リリアナ・エレーロ(Liliana Herrero)

Recuerdos de Provincia
2003
Epsa 0263-02

 2006年10月の初来日に合わせてリリースされた "Litoral"(邦題「リトラル」)がCDジャーナルで絶賛されていたが、通販サイトでの試聴ではあまり感心できなかったのでスルーしていた。ところが、NHKラジオスペイン語講座テキストのInformaciónコーナーに「あのメルセデス・ソーサが自分の後継者と公式に指名したほどの実力の持ち主」とあったので「そこまで評価されているなら」とディスク購入の検討を始めた。(あるいは通しで聴かないと真価が分からないのかもしれないとも考えた。)とはいえ、先述の新譜は少々高い。ということで、マルチバイ25%割引を利用すれば1370円で買える当盤にした。
 入荷まで結構待たされたのだが、その間に気になっていたのが「犬」サイト掲載の当盤ジャケットである。一辺約12cmの正方形のうち上の3/4が少々くすんだ水色、下の1/4が灰色で塗りつぶされている。ただし境界部分(幅2mmほど)は黒である。これを見て私は水田土壌(註)のようだと思った。(註:田に水を入れると土壌は表層数mmの酸化層と酸欠状態になった還元層とに分かれる。)そこに何やら植物が4本生えているように見えたのだ。実際に入手してみたら、"LILIANA"、"HERRERO"、"RECUERDOS"、"DE PROVINCIA" という4種の文字列だった。(うち2番目と4番目のフォントサイズが他より少し大きい。)それらが水色領域の下方に斜めに置かれていた。始点がほぼ黒ラインと接するようにして。(上手く言えてないなぁ。)ケース裏のデザインも同じで、こちらは収録曲のタイトル(横書き)とトラックナンバー(縦置き)を組み合わせた14の文字列を配置している。どちらも水生植物、とくにヨシやマコモのような抽水植物(水底の土中に根を張り、葉や茎の少なくとも一部を水上に出すタイプの総称)が生育する様を表しているようである。そういえば上記 "Litoral" のジャケットも歌手が顔の半分のみを水面上に出しているという異様な図柄である。(ちなみにオーマガトキ販売の国内盤は1枚ものであるが、オリジナルは2枚組でDISC1をパラナ編、DISC2をウルグアイ編としているらしい。)なお、辞書でこの語を引くと「沿岸の」という訳が出てくるが、とくにアルゼンチンではパラナ河とウルグアイ河に挟まれた一帯を指すらしい。エレーロは、その "Litoral" を有するアルゼンチン北東部のエントレリオス(Entre Ríos)州出身である。ところで、同義の英単語(形容詞)"littoral" は私が思うに名詞 "litter" から派生していると思うのだが、これには日常会話的に使われる「ゴミ」「屑」など以外に「落葉」「腐葉土」といった意味もある。(土壌や植物に関係した研究分野では無理に訳さずそのまま「リター」としているのもよく目にする。)それゆえ私は抽水植物の群落から成る広大な平原(その下にはリターの部厚い堆積層が存在)が果てしなく続く様を連想してしまったのだが、現時点では西語の "litera" が同様に「リター」の意を持っているか否かが不明である。それゆえ、いつの日かこの目で確認するため現地に足を運ばねばなるまいと思った次第だ。それはともかく、「(エントレリオス)州の思い出」という意味のアルバムタイトル、およびジャケットの趣向から判断するに、当盤にも「リトラルの精神」(意味不明)が注ぎ込められていることは十分に窺える。
 とは書いたものの、トラック1 "Chayita del vidalero" から既に不可解、というより不気味ですらあるため私は面食らってしまった。打楽器(ボンゴ?)による短い伴奏の後に歌手が歌い出す。これが何とも型破りなのだ。また伴奏として最初は電気楽器(シンセ?)が通奏低音を重ねているだけだが、やがてエレキギターやドラムスなども加わってくる。それらがことごとく「自分の好きなようにやっている」といった体なのだ。が、しゃがれ声の歌手がやはり一番目立っている。意図は全く不明ながら3分過ぎで絶叫する。そして僕は途方に暮れる。南米というよりアフリカ音楽に近い感じさえする。(歌詞に耳を傾けなければ間違いなくそう錯覚してしまったはず。)
 先述の紹介記事や各種メディア(公式サイト含む)で用いられている写真の中に悪戯っぽく笑っている歌手を撮影したものがある。とても印象的だ。初見時には反射的に「無邪気」とか「やんちゃ」といった言葉が浮かんだのだが、子供心を残したまま大人になったような人ではないかとも思った。さらには路上や公園などで歌っていた吟遊詩人がスカウトされてプロになったのではないか、とまで考えたのだが、公式サイト (tanimon.com.ar/liliana_site/index.html)掲載の経歴にはエレーロが小さい頃からピアノを習い合唱隊で歌うなど真っ当な音楽教育を受けてきたとあるから、結局は私の妄想に過ぎなかったということである。ただそうなると、この「無手勝流」とでも評したくなるようなスタイルは一体どこから来ているのか気になって仕方がない。ちなみに彼女は大学で哲学を専攻し、現在に至るまで音楽活動のかたわら国立大の哲学科で教鞭をとっているという話だから、それ(哲学)がどういう形でかは知らないけれども音楽に反映している可能性はある。
 とは言ったものの、やっぱりわからんものはわからん。明らかに悪声寄り、そして歌のレベルも正直なところ「ヘタウマ」に該当しよう。だが、歌手はそれを全然気に懸けていないようである。曲の構造自体がルーズというか相当に自由(註)であるが、それを良いことに好き放題歌っているという印象も受ける。(註:伴奏がピアノのみというトラック2、5、7、および14が最も顕著であるが、形式感が希薄であるという点では他も似たり寄ったりである。)しかしながら、こういうのを聴いているうちに妙な気分になってくる。曖昧表現ながら「味」があるのだ。(その点で10曲目 "Vida la de Lucho" はピカイチである。余談ながらiTunesでの試聴中にタイトルを訝しく思ったのだが、どうやら "la" と "de" の順序はこれでOKらしい。)加えてどの曲からも一種の「生命力」(やはり真っ直ぐ伸びる抽水植物に由来?)が伝わってくる。「大地の歌」ではマーラーになってしまうので、とりあえず「大地の叫び」とでも形容しておこうか。(これも月並みだな。)いつしか真摯に耳を傾けている自分に気付かされる。どうやら只者でないらしいということだけは判った。そんな訳で評価の非常に難しいアルバムではあるが、ひとまず90点を付けておく。なお、14曲目 "Toda mi vida entera" の大熱唱で当盤は締め括られるが、直後に歌手&共演者の笑い声が収録されている。「『私の人生はみーんな冗談だったよ』とでも言いたいのか?(あんたはベートーヴェンか?)」と突っ込みを入れたい気分にもなる。大抵こういうのは減点対象にするのだが、これもどういう訳か許せてしまった。
 終わりに当盤評とは直接関係ないけれど、最初の段落に記した「メルセデス・ソーサの後継者」には異を唱えさせてもらう。芸風があまりにも違いすぎるんでないかい?

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