タニア・リベルタッ(Tania Libertad)

20 de Colección
1996
Sony LATIN CDL-81909/2-470609

 テハーノのセレーナとは異なり、こちらは正真正銘メキシコで活躍する歌手である。ただし生まれはペルーであるが。なお歌手の姓が閉音節で終わっているため日本語表記には大いに迷うところである。スペインの首都(Madrid)と同じく、ネット上では「リベルタ」「リベルター」「リベルタード」「リベルタッド」の4種が混在しているようだが、思い切って「リベルタッ」とする。本来なら認められない綴りであるとは承知しているけれど。(実はそれ以上にシックリ来るのが「リベルタッd」なのだが、さすがにこのチャンポンを採用する勇気は湧いてこなかった。ついでながら今スペイン語を習っているペルー人は末尾の“d”をかなり明瞭に発音するので当初は違和感を覚えてしまった。)
 横浜のKさんの「マドレデウス掲示板」で相当な実力者であると評判だったため私も聴きたくなった。(当時の常連投稿者だった元関西在住ネット知人Mさんが非常に高く評価されており、ご自身のサイトには独立したページを立てられている。)そして程なく入手したのが当盤である。通販サイト等には購入記録が残っていないから、たぶん生協の店頭でカタログを捜し、収録曲が多そうだとの理由でこのベスト盤を注文したと思われる。(ちなみに同シリーズでは他にモセダーデスも持っている。)実際20曲で74分強収録だからコストパフォーマンスは抜群。のみならず聴後の満足感も結構なものであった。感想を後日先述のBBSに書き込んでいる。ここに再掲する気はないが、好感度90%ぐらいの内容だった。
 今聴いても「透明感のある声」「いろんな声を持っている」との印象は変わらない。そう滅多にはいないと思わせるほど歌の上手い人であるという点についても。ところが、私はいつしか当盤を聴くのが苦痛になってしまった。Mさんには少々申し訳ない気持ちだが、彼女のページで採り上げられていた "Alfonsina y el mar" および "Gracias a la vida" に対する評価の大幅下落がその理由である。まずは当盤のトップに置かれた前者から。
 メルセデス・ソーサのオリジナルが約4分半なのに対し、リベルタッはほとんど8分を掛けてネットリと、そして時に朗々と歌い上げている。独奏ハープのみの伴奏は上品そのもの。だが、声色をコロコロ変える歌手は必ずしもそうではない。2巡目の出だし(4分13秒)の囁くような歌い方を耳にして「ちっとは節度を持てや」と抗議したくなってしまった。とにかくあざとい。これはアルゼンチンおよびボリビアに実在した8人の女性の生き様を題材とした歌曲集 "Mujeres Argentinas" からの1曲である。主人公はいうまでもなく彼女たちなのだ。お前が目立ってどうする!(一歩引いてあくまで淡々と歌い、音楽に語らせることに成功していたソーサとはえらい違いだ。)エリゼッチ・カルドーゾのページに記した「カントーラ」「インテルプレータ」という分類に従えば、リベルタッが前者のスタイルで臨んだのは明らかであるが、この曲では絶対に許されるべきことではない。(なお2枚組ベストアルバム "30 Pegaditas de Tania Libertad" に採用された別音源の方は、トラックタイム4分43秒と常識的テンポを採用しており、試聴した限りだが不快感は覚えなかった。)
 13曲目 "Gracias a la vida" にも言いたいこと(もちろん不満)が山ほど積み上がっているけれども、繰り返しになりそうだから簡潔に済ませたい。今になって思い出したが、これを聴いてビオレータ・パラのオリジナルに当たってみようという気になったのではなかったか? あれを知ってしまった今ではいかにも演出過剰と聞こえて嫌になる。特にわざとらしさ全開の歌い出しにイエローカードでは軽すぎだ。以後の大仰な歌い方にしても、悲劇的な最期を遂げた原作者への追悼は二の次で自身の歌唱力のアピールに躍起になっているとしか聞こえないぞ! やはり第三者としての立場をわきまえた上でこの種の音楽をカヴァーするならしろと言わせてもらう。
 他の曲には憤りを感じるほどのことはなかったものの、特に感心することもなかった。トラック12 "Concierto para una voz" はタイトルが何とも思わせぶりだが、中身を巧く言い表していると思う。のみならず曲想と声質が合っているため、印象も途中までは悪くない。危うさ(外れそうで外れない)を伴った旋律を歌うには繊細な声であればあるほど望ましい。ところが間奏に入った少し後(1分51秒)から始まるネスカフェ・ゴールドブレンドのCMの劣化コピーみたいなヴォカリーズにゲンナリ。何故にこんな不自然な歌い方をするのか? 最後の30秒ほどの裏声っぽい歌唱を耳にしてさらに気持ち悪くなってしまった。上記BBSへの投稿に「12曲目には鳥肌が立った」とコメントしたけれど、今では別のブツブツ(ジンマシン)が出てきそうである。かつて「この人の鼻に掛かったような声と細かいビブラートがかかるところは苦手」と書いたが、それらに対する強烈な抗体ができあがってしまったためであろう。
 他のトラックも似たり寄ったりである。メキシコを代表する作曲家ヒメネス(José Alfred Jiménez)の作品(計4曲収録)など音楽自体はどれも素晴らしいのだが、せっかくの名曲が歌手の自己主張によって台無しにされている。例えばトラック19 "Cuando sale la luna" では、サビのフレーズの終わりを繰り返し大袈裟に伸ばす歌手に私は腹が立って仕方がなかった。
 唯一気に触ることなく最後まで聴き通すことができるのがトラック8 "El primer amor" だが、それは曲が短い(2分16秒)ことに加え、共演者パブロ・ミラネース(Pablo Milanés)の存在がリベルタッの独り相撲を阻止しているからに他ならない。(他にデュエット曲で採用されたトラック11 "Tres palabras" は相方がお付き合いしているため落第である。)なお、ここで見事な歌唱を聴かせているキューバの大歌手ミラネースについては、いつか当サイトで採り上げることになろう。及第点(70点)に達しているのはこの曲のみ。他は50点、ただし私的大憤懣曲の2つを30点として計算すると・・・・48点になった。予想外の高得点である。(←どこが?)


México, Lindo Querido
1993
Sony LATIN CDL-80948/2-470676

 これほどまでに悪し様に述べた歌手のディスクを何故もう1枚買ったかといえば、早い話、魔が差したからである。(関東出張の際に寄った中古屋で525円、あるいは315円だったか?)後悔するには冒頭の数十秒で十分だった。上のベスト盤をも凌駕するわざとらしさ! これ見よがしな語尾の引っ張り方が特にいただけない。歌う側にとっては気持ちよいのかもしれないが・・・・(また、マリアッチの伴奏も騒がしすぎの感があり、歌がユニゾンで被さってくるところは鬱陶しくて仕方がない。)そういえばMさんのサイトにこんな記述がある。

 彼女は15歳でペルーでアイドル歌手でデビューしているのですが、
 そのペルー時代の録音は入っていません。ペルーでCD化されてい
 るらしいのですが、タニア本人は、その時代のことに触れたくない
 ようです。

またKさんのBBSにて歌手がアンデスのフォルクローレ集を出しているか尋ねたことがあったが、そういうのもないらしい。それでいてアフリカ音楽のアルバムなんぞを発表しているそうだから首を傾げたくもなる。何にしても(よほど嫌な思い出があるのかもしれないが)自分が生まれ育った国には随分と冷淡なようだ。
 それゆえ、この実に伸びやか&晴れやかな歌唱を耳にして「ああ、メキシコって何て素晴らしい国なんでしょう。それにひきかえ(以下略)」という歌手の内心がモロに反映しているのではないかと考えてしまったのだが・・・・やっぱ下衆の勘繰りかなぁ?(邪推はタイトルの命名にまで及んでしまう。)何にしても私は当盤を正当に評価できる立場にはなさそうである。よって採点も自粛する。

おまけ
 「フォルクローレの女王」「ボリビアの国民的歌手」とまで称されるスルマ・ユガール(Zulma Yugar)という女性歌手がいる。前世紀にH氏が貸してくれたディスクには特に感動することもなかったのだが、最近あるサイト(註)にアップされている音源を聴いて考えを改めた。(註:そのURLの国コードは "ru"、つまりロシアであるが、実際西語と露語のページが混在している。その "Musica Andina" という目次ページから100近いミュージシャンのディスコグラフィへのリンクが貼られ、行った先でmp3ファイルによってCDが丸ごと試聴可能だが、どう見ても違法である。)彼女のアルバム "Tierra Sin Mar" の冒頭に収められた "K'oli Pankarita"(ケチュア語、アイマラ語のどっちなんや?)など絶品としか言いようがない。一方、北半球に移ってしまった人も歌は十二分に上手いのだから、そのまま留まっていれば覇を競うほどの存在になり得たかもしれないのにね。

追記
 本文で触れた「アフリカ音楽のアルバム」だが、その "África en América" と題するCDが竹村淳の「ラテン音楽パラダイス」で紹介されていたことに遅ればせながら気が付いた。レビューは「彼女の母国の音楽に寄せる熱い思いが感動的だ」と結ばれている。これまでリベルタッのことをボロクソに書いてきた私だが、行き掛かり上聴かずに済ます訳にもいかなくなった。急遽アマゾン・マーケットプレイスで捜索し、400円(ただし盤にスリキズ有り)で売られていた中古を注文した。よっぽど酷い出来でなければ下に評を書き足すことになるはずだ。ところで、メキシコ移住後の歌手について「安易なボレーロ歌手に成り下がった観がなきにしもなかったが」と評しているサイトを見つけたが、その作成者は件のディスクを聴いて「大きく評価を変えた」そうである。当盤を「安易な」の典型ではないかと思っている私にとっても見直しの切っ掛けを与えてくれるだろうか?


África en América
1994
Sony LATIN CDZ-81368/2-470888

 「ラテン音楽パラダイス」のCDガイド(フォルクローレの項)によると「ペルー音楽がアフリカ音楽から負っているものを鮮やかに提示して衝撃的な反響を呼び、米ビルボード誌で1994年のラテン音楽セールス・チャートNo.1にもなった名盤」とのこと。さらに直上にある他盤の紹介文には「いまペルーで大きな広がりを見せているアフロ系の音楽のアウトラインがわかるようになる傑作アルバム」との記述がある。著者の竹村淳によると「1600年代にはリマの住民の2/3をアフロ系人口が占めた(註)といわれるだけに、アフロ系音楽の浸透も早かった」そうである。(註:ただし現在の人口比率は1%程度と非常に少ない。)もっとも私の嗜好と必ずしも合致しているジャンルではないため、当盤入手前から不安を抱かないでもなかった。何はともあれ聴いてみた。
 1曲目 "Sarambé" の出だしから驚かされる。強烈なリズム、現代的な伴奏。いつリベルタッの歌が入ってくるかと思っていたが、待てども待てども。で、またしても驚いたことには女性合唱の1人かと思っていたのが彼女だった。これまで聴いたアルバム2枚とは共通点を見い出すことすら極めて困難な音楽である。それは以降のトラックも同じ。2曲目 "Civilización" は例によって大袈裟に抑揚を付けた歌唱ながら、バック(器楽&コーラス)もそれに負けじと応酬しているお陰か辟易させられるようなことはなかった。
 ところで、ケース収納の歌詞カード(八つ折りの紙)には歌手とアフリカ人達を共に収めた写真が複数使われているが、そこでの彼女はとにかく楽しげな表情をしている。それをそのまま音にしたのが当盤の収録曲という印象である。ラストの "Gotas de miel (Ensangrentadas)" を除くトラックに合唱が参加しているが、彼らと完全に同化していると思えるほどにも呼吸はピッタリ合っている。なお、アフリカ由来らしき様々なリズムが登場するが、私にはそれが激しければ激しいほど出来が良いと聞こえた。どうやら彼女は(上で槍玉に挙げた南米の有名曲のように)下手に洗練された音楽を相手にするよりは野趣味に溢れたものをレパートリーとした方が適性を発揮できるようだ。(その点ではブラジルのガル・コスタと通ずるところがあるような気もする。デュエットも面白いか?)
 このようなチャカチャカ系は本来私の好みではないはずだが、最初からアフリカ音楽と思っていれば決して気に触ることはない。ただし大部分(12/13)のトラックに西語歌詞が採用され、それゆえの違和感を覚えてしまったことが惜しまれる。(なお歌手の姓と同じ "libertad" が ─ もちろん「自由」の意味で ─ 用いられているのを何度か耳にした。)要は私が勝手に抱いている西語曲のイメージとは曲調があまりにもかけ離れていたに過ぎない訳だが、もし冒頭の "Sarambé" と同じく全曲が得体の知れぬ(歌詞の字面を見てもサッパリ分からないような)言語で歌われていたなら、もっともっと音楽に没入できたはずである。その結果、さらに高く評価できていた可能性もある。とはいえ、歌手の実力と魅力が遺憾なく発揮されていることは言を待たず、「名盤」「傑作」という世評にも偽りはない。90点。

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