ルネッサンス(Renaissance)

Ashes Are Burning(燃ゆる灰)
1995(オリジナルLPは1973)
REPERTOIRE RECORDS REP 4575-WY

 フィリーパ・パイシュとアナベラのページ(ともにポルトガル語圏)で触れさせてもらったNさんが最近復活された。今年(2007年)9月からKさんの「マドレデウス掲示板」およびブログに登場されているが、何と8年ぶりとのことである。私宛にメールも頂いたが、その(おそらく)2通目にて「一聴の価値あり」として紹介されていたのが「プログレッシブ」というジャンルに分類されているらしき当の英国籍バンド、およびその代表作と思しき当盤である。ともに初めて耳にする名前ではあったが、冒頭に挙げたミュージシャン2名を教えてもらったことへの感謝の念をいつまでも持ち続けるだけの義理堅さを備えている私ゆえ、とりあえず聴いてみることにした。HMVで試聴しての印象は全く悪くなかったので、各種通販サイトとネットオークションをチェックして最も安価だった「塔」(セール中だった模様)に注文した。
 ただし気になることもあった。Nさんの「一言で表現すれば『クラシックとプログレの華麗な融合』でしょうか」というコメントである。それで思い出したのがアディエマス、奇しくも同国の音楽集団である。その名に聞き覚えがあった私は(註)、何年か前に隣町の図書館が所蔵していたCDを借りたことがある。(註:てっきり「マドレデウス掲示板」の投稿からだと思っていたのだが、過去ログを捜しても見当たらない。もしかするとアラ・ドス・ナモラードスとゴッチャになっていたのだろうか?)そして、あまりの騒々しさに二度と聴く気がしなくなった。(そういえば今年9月に出たプレイスネル作曲 "Silence, Night & Dreams" の紹介文中では、独唱者テレーザ・サルゲイロの所属団体であるとのトンデモ情報があちこちに流れた。私にとっては何とも忌まわしき名前である。)その旨をレスにしたためたところ、次に「ADIEMUSもうるさかったとなると、ちょっと厳しいかもしれません」と書かれていたので嫌な予感がした。が、聴いてみないことには話は進まない。そう思っていたところ、予想以上に品が早く着いた。(送料無料ラインをクリアするため例によって入手見込みの薄い品を同時注文していた。それはラフマニノフの「組曲第2番 (2台のピアノのための)」および「24の前奏曲」を収めた2枚組である。たぶん3度目の起用だったはずだが、なぜか今回は入荷してしまったのである。とはいえ、お値打ち&欲しいCDだったため問題はない。代用となる品を捜さなくてはならなくなったけれど。誰か知らん?)
 本題の前に余談だが、「尼損」のカスタマーレビューによると、このアルバムのジャケットには異なる写真が使われているようである。すなわち国内盤&USA盤用、およびUK盤用の2種が。私の買った後者は「アニーの表情が明るくて断然かわいい」ということである。少なくとも同所でタイトル検索してみれば、表示される画像の間に色調の違いが存在するのは確かである。また英盤/日米盤の方が縦横比が小さく/大きく、歌手がふっくら/ほっそりしているような印象も受ける。つまり、(ダイエット前後でもない限り)一方がインチキということである。(どちらかといえば日米の方がウソっぽい。)
 さて、トラック1 "Can you understand" 冒頭の銅鑼の音(それはマーラー「大地の歌」終楽章を彷彿させる、どころかはるかに上回る)に驚かされた私だが、続くピアノの忙しない旋律に唖然となり、さらにドラムスが加わってくるところで「こらアカン」と思ってしまった。断っておくが、私は単に音量が大きいだけなら別に何ともない。マーラーやショスタコーヴィチの交響曲でしばしば聞かれる阿鼻叫喚は大好きだし、ストラヴィンスキーやバルトークの管弦楽曲における打楽器のド派手な炸裂には気分がスカッとするくらいである。だが、金属系の打撃音が複数種、それもひっきりなしに鳴らされるのは辛い。(ブルックナーの78番とかドヴォルザーク「新世界」のように、シンバルやトライアングルなど1曲1〜2回程度で十分と考えている人間にとっては。)とにかく神経に障るが、チェンバロ(キーボード?)が入ってくるところ(1分23秒)でとうとう耳を覆いたくなった。こんな鍵盤楽器のツープラトン攻撃は絶対反則だ! などと、ついついザ・シークとタイガー・ジェット・シンの最凶コンビを思い浮かべてしまったが、さらに超苦手なエレキギターまでが加われるとなれば、フォークを持ったアブドーラ・ザ・ブッチャーが乱入してきたかのような危機的状況に陥る。(こうなればテリー・ファンクみたく血まみれにされる前に逃げ出すに限る。)もはや私にとっては拷問にも等しい騒音公害だが、我慢が限界に達する前に収まってくれたのは誠に幸いであった。もう少し遅かったらディスクを取り出すと同時に発作的に叩き割ったかもしれん。(既に1曲目から暴走全開であるとは自覚しているけれど、これは磨りガラスやチョークのキーキー音と同じく純粋に生理的な問題であるから私としても全く為す術がない。)
 再度の「ジャーン」に続いたのは「アーアアアアーアーアー」というよく解らないアカペラ。そして、ようやく音楽らしきものが聞こえてきた。3分少し手前から始まるギター伴奏は相変わらず五月蝿いが、辛うじて許容範囲に収まっている。やがて始まった女性歌手の歌はNさんが推薦されるだけのことはあると思った。なかなかに美声、そして歌唱力もある。が、またもや襲ってきた音の洪水に「早よ終わってくれ!」と叫びたくなってしまった。で、実際にスキップさせてもらった。曲想の移り変わりにまるで脈絡がないと感じられるのは何としても痛すぎである。(もちろん30秒程度の試聴では判るはずもなかった。)
 2曲目 "Let it grow" の序奏はピアノのみ、つまり前曲と比べたらはるかに静かな立ち上がりである。そして歌が入る。このように落ち着いて聴くことができてこそ歌手について語る気になろうというものだ。(ドラ息子にはもう少し節度を持っていてもらいたかったが仕方がない。)声のクリアーさはトップクラス。同じ男女2人組(註)ということで思い出したが、元モセダーデスのエスティバリス・ウランガ(Sergio y Estíbalizの片割れ)といい勝負だと思う。(註:もちろん私の勘違い。ブックレットを眺めていた時、表紙の男女だけでなく裏表紙のむさ苦しい感じの男二人 ─うち片方はどことなく若い頃の佐藤蛾次郎っぽい─ もメンバー、つまり4人組であると気が付いた。)ただしジックリ耳を傾けてみれば詰めの甘さが気にならなくもない。時に音程が不安定になるし、最高音(この曲ではF)で裏声を使っているのも感心できない、というよりこれでは透明度が激減してしまう。ならば最初から調を少し下げる、あるいはメロディラインを変えるべきではなかったか? それ以前に声自体どこかピンぼけ気味という印象を受ける。(ジャケット写真から連想したのでは決してない。)ファンにはそれこそが魅力的なのかもしれないが、一本芯の通った声を(とくに高音域では)好む私にはそうとは感じられない。加えて英語の発音もイマイチ美しくないと聞こえてしまった。(その点で世界最高峰のカレン・カーペンターを知っているだけにやむを得ないとはいえるが。)どうもケチ付けまくりの様相を呈しているようだが、実はいずれも贅沢な要求というヤツである。高水準かつ魅力的な歌唱を聴かせているのは間違いない。
 次の "On the frontier" は文句なしに合格。デュエットやコーラスに参加しているのは男性メンバーのようだが、女性歌手と実力が伯仲しているためか美しいハーモニーを堪能できた。続く "Carpet of the sun" も上出来である。サビの勇壮なメロディを聴くと清々しい気分になれる。最高音が少々金切り気味と聞こえるものの、前曲のように裏声で逃げるよりは断然良い。当盤がこれら2曲のような音楽でのみ構成されていれば、私もかなり高く評価できていたはずだ。惜しい。
 トラック5 "At the harbour" は冒頭から約2分間、ピアノソロが奏でられる。これは先述のカスタマーレビューによれば「ドビュッシーの引用」であり、CD化の際に国内盤ではカットされたけれどもUK盤では残っている箇所らしい。だが、私はこんな乱暴&鈍重なドビュッシーは聴きたくない。おそらくは繊細さを極め尽くしたような演奏 ─とりわけミケランジェリによる「決定盤」とも賞せられている前奏曲集などの名録音─ に当方が馴染んでいるためだろう。だが、それ以上に調もテンポも性格も何一つ共通するところのない楽曲を繋げてしまうという無神経さに腹が立ってくる。なので、件のレビューの投稿者による「やはりこれが無いといけません」には断固として異を唱えたい。仮に私が制作者だったとしても躊躇することなくバッサリ切ったはずである。(←これでレーヴェやシャルクの改訂をボロクソに言うんだからマッタク....)その後のギター(後にキーボードも参入)を従えた女声独唱は当盤中でも屈指の出来映えなのだが、またしても凡庸ピアノがしゃしゃり出てきてガッカリ。蛇足としか言いようがないではないか。ついでながら女性のヴォカリーズも(その前の名唱との関連という点で)存在意義がまるでわからない。中身の具は十分美味ながら、それを挟むパンがパサパサに干からびているため食べる気が起こらないサンドイッチにも喩えられよう。
 そして、ラストに置かれたタイトル曲 "Ashes Are Burning" で私は危うく奈落の底に突き落とされそうになった。出だしのニ短調による歌唱部分は秀逸。しかし、3分31秒から突如イ短調に移ると、あの恐るべきカタストロフが再びやって来る。こうなれば耐え難くなる前に自衛策を採るしかない。つまり「早送りの述」を駆使して何とか凌いだという訳である。7分半頃から始まる "2nd Part" のシミジミ歌唱の見事さは先のそれをも大きく上回っている。が、わずか1分ほどでエレキギターによる喧噪(←アルバムを締め括るに相応しいとは到底思われないのだが)に取って代わられてしまう。結局ここでも(=第1曲同様)ショスタコの第4交響曲(ただし両端楽章のみ)も真っ青というべき取り留めのなさに途方に暮れるよりなかった。
 ということで、私が当盤に収録されたトラックの多くに抱いた最大の不満は他でもない。構成の不備に起因する流れの悪さである。意図してミスマッチ状態を作り出そうとしたというなら話は解らんでもない(そして私にとっては縁なき「音が苦」である)が、そうでなければ配慮の欠如を非難されて然るべきだろう。無理して9分とか11分といった長い曲をこしらえようとしたのが敗因のような気もしてきた。(せめてCD化の際に細かくトラックを区切ることはできなかったのだろうか?)ところが、各種ネット通販における当盤レビューは最大級の賛辞で埋め尽くされている。見ていて気味が悪くなるほどに。(例えば2007年10月現在、「犬」通販ではユーザーレビュー17件のうち14件が「最高!」、残りも「すばらしい」である。)これには面食らってしまった。もしかするとヘンなのは私の耳の方だろうか? とはいえ、よくよく考えてみれば何かにつけて「少数派」の側に回ることの多い自分だし、要はこの「進歩的」なるジャンルを愛好する人達とは嗜好が180度ばかし離れているというだけのこと、特に気にすることもなかろう。あるいは「古典的」音楽の中でも私がとりわけ構造のガッチリしたブルックナーの交響曲を好んでいることとも深く関係しているかもしれない。
 もしノイズ同然としか聞こえなかった部分を上手く除去できたとするならば、音楽が80点以上を獲得するだけのクオリティを有しているのは明らかである。しかしながら、当盤を再び通しで聴く気には当分ならないだろうから、採点も自粛することにした。好意で薦めてくれた人に対するせめてもの礼儀と考えたことにもよる。何にしても音楽というのは所詮「そういうもの」である(ディアマンテスの目次ページ参照)。それに思いが至って以来、私は気に入っているミュージシャンなりディスクなりを他人に勧めることを控えるようになっているが、その逆のケースについてもムーディ勝山のスタンス(=右から左へ)を維持するべきかもしれない。(特に入れ上げる確率の低い家畜語曲の場合は。)何にせよ、納得のゆくまで試聴できないものには今後決して手を出すまいと自らを戒める私であった。

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