亀井勝一郎著「信仰について」の第四篇「信仰の無償性」にこんな文章がある。

 人間の発した最も悲痛な言葉は、フョードル・カラマゾフの
 次の叫びに要約されるであらう。
 「もう一つぺん最後にはつきり言うてくれ。神はあるのかな
  いのか、これが最後だ!」
(註:この台詞には全て点によるルビが振ってある。)

この後も「人間の存続する限りこの叫びは永久に絶えまい。何ものかに向つて発せられた怒号だ。」のような壮絶な言葉が延々と続き、最後の「── 人生に耐へよ」でこの章は締め括られる。ついでながら拾遺集に収められた「真宗の名において」ではこんなのも出てくる。

 実を云へば、私が心中ひそかに恐れてゐるのは共産主義者の
 宗教否定ではない。キリスト自身と対決し、その眼をまとも
 にみつめて之を否認したイワン・カラマゾフだ。
(註:この随筆では「共産主義は、必ずしも宗教の最大の敵ではない。むしろ弱敵である。」という自説が展開される。亀井はその理由としてマルクスによる宗教批判の「致命的弱点」、すなわち「キリスト自身の言葉が唯一つも引用していないこと」を挙げているが、以下も非常に力強い。「たとへば『色情をいだきて女を見るものは心の裡すでに姦淫せるなり』といふキリストの言葉とマルクスは対決したか。対決した上で否定したのならば話はまだわかる。彼はキリストの眼をまともに見ることが出来なかつたのだ。この言葉は果して民衆の阿片であるか。民衆を盲目にするものであるか。私はすべての共産主義者に問ひたい。」そして次の段落では「マルクスはキリスト対自己を、キリスト教派対共産党派にすりかへてしまつた」と断罪した上で、共産主義者の常套手段であるこの種の「すりかえ」によって「ふしぎにも従来の権力性を帯びた宗派宗教に酷似してくる」と厳しく批判し、「要するに共産主義とは宗派宗教に対する嫉妬なのかもしれない」と結んでいた。)

このやうな亀井による引用から非常に強い印象を受けたことが、「これは何としてでも『カラ兄弟』を読まねばなるまい」と私が決意した最大の理由である。しかしながら、上は実際にはコニャックで散々酔っぱらったフョードル(三兄弟の父)が末子アリョーシャに向けて放った半ばからかい口調による台詞であり、必ずしも深刻とは言い難い場面だったから少々拍子抜けした。(さぞかし断末魔のような悲鳴が物語のクライマックスにて聞かれるだろうと期待していたのに・・・・)
 これに対して大江の「叫び声」には正真正銘の悲痛な言葉が出てくる。語り手である「僕」は、かつて共同生活していた呉鷹男を彼が収監されている東京拘置所に面会に行く。在日外国人の鷹男は強姦殺人の罪(ただしストーリーからは実際に強姦したのか微妙)により一審、二審とも死刑を言い渡され、最高裁の判決を待っていたが、自分自身を救助しようという意志は全く持っていなかった。ほとんど毎日牧師に会っているという鷹男は、もうすぐ洗礼を授けるという新聞報道に反し、自分は神の不在を確かめるために(牧師の宣伝をきいて、どこかに神の不在をかぎつけたいと思って)会っているのだと「僕」に告げる。それを聞いての独白がこれ↓

 僕にはいうべき言葉もなかった、ああ、神様、神様、本当に
 あなたに、存在しないでもらいたい、と僕は呉鷹男のために
 祈りたい思いだったのだ。

神に向かって「存在しないでもらいたい」と「祈る」とは! これこそが「人間の発した最も悲痛な言葉(祈り)」であると私は声を大にして言いたい。次の鷹男の台詞がまた痛々しい。ちょっと長いが載せてしまえ。

 「もし神が存在するなら、おれは無限時間、人殺しというこ
 とで厭な夢をいつも見なければならん、死刑というのは処罰
 だからね、償いではないからね、あれは時に生きている他人
 どもへの教育でしかなかったりもするからね。そこでおれは
 存在する神に、ひとつ返事してやりたいんだよ、おれは有限
 時間のほうへちょっと生きてみて、楽しいことはすこしもあ
 りませんでした、と厭味の返事をね、人殺しは楽しくないん
 だから」

打っていたら語り手同様に涙がこぼれそうになってきたのでもう止めるが、上は「罪と罰」の考え方が目を引くのみならず、強烈な生の否定ということでは大学院生時代の私が夢中になって読み、そして叩きのめされた「地下生活者の手記」や「永遠の良人」にも決して負けていない。「個人的な生活」以前の大江作品には、他にも「われらの時代」「青年の汚名」「遅れてきた青年」「日常生活の冒険」のように優れた長編が少なくない。若書きゆえ多少の生硬さは感じられるかもしれないが、後に批判されることになる例のこねくり回したような文体および外国の作家あるいは詩人からの大規模な引用(これら2点について大江は「取り替え子(チェンジリング)」の登場人物を使って半ば自嘲気味に語っている)はまだ見られず、比較的読みやすいため広くお奨めできる。

2006年12月追記
 某掲示板をはじめ、ネットにおける大江健三郎の人気はなかなかのもので、検索すると「国賊」「売国奴」呼ばわりしているページがドドッと出てくる。が、大江作品をあらかた読んでいる私には、時に「土下座外交」などと蔑まれることも厭わず、彼がネット右翼にとって絶好の攻撃対象となるような行動をとり続けていることも理解できなくはないのである。1935年生まれで軍国主義の時代に少年時代を過ごした彼が小学校の教師など大人達から受けた数々の体罰やハラスメントを自著(主に初期作品)中のエピソードの題材としているのは間違いない。そういう視点も含めて大江批判を展開しているようなサイトは、少なくとも一般人(特に匿名の書き手)が作成したものの中にはほとんど存在しないのではなかろうか? (とりあえず見たことがないのは事実である。)が、それはそれで別に構わないと私は思っている。ましてや「小説を読んでもいないクセに」などと偉そうな口を叩くつもりは毛頭ない。ただし、「実は私は大江の作品は全く知らないのですが、」といった断り書きをわざわざ入れているブログ等(決して少なくない)を目にすると胸糞が悪くなる。これでは執筆者が何らかの後ろめたさを感じていると受け取られたって仕方がないではないか。他人に石を投げつける前に逃げ道を用意しておくようなみみっちい真似なんかしなはんな、とも言いたくなってくる。

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