ナナ・ムスクーリ(Nάνα Μούσχουρη、Nana Mouskouri)

Nana Latina
1996
Mercury France 534 102-2

 名はともかく姓の語感に馴染みがないと思っていたが、判ってみればギリシャ人である。本ページの執筆のため訪れたja.wikipediaの「本名はロアンナ・ムスクーリで、政治家でもある」という記述には「へぇー」で済んだが、「1934年10月13日クレタ島に生まれた」に驚かされた。30歳以上も見誤っていたことになる。とはいえ、この人は当盤ジャケットに限らず、どんな写真でも本当に若く見える。あるいは眼鏡のお陰かもしれない。
 ところでメガネの女性歌手というのはかなり珍しいのではないだろうか? 私はほとんど記憶にない。(そういえばプロモーションに大金を注ぎ込みながらすぐ消えてしまったセイント・フォーというグループの1人がそうだったし、最近では平野レミが該当するか。)のみならずムスクーリが掛けているのはハッキリした黒縁フレームだから余計に目立つ。トレードマーク的に用いているのは明らかである。実際、名古屋出張の帰りにJR車両内でタワーレコード店内に置いてあった無料雑誌のページをパラパラめくっていた時も、他は顔も名前も忘れてしまったのに彼女だけは記憶に残ったから、それなりの宣伝効果を発揮しているのは確かだろう。
 フリオ・イグレシアスのページに「彼と同様の才人」などと書いたが、とてもそれどころではないと今になって思い知らされた。「15カ国の言語で約1,500タイトルの歌を発表」とのことだから「女性版イグレシアス」よりも「歌謡界のゴルゴ13」の方が相応しいかもしれない。それはさておき、この歌手が西語圏の名曲を集めたアルバム(すなわち当盤)を発表していると知ったため聴いてみようという気になった。程なくアマゾンにて安売り中古をゲット。しかしながら、残念なことに期待が満たされることはなかった。
 またしてもウィキペディアだが、「憂鬱、切望、および感傷的な黙想を愛の歌によって、かもし出している(彼女の声色は、例外的にその曲想に合っている)」は改めて読んでもサッパリ解らない。だが、少なくとも(外見だけでなく)若々しい声と十分な歌唱力を備えているのは間違いない。あらゆる言語に対応可能、しかも万人に抵抗なく受け入れられるような歌い方ができる。それも認めよう。(だからこそ長いこと世界的人気を保っていられるのだろう。)にもかかわらず、私は何としても物足りなさを覚えずにはいられない。どうやら耳当たりが滑らかすぎることに尽きるようだ。
 いきなりトラック1の "Sé que volverás" でイグレシアスとのデュエットが実現。だが、決して「夢の共演」にはなっていない。ソフトながらも芯の通った歌を聴かせてくれている男性歌手に対し、女性の方は単に浮ついているだけで重心がまるで据わっていないという印象。それは最後まで変わらなかった。次の "Madreselva" もタンゴなのだから少しぐらいはシャキシャキッとリズミカルに歌うべきではないか。4曲目 "Yolanda" に至っては、パブロ・ミラネースによる超名唱(自作自演)と比べたら魅力半減以下だ。"Gracias a la vida"(トラック7)や "Alfonsina y el mar"(同9)もオリジナルの素晴らしさを知っており、かつ私のようにラテン音楽に(いい意味での)「こだわり」を持っている人なら十中八九不満を抱くはずと信じたい。とにかく西語最大の持ち味といえる歯切れの良さがまるで感じられないのは痛すぎる。(なお両曲に挟まれた "Credo - Misa campesina" では、おそらく初演に参加したであろうメルセデス・ソーサがゲスト参加しているが、宗教音楽にもかかわらずロック調という曲自体が私にはチンプンカンプンなので「どーでもいい」という気分である。)
 イライラがピークに達したのはラス前(11曲目)の "India"、言うまでもなくパラグアイを代表する名曲である。これも耳当たりは良い。だが、結局はアッサリ流しているだけ。それ以上に憤慨したのが、リズムが後に引く(最後の1拍あるいは2拍を長く伸ばす)というグアラニア本来のスタイルを全く無視し休止をタップリ取っていること。(この暴挙と比べたら続く "Cuando sale la luna" が唐突に終わってしまうのも微罪レベルといえる。)「無難」も時と場合によっては「邪道」となりうることを歌手は知るべきであった。
 ということで曲90点、歌唱50点として両者の平均値を求めたら√(90×50)=67.08203932・・・・(もちろん無理数ゆえどこまでも続く)、よって67点としておこう。(←何でここだけ相乗平均を出すんだよっ?)


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