以下はある文学関係サイト掲示板への投稿文であるが、どういう流れでこんなのを書くことになったかはよく憶えていない。何にせよ、例によって一切手を加えずに載せる。

  帰国途中に寄ったのですが、チリやアルゼンチンには美人が本当にそこら
 中にいました。日本のアイドルも真っ青というのが地下鉄の車両に少なくと
 も1人は乗っているというような感じでした。ある同僚は、ヨーロッパ系に
 少しモンゴロイドの血が混じっているから、純粋なラテンやアングロサクソ
 ンよりも美しいという「雑種強勢」説を主張していました。(確かに彼女た
 ちを見た後では、米国人は比較するのが可哀想に思えました。)ところが、
 私はその時点で女性の美しさの基準をすっかり覆されてしまっており、美を
 感じることはありませんでした。
  ここで、その「覆されてしまった」ことについて書いてみようと思います。

  休暇を取ってボリビアに行ったときでした。(それまで村人達と過ごして
 いた時には感じなかったことなのです。やはり環境が変わったことが大きか
 ったのでしょう。)ボリビアは先住民の人口比が高いだけでなく、混血も先
 住民の血の方が圧倒的に濃く、チリ人やアルゼンチン人とは全く逆でした。
  最初のエピソードは地方都市の大聖堂に早朝入ったときのことです。最初
 は誰もいないと思っていました。中央に祭ってあるイエス像に近づいて眺め
 たりした後、右に歩いて聖人の像を拝もうとしたとき、祈っている女性の姿
 が目に入りました。中は暗かったし、斜め後ろからだったので顔は全く判り
 ません。しかし、それまで一度も感じたことのない美しさのために、暫くの
 間動くことができませんでした。
  次は、首都ラパスの郊外にある遺跡に行ったとき。高速を通る旅行者用バ
 スは何十ドルもかかるので、普通のバスで坂をジグザグに上りながらゆっく
 りと行きました。いろんな人と荷物で息が詰まりそうなほど満員でした。そ
 ういうわけで、着いたときにはかなり疲れてしまい、遺跡見学はそれほど楽
 しめなかったのです。少し後悔しながら帰りのバスを待っていました。待合
 所に先住民(アイマラ族)の物売りのおばさん達がたくさんいました。彼女
 たちは帰るまでのひとときを雑談で過ごしていました。会話はアイマラ語で
 全く解りませんでしたが、仕事を終えた充実感が伝わってきました。このお
 ばさん達は身長150センチ未満で小太り、決して容姿は美しいものではあり
 ません。しかし、この時にも思わず「何と美しい姿だろう」と思わずにはい
 られませんでした。
  これらの経験によって、「女性の美しさは祈りと労働で決まる」というの
 が私の持論となりました。旅行から帰ってみると、今まで見えなかった村人
 達(やはり先住民)の美しさがいろいろと見えてくるようになりました。本
 当に貴重な経験をしたと思っています。
 
  ということで、私は太っていても痩せていてもそんなことは全然関係ない
 と思います。ただ、不自然な痩せ方にはやはり抵抗感があります。人為的に
 痩せようとすること、あるいは痩せているように装うこと、要するに不自然
 なのは苦手ですね。やっぱり、野に咲いている花の方が人工的に作った「奇
 形」である園芸の花よりも好きなのと同じです。最近、ジャガイモやトマト
 などナス科作物の元々きれいな花だけでなく、イネの花もなかなか美しいじ
 ゃないかと思えるようになってきました。あれで立派な実も着けるんだから
 大したもんです。
 
最後の一節は明らかに余計だという気がするが、おそらくそこで触れていることが執筆の動機となったと思われる。
 ところで、帰国後しばらくしてからのことであるが、ある美術本(たぶんアサヒグラフ別冊)を農学部図書館で眺めていたところ、それに載っていた1枚の絵画に私の目は釘付けとなった。上で触れている「祈りと労働」を、これ以上は考えられないというほど見事に表現していたからである。ゴッホ作「カラスのいる麦畑」の複製の前でしゃがみ込んでしまった小林秀雄ほどではないかもしれないが、私もあまりの美しさにしばらく動くことができなかった。誰の何という絵かおわかりだろうか? (ちなみに今でも一番好きな画家である。次がモネ。ゴッホは第3位グループだが、彼の作品で最も気に入っているのは初期スタイルによる「馬鈴薯を食べる人々」である。)

戻る