懸けることはたった一つよ。その歌が必要としている情感を過不足なく
 吹き込むこと。その意味で、私はカントーラじゃなくてインテルプレータね。

私はなるほどと思った。「過不足なく」というのがミソである。もちろん不足ではいけないが、「過猶不及」である。私は別ページで情熱的ながらも決して品格を失わない歌手としてアマリア・ロドリゲスや美空ひばり、現役ではドゥルス・ポンテスを挙げ、借りものながら「情念で歌うのではなく情念を歌う」という言い回しで褒めたことがあった。それも畢竟は同じだと思う。表現過剰の歌唱を耳にすれば聴き手は白けるだけである。(それがJポップを忌避する2番目の理由といえる。それに関し、私は以前こんな文章をしたためていた。竹村が引き合いに出していた美空がそこにも登場しているのが興味深い。なお1番目については後述する。)ちなみに上の「カントーラ」および「インテルプレータ」であるが、竹村によるとブラジルでは前者を「自分に主体をおいて特徴をはっきり打ち出して唄う人」、後者を「どちらかというと歌をたててその心を表現しようとする唄い手」というように分けているらしい。この説明にも納得納得である。当盤の歌手は絶対に出しゃばらない。
 実はここからが本題である。「あの時、あなたの『アペーロ』を聴いてなかったら、こうしてブラジルに二度も来ることもなかったでしょうし、ぼくの人生もいまとは少し違ったものになっていたと思います」と来日公演の思い出を熱く語る竹村に対し、歌手は礼を述べた後、感慨深げにこう語ったそうだ。

 私もあの時はとくに心をこめて歌ったのよ。言葉の壁があるでしょう。
 だからブラジルで唄うより一段と情感をこめて唄ったの。

続いて日本人タンゴ歌手に教わったという「五つ木の子守歌」を同様に情感を込めて歌い、「ね、言葉の壁なんて問題じゃないでしょう?!」と自信たっぷりに言ったということだ(当盤ライナーより)。そういえば許光俊は三谷礼二と「詞がわからなければ歌はわからないか」について論争したのではなかったか。(たしか「クラシック、マジでやばい話」で紹介されていたはずだが、人に譲ってしまって手元にないため詳細は不明である。)私はこの問題については「解らんでも全然かまへん」派だから、こういうエピソードを読むと嬉しくなる。本当は何年も前からああでもない、こうでもないと考えてきたのであるが、かつて自分なりの考えを横浜のKさんが主催するマドレデウス関係のBBSに書き込んだことがあった。最初はそれを手短にまとめようと思ったのだが、面倒になったので例によって全文貼っ付けてしまうことにする。

 先週のチャットの話題の一つに、音楽を聴く場合に歌詞の意味を理解してい
 る必要があるかというのが上ったのですが、改めて考えてみると、僕はその
 歌がどういう内容・心境を歌っているのか大体の所が頭に入ってさえいれば、
 あとは聞き流していても構わないと思います。
  知人に、会話ではボディ・ランゲージや相手の表情、口振りなどの占める
 割合が圧倒的に高く(確か7〜8割だった)、純粋に言語が占める部分は実
 はほんの少ししかないということを口癖のように言っておった男がおりまし
 た。どういう根拠でそういう比率を出していたのかということを結局は訊か
 ずじまいになってしまったのですが、確かに僕の経験からいっても、外国語
 で話している時にはいくつかのキーワードだけを聴いていて、あとは前後の
 文脈や相手の表情に頼ることが多かった、言葉だけで完全に論理的に理解し
 ていたということはありえなかったと思います。日本語にしても、おそらく
 言語以外の部分が占める割合は我々が想像する以上に高いのだと思います。
  小林秀雄が古代の和歌について書いたエッセイで、本居宣長の「心を似せ
 るのは易しいが、歌の形を似せるは難しい」という意味の言葉を採り上げて、
 一見逆だ(形は易しくて心は難しい)と思われているようだが実は違う、宣
 長は正しいということを主張していました。歌というものは、例えば「悲し
 い、悲しい」と踊るように体を動かしながら叫んでいたものに、いつの間に
 かリズムが付いて出来上がったものである。であるから、古代人の悲しい気
 持ちは推し量ることができても、現代人には無意識のうちに踊っていたとい
 う心理状態に成ることは決してできない。確かこんな理由でした。騙されて
 いるような気もしましたが、妙に説得力がありました。
  これと結びつけるのはやや強引かも知れませんが、単語の意味を知らなく
 とも正確な発音を心がけながら歌を覚える、意味ではなく形から入るという
 のも、(以前は間違っていると思っていましたが)有効な手段ではないかと
 考えています。好きな曲の場合は、結局はどんなやり方でも頭に入ってしま
 うのでしょうが、形から入った方が早いだろうし理解もより深いような気が
 します。(赤ん坊が言葉を覚えるのだって、この方法ですからね。)聴く場
 合にも、外国曲では言葉の響きから伝わってくるものを虚心に受け止めると
 いうやり方の方が、むしろ歌い手の感情を正しく理解することができるので
 はないかと考えています。
  もっともドイツ歌曲、作曲者がハイネやメーリケ、アイヒェンドルフなど
 の詩に霊感を受けて書いたようなものでは、詩の占める比重は極めて大きい
 と考えられます。そういうケースでは訳詞ではどうにもなりません。まず詩
 の凄さを完全とは言えないまでも理解しておく必要があります。(偉そうに
 言っていますが、そういうことはなかなかやりません。ただし、「4つの最
 後の歌」の第3曲のヘッセの詩「眠りに就こうとして」は何度も音読するう
 ちに覚えてしまいました。本当にあの詩は凄い!)きちんと韻が踏まれてい
 る原詩を目で追いながら聴くということをします。しかしその場合にも、単
 語の意味を理解するというよりは言葉の響きに注意しながら聴くことを心が
 けています。                     (99/02/15)

上で「強引」と自分でも認めているが、実際のところ本居の「姿ハ似セガタク、意ハ似セ易シ」は「情感を込めれば言葉の壁は乗り越えられる」というカルドーゾの主張を必ずしも支持するものではなさそうだ。が、「言語に通暁していないと歌はわからない」みたいな狭量な考え方は止しましょうや、と言いたい気持ちは昔も今も変わらない。やっぱり強引な結びだな。なので、ここからは切り口を変えつつ話を飛ばす。
 上の10ヶ月後のことになるが、許が「クラシックを聴け! お気楽極楽入門書」で披露していた「芸術の中に存在する二種類の美」(その中身については既に他ページに記しているため割愛)について、私は同じBBSにまたしても駄長文を連ねた。要はマドレデウスのアルバムについて<抽象的な美しさ>の度合いがズバ抜けて大きい「陽光と静寂」、<感情移入型の美しさ>に比重が置かれている「風薫る彼方へ」といった分類を試みたのである。その最後にこんな但し書きを付けていた。

  と、ここまで書きましたが、ポルトガル語を母国語とする人はリアルタ
 イムで意味が解るので、やはり「陽光と静寂」にも感情移入するんだろう
 し、民族性とか個人差(音楽を右脳と左脳のどちらで処理するとか)も大
 きいんでしょうね。

そうなのである。つまり「歌詞が理解できる/できない」に関係なく歌に感動できる(イコール「歌を理解した」と私が考えているのは既に述べた通り)のは間違いないとしても、感動の種類は決して同じにはならないと思い当たったのだ。つまり同じ音楽を耳にした場合でも詞の理解度によって受ける感動に差が生じるのはもちろんとして、それは量的であると同時に質的な差異でもあるという訳だ。そこで、私は歌詞に使用される言語により3種に分けて考えてみることにした。(もっとも下は連続的であり、中身の難易度により1.8とか2.5というのも当然ありうるけれど、ここでは措く。)

 1.即時に意味が解る
 2.辞書があれば理解可能
 3.お経と一緒(チンプンカンプン)

1は基本的に日本語のみ(一部外国語も極めて平易な内容なら何とかなるか?)、2は多かれ少なかれ囓ったことのある外国語、3はその経験が全くない外国語(露語、中国語、タイ語、その他大勢)である。
 声楽の入らないクラシックやジャズ(つまり純器楽曲)と同じく、3は<抽象的な美しさ>を堪能するための音楽として位置づけられるだろう。ぼくは右から左へ受け流す。なので再生しながらの読書も可能である。右脳で音楽を、左脳で文字を処理するのだから全く問題ない。(それに眉を顰める人は少なくないだろうが知らん。)実のところ活字中毒者の私はほとんどそうなのである。ところが2は困る。所有しているポピュラー音楽CDの大部分がこれに属するのだが、中途半端に意味の分かる歌詞が耳に飛び込んでくるから、その度に活字に向けていた集中力が削がれる。頻度があまりにも多い場合は読書を中止する。が、聞き流しているようで時々は内容も把握できる歌というのは、音楽野(右脳)と言語野(左脳)が同時に働いている状態を作り出してくれると今になって気が付いた。そうなると、歌詞カードの文字を追いながら(時には辞書の助けも借りながら)音楽を聴くという行為は最近はやりの脳の活性化(ボケ防止)には結構効果があるかもしれない。(ちなみに私がほぼ隔週で足を運んでいる場所で読む週刊誌でも左右両脳を同時に刺激するとして「ながら聴き」の効用が説かれていたし、邦楽とともに洋楽やクラシックを聴くことも推奨していた。とはいえ、大相撲の八百長疑惑について盛んに書き立てていた雑誌だから、その記事も額面通りには受け取れないと思っているが。)1は最初から両立を諦めている。共に左脳を酷使するタイプの芸術を同時に鑑賞するような能力を私は持ち合わせていないから。この種のポピュラー音楽(つまり日本語曲)では、ひたすら<感情移入型の美しさ>を味わっていれば良いということである。しかしながら、私は既にあちこちに書いてきたように滅多に聴かない。とりとめのないままに終わりそうな雲行きで面目ないけれども、最後にその理由について記した文章を(今度は01/09/29付のKさん宛私信から)抜き出しておく。ある日本人女性歌手(既に「スペイン語圏の音楽」ページの番外として紹介済)の実力は十分認めながらも彼女が所属する音楽集団のアルバムを買う気になれないことに対する言い訳である。

 というのも、私は常々思っているように日本語歌詞がどうしても生理的に受
 け付けられないからです。(また最初が日本語で途中から外国語というパタ
 ーンはいいのですが、その逆に突然日本語が出てくることには抵抗がありま
 す。なおJ-POPの常套手段である必然性のない英語の単語やフレーズの挿入
 には憤りを感じてしまいます。)所有CDで日本語で歌われているものとい
 えば、ディアマンテスの2枚と、あとは小野リサ(ボサノヴァ歌手)の「ア
 ミーゴス」というアルバム中の1曲(「みんなのうた」で使用)だけで、純
 日本語曲のアルバムはゼロです。(あと合唱部に入っていた後輩から借りた
 武満徹の合唱曲集CDのコピーテープがあります。)いくら何でもちょっと
 極端な気もしますが・・・・・・私は周囲から「なぜ日本人の音楽を聴かな
 いの?」と尋ねられた場合、「俺よりも歌がうまいか良い声を持っている歌
 手でないとわざわざ聞こうという気にならん」と答えて呆れられています。
 これはもちろん冗談ですが、「これでもプロか?」と思わせる歌手がいるこ
 とは事実です。それはさておき、私の場合は歌詞の意味がリアルタイムに理
 解できてしまうことで却って音楽に集中できないというのが日本語曲を敬遠
 する最大の原因であるように思います。聴いていて恥ずかしくなるような歌
 詞だったら尚更そうです。(それでいて外国語の歌では歌詞カードを片手に
 単語を聞き取って意味も理解しようとするのはおかしいようにも思いますが
 ・・・・・・)

その後も夏川りみの3枚が加わった程度であり、今も状況はほとんど変化していない。

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